第十九話
「ギンナが、死んだ?」僕とアルセトと一緒にエレベータに乗り上へ向かっている途中で、エドが驚いた声を出した。「死んだって、どこで? どうして?」
「秘書の間の、コンピュータがたくさん置かれているところです。彼はあそこで、ここのシステムについて調べていたのでしょう?」
すぐにエレベータは上階に着く。ちょうど正面にはクルドが女王の間の前に立っている。
「キーボードに、うまく隠れるように針が刺してありまして、気づかずに指先が刺さってしまい、毒が回ったのだと思われます」
「だけどそれって」秘書の間の前でエドは立ち止った。「つまり、殺された、ということなのか?」
「状況的に考えて、彼が殺されたのは間違いありません。そして、それは簡単な方法でした。ですが、それを仕掛ける必要があります」僕はここでいったん言葉を止めてから、クルドを手招いた。「マナミは眠ってる?」
「ええ、あれから一度も起きていません」
「少なくとも、秘書の間に入る必要があります。少なくとも、エレベータに乗って、ここまで上がってくる必要があります。それとも、今回の件も、外から来たものが秘書の間にそれを仕掛けたと解釈できるでしょうか?」
「いや、ないな」クルドがすぐに答える。「まったくもって、その行為は不条理だ。意図もわからないし、そんなことをする必要がない」
「その通りです。どう考えても、それは不自然すぎます。ということは、中の人間の内の誰かが、これをやった」
僕の言葉を受けて彼らは互いに互いの表情を見た。僕の、言外の意思もくみ取ってくれたようだ。
「俺たちの内の、誰か、ということか?」
「あなたたち以外で、ここに来られる人は?」
「可能、不可能で言えば、もちろん誰でも可能だが」クルドは言いながら首を振る。「女王の間に自分たちが入らないように、この三人以外でここに入ってくる者などいまい。もちろん、好き勝手に上がってくることはないが」
「エドさん」
「は、はいっ」エドがびくっと振り返る。「何でしょうか」
「資料室の鍵を取ってきてもらっていいですか? 一応手で触るところには気を配ってもらって……それに、ギンナの遺体もまだそのままですが」
「わ、分かった」どもり頷き、彼は秘書の間へと入った。
すぐにギンナを見つけたのか、短い悲鳴が聞こえる。僕は扉の外から、壁面に映っている女王の間の映像を見る。ベッドに寝ころんでいるマナミの足先が見えていて、内心ほっとする。その足先も、時々寝返りを打つように動いている。
「お待たせした」焦燥した顔でエドが戻ってくる。「この鍵です。一階の、先ほどまで食べていた食堂からすぐ近くの部屋で、ちょうどこの建物の隅に当たるのですが、案内しましょうか?」
「案内はアルセトにしてもらいます」僕はアルセトに視線を送り、続いてクルドを見る。「クルドは、ギンナを。深夜に下に降ろすことになるでしょう。エドは、女王の間の外からでいいので、マナミの様子をうかがっていてください。先ほど彼女から、二人の関係をうかがいましたので、そのほうが気が休まるでしょう」
僕は鍵を受け取り、彼らの反応を確認しながらアルセトを連れてエレベータの枠内に入った。一礼
をしてから、エレベータを稼働させ下に向かう。アルセトは僕のすぐ隣に立ち、困った表情をしながら咳払いを一度した。
「どうしました?」
「いや……先ほどの話だが、本当に三人の中にギンナを殺した人間がいるのか?」
「彼を狙ったのなら」僕はずっと先に見えている観覧車を見ながら答える。「狙ったのが、マナミだとしたら、あの針が仕掛けられたのはずっと以前になります。そうなると、誰が犯人なのかもう誰にもわからない。ですが、資料室で女王の歴史について調べれば、あるいは手掛かりがあるかもしれません」
陳腐な音とともに、エレベータは止まった。二人で並んでそのまま左手の通路を進む。食堂を右手に見ながら進み、奥の角についている部屋の前でアルセトは止まった。そこの扉を、僕が差し出した鍵で開ける。
