第八話
僕は跳ね起きた。
「うわぁ」叫び声が聞こえた。「びっくりしたぁ」
肩で息をする。
「ミツキちゃん、大丈夫?」ルシナだ。「おーい、見てる?」
ルシナが僕の前で手を振っている。
「大丈夫」僕は答えた。
「じゃあ、先生呼んでくるね。ちょっと待ってて」ルシナはぴょんと立ち上がった。
どうやら僕の部屋だ。といっても、泊まっている部屋だが。顔を回して時計を見た。十時を指している。それから窓を見ると明るい。朝だろうか。
朝という概念があるのだろうか。それとも、かつての地球のように、きちんと朝と夜を分けているのだろうか。僕は考える。
嫌な夢を見た。
内容は覚えていないが、首が熱い。
「ナナキ」僕は口を動かして、ナナキを呼んだ。「ナナキ」
返事がない。
「ナナキ?」
その時になってようやく、僕はゴーグルを付けていないことに気がついた。服も違う。白い貫頭衣に変わっている。僕は辺りを見渡すと、少し離れたところに置かれているソファに、僕が着ていた服が置かれていた。
……深く考えないことにする。
僕は立ち上がり、ソファに移動した。めまいを感じたが、それほどひどくはない。丁寧にたたまれた服の上にゴーグルがある。僕はそれをつけた。
「ナナキ」
小さな機械音がゴーグルのイヤホンから聞こえる。どうやら寝ていたようだが、僕の声に反応して立ち上がる。
「おはよう」いつもと変わらぬ調子でナナキの声が聞こえた。「ミツキ、大丈夫か?」
「うーん、まあ、大丈夫かな。僕はどうやってここまで来た?」
「女王の間で倒れて、しばらくしてから運ばれたようだった。ゴーグルがずれていたせいで、はっきりと分からないが、数人がかりだったと思う」
「音声は?」
「運んでいる最中はほとんどなかった。けど、ミツキが倒れて、アルセトとギンナが言い争っていたようで、それでも結局彼らも中に入ることにしたみたいだ。この部屋に着いた頃には、念のため、こちらもスリープ状態にしたから。情報が必要なら、スリープ中のデータを解凍してみるよ?」
「そうだね」僕は考えてから返事をする。「もしかしたら後でお願いするかもしれないから、念のため保存しておいて」
「分かった」
「失礼するよ」ナナキの声と同時に、入り口から男性が入ってきた。水色の服を着ている。無駄な装飾はなく、シンプルなデザインの服だ。今まで会った中で最も高齢。髪には白髪が混じっている。彼の後ろにルシナが見え隠れしている。
「どうも、クルドです」クルドはまっすぐ僕の前まで来た。
僕は答えない。
「立っても大丈夫そうだね。頭を打ったと聞いたが、今痛いところは?」
僕は答えない。
「まぁ、無理は禁物だ。外出は極力控えること」
一応縦に首を振る。害はなさそうだ。僕の首肯に安心したのか、クルドは二度頷いてから、僕にカプセルを手渡した。
「薬だ。といっても、ほとんどただの睡眠薬だ」クルドは肩をすくめる。「困ったことがあったら、インフォメーションまで」
「外出はダメなのでしょう?」
クルドが声を出して笑った。「そこに電話がある。内線はシャープを押してから。十四がインフォメーションだ」
それから二、三質問をして、クルドは出て行った。ルシナが見送りに一緒に外に出て、すぐに戻ってきた。ここの医者なのだろう。ルシナが先生と呼んでいたな。
「ダーイブッ」
戻ってきたルシナが突然僕めがけて飛びかかってきた。逃げる暇もなく、声も出せず、僕はソファに尻餅をついた。
「よかったぁ。心配したんだから。クルド先生が大丈夫って言ったんだから、もう大丈夫だね。ルシナちゃんも安心だわ」
「だからって、いきなり飛びつかれても」
「ミツキちゃんはかわいいね」
僕の首に絡まりながら、ルシナは嬉しそうに目を細めた。僕はちょっと照れる。
「そういえば、パーティって、あれからどうなったの?」
「もう、大変だったんだから。ミツキちゃんってば、酔っ払って倒れちゃったって」
酔っ払って、倒れた? 確かに酔ったけれど、あれは……
「女王は?」
「うん?」ルシナは不思議そうに僕を見上げた。「なんか、パパが言ってたんだけど、寝室でしばらく休んでるんだって。アマナ様にも休養が必要だとかなんとか」
