プロローグ
薄暗い室内に天井の四角い天窓から、一筋の柔らかな光がさしこんでいた。
どこからか聞こえる小鳥の鳴き声が、朝が来たことを知らせ、作業に夢中になっていた男は、ふと、顔を上げた。そのままカメラのレンズについた埃をブロワーで払う手を止め、耳をそばだてる。
コツン、コツンと一定のリズムで堅い床を叩く音と、ズルズルと布にくるまれた重たい何かを引きずる音が交互に聞こえてきた。やがて音は男の真後ろで止まった。
「準備はできたか」
重く、かさつき、しわがれた声だった。まるでひと気のない山奥に何十年も前からそこに存在する、巨石が出す声のようだった。
「はい」
男は手元に視線を置いたまま、短く答えた。
「後悔はないか」
「はい」
今度は素早く、唇を動かした。この期に及んでまだ覚悟を疑われるようなことはさすがに嫌だったからだ。
「そんなものは最初からありません」
「そうか」
しわがれた声は淡々と答えた。
「お前だけが頼りだ」
足音が遠くなっていく。それが完全に消えた頃、男はようやく息を吐きだした。やたら大きく響きだした鼓動を抑えるように、胸に手をやる。
笑え。
どこからかそう声が聞こえた気がした。大らかで優しい、懐かしい声だ。
男は無理やり顔の筋肉を動かすと、壁にかけられた鏡に自分の顔を映してみた。鏡の右半分は割れてひびが入っていたが、表情を確かめるくらいなら十分だ。
鏡に映ったその顔は、笑顔という概念を数分前に知った人間のようにお粗末に頬を歪めていたが、普段の自分からすればそこまで酷くはないと男は思った。
そろそろ時間だ。
男はこれから起こることを頭の中で一通り反芻したあと、緩んだ頬を引き締め、精神を集中させた。
まだ先は長い。だが、初めが肝心だ。決して失敗は許されない。自分ごときが足を引っ張るわけには絶対に行かないのだ。
あの人のために。
男はブロワーを棚に戻し、今一度深呼吸をしたあと、部屋の外に向かって歩き出した。