「ありがとう」僕は感謝の意を表して、中に入った。資料室、と呼ぶのにふさわしい状態だ。シンプルな構造の棚に、ファイルがたくさん置かれている。ちょうど正面にはいくつもテーブルがあり、周りに椅子も用意されている。どちらかと言えば、教育機関にあるような図書室のような印象だ。資料とは関係のない、図書館にこそふさわしい古書も数多く並んでいる。
「ええっと、ミツキさん」資料室の正面に立っているアルセトが、そこから僕に呼びかける。「自分は、どうしたらいいかな? 念のために聞くけど、誘ってるわけじゃないですよね? 以前家内に、鈍いと叱られたことがあるんだが」
「誘っ?」僕は驚いて振り返る。「僕があなたを? もしも僕が普通にここに来て、ここでの生活を満喫していたらそうなったかもしれませんが。残念ながら普通な状況じゃありません。必要なのは僕の遺伝子なのでしょう?」
「いや、すまない、忘れてくれ」アルセトは上半身裸の姿変わらずだが小さく縮こまった。「遺伝子が必要だというのは、以前話した通りだ。かなりここの状況は末期ではあるからな。それでも、自分はルシナに恵まれているし、あなたに生んでもらう必然性はないわけで」
僕はゆっくりとアルセトの近くに、焦らすように近づいた。その動きに、彼がそのまま反応する。「あなたのことは存外嫌いじゃないですよ。最初のぶしつけな態度とか、僕の好みではあります。でも、もっと強引な方が好きですね」僕はアルセトから鍵を預かった。「どうぞ、今度からは無理矢理に来てください」そのまま部屋から追い出すと、内側から鍵をかける。慣れないことをするものではない。
「ナナキ、聞いてる?」
「もちろん聞こえているよ。ミツキの意外な趣味が判明したね」
「意外だった?」
「だけど、似合ってると思うな、そうなればミツキも落ち着くだろう」
「明鏡止水」
「八方美人」
「失礼だな。とにかく、アナログファイルだけど、タイトルをリスト化してティアマに関する記事はどこらへんにある?」
「順に棚を見て回って……あ、すぐ目の前じゃないか。一番手前だな」
ナナキが言った通り、入口から一番近くの棚の、ちょうどよい高さのところにティアマと書かれたファイルがある。とりあえず僕はそれを持つと、一通り棚を見て、ゴーグルに映してから、奥の席に座った。
「ティアマ女王、第十五代目、母王カティア。カティアの第一子」
王女の治世がどれほどの長さか分からない。短いこともあるだろうし、長く君臨することもあるだろう。仮に20年と考えても300年。まあ、妥当なところだろうか。父王のことは書かれていない。他の資料も見てみたが、すべからく同じだ。やはり女王で統一され、いわゆる父親は存在しないのだろう。そして驚いたことに、男児が生まれた、という記録もない。
カティアが二十歳のとき、まだカティアが女王になっていないときにティアマは生まれた。女王の間に入っていないときなのだから、外からの使者が父ということはありえないだろう。可能性はゼロではないが。ティアマは優秀であり、若干10歳のころには、ここで教えられるあらゆることを学習していた。当時は天才だともてはやされ、次期女王として非常に期待されていた。
ティアマは二十八のときに女王になった。カティアが女王の位を譲ったからだ。ティアマはこれまでの女王とは違い、女王の間に引きこもることはなかった。時々この世界とはまるで別の理のことを話し、そのことが一層彼女の特殊性を高めていた。中でも、預言という形でいくつか、当時としては考えられなかったような、こことは別の集落のことを話し、実際にそれを見つけたことは周りを驚かせた。
淡々と記述の中のこの部分に、後で書き足されたト書きのようなものがある。
「バカみたい。当時だって」
誰の筆跡かは分からない。ここにはこれを鑑定できる人もいないだろう。けれど、それが誰のものか、他の資料にもいくつか目を通していると分かってきた。他にも同じように書き込みをしていたり、明らかに同様の筆跡で丸々書かれた記録が出てきたからだ。
ティアマ本人だ。