「へぇ」僕はルシナを見ないようにして頷いた。「女王って、大変なんだね」
「うん、そう思う。あたしには無理って感じ」
「今日パパは?」
「どこかで掃除してるよ」
「ちょっと話したいんだけど、呼んできてくれないかな?」
「いいけど、何で?」
「だって、外出禁止だから」
ゴーグルからナナキの笑い声が聞こえた気がした。僕の思考パターンなんて単純なものだ。ちょっとずるいかな、と思ったけど、悪い選択じゃない。ルシナは分かった、と言うと、僕から離れた。
「それじゃあ、ちょっと待っててね」
ルシナはパタパタと足音を立てるように部屋から出て行った。それを見送ってから、僕はゴーグルに声をかける。
「ナナキ、昨日のあれ、夢じゃないよね」
「昨日はたくさんいろいろなことがあったからね、あれってどれだい?」
「女王のことだよ」
「夢ではない」
「解析できる?」
「映像だけでは難しいな。おそらくミツキと同じ程度の感想しかない」
「本当にあれって女王だったのかな?」
「そうだろう」
「頭がなかった」
「着ていたドレスは昼に会った時と同じものだった」
「問題は中身だ」
「あの映像だけでは分からない」
僕は頷いた。アマナの手の感覚を思い出す。冷たい手だった。温もりのない、冷たい手。けれど確かにあれは人間のものだった。それから、首筋がゾクッとする。夢を思い出し、それから吐き気を覚える。
「ミツキ?」
「何でもない」
「心拍が尋常じゃない。休んだほうがいいだろう」
「何でもない、大丈夫だ!」
ナナキからの通信が途絶えた。否、ゴーグルをしている限り、トレースされている。けれど、それで十分だ。
僕はバスルームへ駆け込むと、シンクに胃液を吐き出した。昨日から結局ほとんど食べていないのだから、仕方がない。
息を整え、前を向く。鏡があり、自分の姿が映っている。大き目のゴーグルを掛けていて、顔の表情は見えないが、きっと怒っているのだろう。残念ながら素敵な表情とは言いがたい。口元を水ですすぎ、一度大きく深呼吸をする。
部屋をノックすると音がする。僕は返事をして、ソファがある部屋に戻った。失礼するよ、と声を出しながら、アルセトが入ってきた。
「顔色が悪いな、クルドを呼ぼうか?」
「大丈夫。これくらいのこと慣れている」僕は言いながら、ソファに座る。僕の動きに合わせて、アルセトも向かいのソファに腰かけた。昨日と同じで上半身が裸だ。
「ルシナから元気そうだと聞いていたから」
「寝起きはいつも機嫌が悪いんだ」僕はソファに深く座りなおして、アルセトから距離を取った。「それよりも、昨日のことを聞きたい」
「あ、ああ」アルセトの顔に動揺が表れる。
「皆に知らせたのか? 皆、というのは、つまり、ここの住民に」
「いや、まだ知らせていない。知っているのは、昨日あそこに居合わせたメンバーくらいだ」
「なぜ?」
「もちろん、このまま、隠蔽しようと考えているわけではない。そんなことは、不可能なことだ。それに、女王がいなければ、迎え入れることができない。これは致命的なことだ」
アルセトの目が激しく動き、落ち着かない。
「僕でまだ二人目だと聞いた。それがそんなに大切なことなのか?」
「これが顕在化された問題だと感じるようになったのは、ごく最近になってからのことだ。限界が近づいているのは確かだし、このままでは……つまり、子供に恵まれなくなる」
「僕は、悪いけどここに永住する気はない。いずれここを出ていく」
「ああ、もちろん分かっている」
「それに、ここに子供を残したいなんて思わない」
「それも、分かっている。だからこそ外からの使者を多く迎え入れなければならない」答えながら、アルセトは両手で頭を抑えた。
「外からの扉をもし女王にしか開けられないのだとしても、単純な機械的なシステムだと思う」僕は腕を組んで考えた。「だからシステムを調べれば、扉の開閉なら難しいことじゃないと思うよ。僕は専門じゃないけどね」
