萩野涼香
物事の何においても、始まりというのは肝心だ。
終わりがあれば始まりがある。僕は今、一つの終わりと一つの始まりの狭間にいる。
中学生活は無難に楽しかった。サッカーをやってて得られたものは健康な体と有り余るスタミナくらいだったけれど、後者については過酷を極めた受験勉強に奪われてしまっただろう。あんな馬鹿みたいに走れる気は、もうしない。
良くも悪くも、中学生活について語ることはそのくらいしかない。明日からは夢にまで見た高校生活。義務教育の時代は終わった。これからは僕の意志で勉強を選んだ、という建前で生きていく。自ら勉強しようとしない人は、働かないといけない年齢だ。
だけど、そんな建前はどうでもいい。高校に入った以上、誰もが思い描くもの。僕もそれを奪いに行こうと思っている。中学時代にサッカーに没頭することで奪われた青春。それを少しでも多く高校生活で取り戻すつもりだ。つまり僕は勉強するために高校に入ったのではない。もっと青春をエンジョイするために高校に入りました、とでも断言しようか。
青春を謳歌するための要素はそろっている。僕は地元の田舎の高校ではなく、都会の進学校にお世話になる。その間、学校備え付けの寮で生活する選択肢もあったが、何故か父の妹、すなわち叔母の家に滞在することになっている。叔母は公務員なのだが、いろいろと帰りが遅くなるらしい。つまり実質的一人暮らしがそこにはある。
そもそも都会に出るという行為こそが青春を彩らせてくれるはずだ。サッカーの大会で訪れた時にはうらやましく思ったもんだ。そこかしこにコンビニがあり、カラオケがあり、ゲーセンがあり、要は「サッカーではない何か」がありすぎる。義務教育とともに娯楽はサッカーだけという退屈な時代も終わりを告げ、とにかく僕にはキラキラと光る輝かしき青春を謳歌するイメージしかできない。いかなる妨害も起こりえないし起こさせない。
僕は左腕の安い腕時計に目をやる。夕方の六時。四月になって辺りはまだ明るいが、この時間になると少々冷える。寒いのでスマホを確認する。リンクトークを確認すると、叔母から「着くから荷物持って家の前に立ってて」とのメッセージが最後。やたら雑でズボラなイメージのする文面だが、祖父母の葬式で会った時の叔母のイメージはおしとやかな大和撫子だ。小学生の僕もなんでこの人に旦那がいないんだろう、と疑問に思っていた気がする。親戚からしても少し魅力的な大人の女性だったはずだ。
ピッピッ、と荷物を抱えた僕の前方で自動車のサイレン音が鳴り、僕の視界は黒色のスマホから現実へと引き戻される。家の前にはレーシングレッドの高そうな左ハンドルのスポーツカーが止まっていて、手前の運転席のウィンドウが開く。
「孝浩くんお久しぶり。意外と男前になったわね」
叔母さんの本体は、やはりイメージ通りの黒髪通りの大和撫子だった。たぶん着物を着て茶を出したりしたらそれだけで結婚を決意する男性も多そうだけど、この人はなぜか黒のTシャツを身にまとい、海外メーカーの赤くていかついスポーツカーを乗り回していらっしゃる。ギャップ萌えは適用外。致命的に似合わない。
「いやいや畏れ多いっす……あの」
おばさん、と呼ぼうとして踏みとどまる。年齢は確か三十路中盤から後半。この時期の女性におばさんなんて声をかけようものなら、予定された青春生活の拠点たりえる生活基盤すら無きものにされてしまいかねない。えっと、このよくわからん叔母の名前は……涼香さんだ。萩野涼香さん。ちなみに僕は萩野孝浩です。誰に紹介してんだってね。
「荷物。座席の後ろにスペースあるから」
「あ、はい。ありがとうございます」
左ハンドルなのでぐるりと回って右側の扉を開け、荷物を椅子の後ろに下ろす。荷物と言っても肩から下げた黒字に青のラインが入ったエナメルバッグくらいで、その他生活用品はすでに涼香さんの家に宅配済みだ。
「じゃあ車出すから。シートベルト」
「あ、すみません」
僕が扉を閉めるかしめないかのタイミングで赤いスポーツカーは発車。慌ててシートベルトを締める僕。なくなる会話。久しぶりに親戚に会ったとき特有のギクシャク感が車内に立ち込めて、早くも僕の青春計画に暗雲が立ち込めてきた気分。この先大丈夫か……。
ちらり、と涼香さんのほうを見る。美人、なのだと思う。確か四十に近かった年齢とは思えないほど肌はきれいだし、顔立ちも整っていて、古風で清楚な女性を連想させる。が、首から下に目をやると、何か腸の飛び出たゾンビみたいなものがうごめく派手なロゴの入った黒シャツと、迷彩柄のパンツに黒の長ブーツというアレなファッションを好んでいらっしゃるようで、車の中に立ち込めた親戚同士の噛み合わない微妙な空気と違った意味で、またしても僕の青春天気予報は集中豪雨の予報にされた気分だ。