バカみたい、というのは、記録であるにもかかわらず、彼女のその預言に驚かせた、と書かれていたからだろう。ティアマ本人は預言をしたわけじゃない。ただ歴然たる事実を記しただけだ。過去の資料を読み解けば、そこに同じような施設があることは分かり切っていることだ。それも、こちら側と醜い争いがあり、こちら側があちらの重要人物ほとんどを殺した。その発覚を恐れるために、こちら側がその歴史的事実を消してきただけ。世代を経る内に、あたかも未知の領域、不可侵の領域となったかのように。だから、バカみたい、ということだ。
ティアマは再発見のときの様子を記している。破れ、血だらけの服を着た骸骨が散乱している。肉はおそらく犬のような家畜か、微生物のせいですべて失われていた。ティアマは命令を出し、その骨をすべて右翼の池に集めた。服はすべて捨て去り、そこを墓にすることに決めた。
「再発見から三日後、私は一人で再びそこに訪れた」その記述に僕は寒気を覚える。「理由は二つある。彼らに服を持ってきたことと、このような状況の中でも生き残った彼女と話をするためだ」
僕はあの池に浮かんでいた多くの衣装と、その下にある骸骨を思い出す。確かに、血で汚れていたものはなかった。だがその不自然さに、僕は気が付かなかった。肉が朽ちるほどの状況にあって、あんなにもきれいに衣装が残っているはずがない、という単純な事実に。骸骨の上に、衣装が無造作にあったという事実に。そして、後半の、生き残った彼女、という言葉。
「私はエレベータの前に立った。持っていた道具を使い、エレベータに電力を与える。上まで行ければ、あちらから電気の補充ができるから、それほどのエネルギーは必要ない。もちろん通常の方法では無理だが、私ならできる。女王の立場を利用して、外にあったエネルギー共有システムを利用するだけだ」
僕はなるほど、と頷く。補充システムはいくつも用意されていたが、その中に持ち運びができるものもあった。
「少しの時間でエレベータの扉が開く。念のためその装置を持ったまま中に入り、上階に移動した。上階は予想通り、こちらの作りと同じで、部屋も二つある。まずは手前の部屋に入り、コンピュータを操作して施設の電力を回復させた。そのまますぐに部屋を出て、隣の、つまり女王の間に移った。案の定、中央の椅子にこちらを向いて女性が座っている」
本当に生きた女性なのか?
「彼女とした会話は省略するが、彼女は私と入れ替わることを了承してくれた。もう疲れた、というのが彼女の答えだった。これで私は外へ行くことができる。それから数年かけてお互いの状況を整理し、話し合った。将来的に本当に入れ替わったときに齟齬がでないためにだ。実際、何度か途中で入れ替わって数日過ごしたことがあるが、身近な者にもばれることはなかった。
「私の状況よりも、彼女の状況はひっ迫していた。そうだろう。もはや住民ははるか昔に途絶えていた。彼女はかつての女王と、まさに外からの使者との間に生まれた子供だった。かつては数名が上階に住んでいて、外にある備蓄を利用していたが、一人、また一人と死んでいき、今は彼女一人しか残っていなかった。外からの使者を迎え入れ、再びここに活気を、という目論見が失敗していることは明らかだった。彼女は私が上って来た時、死神が迎えに来たと思った、と告白した。その通りだろう。だから、彼女は私からの提案をすべて受け入れた。その気持ちは変わっていないらしい。私は、私が外に行きたい、ということを伝えていたが、それでも途中何度か、彼女に普通に私たちの住民にならないか、と聞いたが、すべからく断られた。私自身のことは嫌われていないようだが、全体としては私たちの社会を、つまり、彼女たちの社会を滅ぼした社会のことは嫌っていたようだ。