「それは考えた」抑えていた頭をあげると、アルセトは力なく笑った。「けれど、そのシステムがある場所が、つまり女王の間なんだ」
「入れない」
アルセトは頷く。
「けれど、昨日は入ってくれた」
「誰もが反対した」再び顔を伏せてアルセトは小さく言った。「だからと言って、そのままにしておくわけにはいかない」
「ありがとう」僕は少しだけ体を前に倒す。「女王も?」
「いいや、誰も触っていない。ミツキだけを運び出した。そのままだ」
「それじゃあ」
「問題は、あれが誰なのか、ということだ」
アルセトは僕が思っていた疑問を口にした。
「ミツキとマナミを部屋に送ってから、エドとギンナの三人で話し合ったんだ」アルセトが顔を上げ、僕をまっすぐ見る。「あれが誰なのかはっきりするまで、公表するのを控えた方がいいのではないか、と」
「頭がなかった」
「ミツキも、あの時あれが女王だと」
「分かるはずがない。僕が女王に会ったのは一度だけだし」
「まずはクルドに知らせる」頷いてからアルセトは続ける。「彼は唯一、以前から女王の間に入っていた。女王の健康管理のためにね。彼が調べれば、あれが誰なのかすぐに分かるだろう」
「犯人が……」すぐに言い直す。「頭を切ったのが、女王だと?」
「いや、それはない」
「なぜ言い切れる?」
アルセトは僕の質問には答えずに、再び俯いてしまった。
「僕は、あなたたちが何かを隠しているように感じる」僕はアルセトを睨みながら言った。「あれが女王でないのだとしたら、頭を切ったのが女王だという考えに不自然はない。もちろん、違う可能性も考えられる。けれど、何を根拠にそれはないと言い切れる?」
「女王が、そんなことを、するはずがない……いや、これは俺の思い込みか」
「あなたたちにとって、女王とは何なのですか?」
「遠い存在だ。決して触れることのできない」アルセトは俯いたまま答える。「いと高き所、すなわち、この世界の最も内側に住む者」
「その言葉の意味を、あなたは理解している?」
「いいや。女王とは、という教育を受けている。けれど、その言葉の意味は考えたことがない。大地が下にあるように、空が上にあるように、女王は内にある」
僕は彼らが、この世界について教育を受けていない、ということが分かった。おそらく、これがここの方針なのだろう。そのことについて、僕が意見を言うべきではない。
「秘書であるマナミは?」僕は質問を変えた。
「彼女もあそこに部屋を持っている。けれどそれだけだ。やはり遠い存在と思っているだろう」
「2人は姉妹なのでしょう?」
「マナミの姉が女王、ということになっている」
僕は表現に違和感を覚える。
「何かを隠していませんか?」
アルセトはやはり答えようとしない。何かを隠しているのは明らかだが、それを明かそうとはしてくれない。けれど、アルセトの様子から、明かしたくないわけではなさそうだ。僕は、いずれ彼が話してくれるだろうと考え、話をまとめる。
「とにかく、誰かが女王の間で殺された。誰かが女王の間で殺した」
「その通りだ」
「ここの住民を調べてみれば、すぐに判明するんじゃないか?」
「まずは、クルドに相談してみる」
「ありがとう、もういいよ」
僕は疲れた、というジェスチャーをした。多分成功しただろう。アルセトはしばらくしてから立ち上がると、無理はしないように、と言い残して部屋を出て行った。
僕はソファに深く腰かける。ゴーグルを操作し、思い出しながら昨日の様子を再現する。
女王の間。
薄く青の入ったドレス。
両手は、膝に添えられている。
失われた頭。
なぜ?
僕はその手に触った。
冷たい、けれど、人間の手だった。
「ミツキ、心拍数が上がっている」
「分かってる」
「熱もあるようだ」
「酒のせいだろ?」
「アルコールはもう抜けている」
「ナナキ、僕がそこを離れてから、僕みたいな訪問者がそこに来なかった?」
「旅人ってこと?」
「そう」
「誰も来てないよ」
「では、女王がそちらからの侵入者によって殺された可能性はない?」
「ないだろう」
「そう」
「だけどミツキ、旅人じゃないなら、訪問者があったよ」
「へぇ、誰?」
「女王だ」