「悪いな。吸うから」
涼香さんはドアの取っ手の下の収納からタバコを取り出して、しゅぼっと火をつけ、窓を開けた。蔓延する煙の臭いが、幼き頃から抱き続けた萩野涼香像を破壊し、蹂躙する。大和撫子はタバコなんて吸わないのだ。
「孝浩……って呼ぶけどな、お前そんな無口だったか? 少しは可愛げのあるガキだと思ってたけど。根暗か?」
それなりに明るく黄色い声だと思うのだけど、台詞自体は男前だなあ。顔面とそれ以外の服装車内環境雰囲気その他すべてが奇跡のミスマッチすぎてもう。親戚一同に笑顔を振りまいていた涼香さんはどこに行ってしまったんだろう。
「いや……その、なんというか……親戚の方に久々に会った時の気まずさってありません?」
「はあ? いっちょ前に気ぃ使ってんじゃねえよ……」
決して気を遣ったわけではなくて困惑していただけだけど、そんなことは指が二十本折れても言えない。予定された華やかな高校生活に自ら水を差しかねない行動は控えて当然。
「一応お前とは一つ屋根の下で暮らすんだからよ……そういうのはナシな」
「あ、ありがとうございます」
答えると前方を見ていた涼香さんの視線が一瞬僕を捉えた。何とも言えない視線だ。何か悪いことしたか、なんて考えたけど、答えは出ない。
「そのありがとうとかすみませんってのを辞めろっつってんの。私だって素を出してんだからよ、お前も堂々としてりゃいい。それとも何だ? お前は私に家の中でも営業スマイルを振りまけって言うのか?」
五年前の祖母の葬儀で会った時のアレが営業スマイルだと言うのなら見事なものだ。僕は五年間ずっと騙されていたことになる。だからできるだけ堂々とした態度を意識して聞いてみた。
「じゃあ、逆に営業スマイルってのはどんなのですか?」
「あん? まあ営業スマイルってのはものの例えだけどな。私くらいの歳になると素の自分を出して生きていくのも難しいってわけよ。普段はネコ被ってんの。高校は楽しいぞ少年。高校大学が終わってから私はずっとネコ被って生きてきたよ」
高校生活始まってないのに青春終わった後の話しないでください。そんな現実はまだ聞きたくもないし知りたくもない。たぶん知る由もないだろうけど。
「まあ何だ。私は結構お前と暮らすことについては前向きに考えてるからよ。楽に行こうぜ」
最初はびっくりしたけど、涼香さんは基本的に悪い人ではないらしい。そして僕はなかなか好意的に受け入れられているらしい。なので、言っておかなければならないことがある。
「言うの、できるだけ最後にしようと思いますけど。その、本当にありがとうございます。寮に入るって選択肢もあったのに、わざわざ受け入れてくれて」
また涼香さんは僕を一瞥した。さっきよりは優しい視線だったと思う。
「……よせよ。私のキャラじゃねえ。ってかあのクソ兄貴から最初に話されたときは突っぱねたんだけどよ」
「普通はそうでしょうね」
僕だって分別はわきまえている。涼香さんの家にお世話になることが当然だと思っているようなクソ野郎にはなりたくない。一定の感謝は話が決まった時からしていたし、実際に会ってみてその気持ちはうなぎのぼりの右肩上がりだ。
「星洋の寮ってのは色々と制限があるし門限も早くてな。私はそのせいで色々とやり逃したことがあんだよ。変にそういうとこばっか頭硬くて進学校っぽくしたがるのが昔から腹立ってたからさ」
事実、僕が通うことになる私立星洋高校は進学校で、毎年数人が東大にも受かっている。自分でも受かるなんて思っていなかったとまで言っておこう。だけど、周囲を納得させたうえで思い描く青春を手に入れるために頑張ったのも事実だ。このくらいしないと都会には出れないだろうと思っていた。
でも涼香さんが星洋の卒業生だなんて知らなかったし、ここまで好意的に受け入れてくれるなんて思ってもみなかった。青春の神がいるなら、僕はいくらでも祈りを捧げようと思う。実質的一人暮らし開始という僥倖は想像すらしていなかった。
「じゃあ僕はその分高校生活を楽しまなきゃいけないですね」
「ああ、楽しめ楽しめ。高校も大学も楽しかったけどよ、これからの三年間は誰にとっても最初で最後の最高で最強な三年間なんだぜ」
枷が外れた気分だ。サッカーは嫌いじゃない。むしろ好きだ。だけど、それは僕の求める青春じゃない。僕の求める青春は、スポ根だけでたどり着けるような生半可なものじゃない。友達を作ったり、遊びに行ったり。誰かに恋したりもするかもしれない。彼女が欲しい気持ちは、僕くらいの歳の男なら誰だって持っている。そんなのは普通だと思うかもしれないが、普通に過ごすことは簡単なようで一番難しい。平凡は、求めた時点で凶悪なラスボスに成り代わる。