「女王の間から外に行った先にある空間、そのことをここに記していいのか悩むところだ。もっとも、この資料室でこのような書き物に目を落としているような変わり者であれば、この世界の形について、そして外の世界の形についてそれなりの考察ができているものか、あるいは、外からの使者でありながら、中の世界に入ってきた変わり者くらいであろうが。私たち女王に伝えられているトーラス状の世界についてだが、トーラスという概念がそもそも中の世界にはない。もちろん第一世代の住民たちは分かっていただろうが、長い年月の末忘れ去られた。他の多くの科学技術、および数学的・物理的思考力もだ。おそらくこの世界で生きていくことを決めた第一世代かさらに以前から、そう決められていたのだろう。私のような変人でなければ、ここで働く奇妙な物理法則や不思議な形のエレベータから単純なドーナッツ形をしたこの世界の形に、女王を継承する以前から気が付くこともないだろう。そしてそれは、外の世界の空間に浮かんでいる。残念ながら、外の世界がどうなっているのか中からは観察の仕様がなかったが、外からの使者が訪れることを考えると、移動可能な世界だということは分かる。私は、その別の世界を見てみたい、純粋な、科学的な思考に従うだけだ。
「あとは、入れ替わればすべてが終わる」
文章はそこで途切れていた。ティアマは本当に外へ行こうとしていた。入れ替わりが成功すれば、あちらの女王がティアマとなり、彼女はあちらから外へ出ていくことができた。それも、何の問題も残さずに。
この文章の続きを見つけるのに、僕はかなりの時間を費やした。そもそもファイリングされておらず、乱雑に押し込まれた机の引き出しに入れられた紙に書かれていたからだ。破棄するつもりだったのかもしれない。破られていた個所もある。けれど、一枚一枚を目視し、それをつなぎ合わせてみると失われていた個所はなかった。けれどそれは、ティアマが書いた文章ではなかった。それに気が付いたのは、その文章をだいぶ読み進めてからのことだったが。
「女王は死んでいた。いいえ、私が殺した。彼女は警戒していなかったし、まさかこれほど時間をかけてこちらが計画を立てていたなんて思いもしなかったでしょうけれど。それも、入れ替わりのめどが立ったからだわ。私のことを書いた素敵な遺書も残してくれているし、きっと後世の人がその文章を見れば、ティアマが私を殺したと思うでしょうね。でも事実は反対。私がティアマを殺した。私の復讐はこれが始まりなのだから。
「私がティアマになり、私がこの社会を征服する。ああ、なんて幸せな展開なのかしら。なんて誇らしい瞬間なのかしら。あなたたちが尊敬する女王は偽物。偽物に支配され、崩壊する社会。考えただけでも濡れてきちゃうわ。だめだめ、そんな争いの種を私は残さない。この社会を崩壊するのは簡単。女王がいなくなればいいのだから。私のほかに女王候補は二人残っている。その二人を消せば終了。あとは静かに滅びるのを待つだけ」
僕は震える手でその文章を読み進める。今の現状は少なくとも、彼女が望む滅びの状態になっていない。少し文章を飛ばして、核心部分に迫る。
「アマナ、恐ろしい女王だわ。誰もが私を疑うことがなかったのに、彼女だけはすぐ私を見破った。時々の入れ替わりには気が付いていなかったようだけど、長期となるとだましきれなかった、ということね。彼女は私を呼び出した。それもあちら側に。ああ、愚かなことね、あちらに呼び出すなんて、と思っていたけれど、彼女はしたたかでもあった。まさか交渉を持ち出すなんて。女王の座をすぐに渡せば、黙っていると彼女は言った。それだけでなく、彼女は彼女が女王に就くこともしない、と言った。
「それなら、私の復讐はほぼ果たされることになる。あと懸念はマナミであるが、彼女はアマナとは違い愚か者だ。何もしゃべらず、ただ静かに座っていることが関の山。女王になったところで何もできまい。私は、先にアマナが女王の座を降りる証拠を見せるなら、その交渉に応えると答えた。
「彼女は一介の住民になると言った。そして、その女性の設定を私に聞かせた。さて、彼女が本当にその約束を果たすのかは分からない。だが、私ももはや疲れた。ティアマを殺した時点で、私の復讐は、そのほとんどを終えてしまっていたのだろう。私に残されている選択肢は、もはやない」
「その彼女が設定した名前が」僕は、声に出して最後の文言を読む。「ラーサ・フオル」