「……頑張ります」
「そんな気張らなくてもいいっての」
「ええ……おばさんが」
「涼香さんだ」
速かった。僕が「ええ……おばさんが励ましてくれたんじゃないですか」って言おうとしてつい口をついたその単語を、初めから狙いすましていたかのように。それはもう速かった。チーターも某速さが足りないあの兄貴もびっくりなくらいに最速だった。
「涼香さんと呼べ。二度とその呼び方をするんじゃない。いいね?」
涼香さんの発した最後の「いいね?」はいやに優しい笑顔で、狙いすまされた獲物である僕から見れば恐怖と戦慄の営業スマイルだった。二度とこの単語は使わないようにしよう。青春生活どころか命まで落としかねない。
「わかりました!」
「いい返事だよ。ところで孝浩?」
怖い怖い。笑顔自体は素敵だけどほんと怖い。目が笑ってないことはないけどプレッシャーとか威圧感とかそういう圧力がすごい。
「これからお前と同じ家で暮らすわけだが、家事の分担とかそういうのは始める前から決めるのが公平だよな」
「はい」
「まさかタダで居候しようなんて思っちゃいねえだろうな」
「はい、頑張ります」
涼香さんの放つ三十路色の覇気に屈服して、僕はイエスマンと化している。というより、この機嫌が悪くなった涼香さんに反抗できないし、する気もなければする度胸もない。
「料理苦手なんだわ」
「結構得意ですので」
「ついでに掃除も面倒なんだわ」
「結構綺麗好きですので」
「ゴミ出しが一番面倒だよな」
「曜日を覚えればいくらでも」
「肩こりがひどくてなあ」
「マッサージの勉強をします」
「いや、最後のは冗談だよ少年」
うん、炊事と掃除をどうやら任されてしまったらしい。そのくらいならお安い御用だ。実質的一人暮らしのためには、いかなる犠牲もいとわないさ。
家事分担の話が終わると、ちょうど車がスピードを落とし、住宅街の一軒家の前で止まった。そこまで大きな家ではないが一軒家。一軒家にスポーツカー。公務員の謎の財力を垣間見た。納税者の気持ちを逆なでするような組み合わせだなあ。車は家の前の駐車スペースにバックして前に出てを三度ほど繰り返して停車した。
「まあ……あれだな。おかえり」
照れくさそうに涼香さんが言うので、なんとなくこっちも恥ずかしくなって。
「た……ただ、ただいま」
盛大に噛みまくってしまった。うわー恥ずかしいクッソ恥ずかしい。穴があったら入りますのでそのまま埋めてミイラ化させて五百年後くらいに見つけてください。
「どっかのクソ教師の口調が伝染っちまったな……いや、キャラじゃねえことはやるもんじゃねえな」
独り言をぶつぶつ言いながら車から出た涼香さんは、荷物をまとめて車から出たのを確認してリモコンキーで車にロック。そのまま後方の家のドアまで歩き、鍵を開けた。
しかしクソ教師か。まさか星洋の先生じゃないだろうな。
「涼香さん、そのクソ教師って星洋の先生だったり?」
「ああそうだよ。同級生。どうでもいいこと言ってねえでさっさと上がれ。お前の部屋は二階に上がって左の部屋だよ。荷物も運んでやったから。右の部屋は倉庫だから絶対に開けるんじゃねえぞ。一回開けたらいろいろ大変だからな」
どんだけだよ右の部屋。そしてクソ教師が高校にいるというのは由々しき事態でしかない。僕の青春に傷がつきかねない要素は排除しないといけないのだ。少なくともそのクソ教師とやらが担任でないことを祈ろう。
掃除が苦手だと言っていたが、玄関はちゃんとしていた。むしろ塵一つないくらいきれいで、涼香さん潔癖症説が瞬時に浮かんでくるほどだ。
「それじゃ、いったん失礼します」
「だからそういうのやめろって。ここはてめえの家だと思え」
玄関から伸びる廊下の右半分が階段になっていて、ひとまず僕は涼香さんに挨拶してからあてがわれた部屋に向かう。もうあいさつする必要はないらしい。部屋には大小さまざまな大きさの段ボール箱と机、ベッド。ありがたいことに机とベッドは涼香さんが組み上げてくれたようだ。個室まで用意してくれて、家具もくみ上げてくれている。感謝してもしきれないくらいだが、窓の外の景色に目をやって一つ問題に気付いた。
「てか何これ、近いな……」
単刀直入に言って、隣の賃貸マンションとの距離が近すぎる。僕の部屋から隣の部屋のベランダまでの距離、およそ五十センチ。簡単に渡れてしまう。しかも薄ピンクのカーテンがかかっていて、どう考えても隣人さんは若い女性の方。竜虎並び立つあのラブコメみたいな青春は求めたいけど、実際にそんな状況になると気まずい以外のない物でもない。いやほんと気まずい。
カーテン入れてたの、どの箱だったっけな……。