第十話
雨はないとルシナが言っていた。それなのに、耳に響く雨音、ザーというのは機械が作り出す雑音だろうか。普段なら起き得ないことだが、この場所が干渉を起こしているのかもしれない。それも極わずかに。だから、普段は気づかないのに、こうして僕の薄くなってきた眠りを妨げるのには十分すぎるほどの音だ。
人の気配がするが、ルシナではない。
「やあ、おはよう」
声から判断するにクルドのようだ。
「失礼ではありませんか?」僕はまだベッドに寝転んだまま答えた。「眠っている人の部屋に忍びこむなんて」
「気が付かなければそのまま出て行くつもりだったんだけどね。念のため検診だよ。それに、今のこの状況で鍵を掛けていないのは不用心だと警告もしておこうと思ってね」
ようやく僕は上半身を起こす。
「うん、熱はもうないようだが」
「大丈夫です」
「結構」
「……解剖は終わりましたか?」
「何のことだい?」
「僕は部外者かもしれませんが、目撃者の一人でもあります。教えてください」
「何を言っているのか分かりかねますが」
「あれは誰の死体だったのですか?」
「できれば君には関わってもらいたくないことなのだが」クルドは俯きながら答える。「結論を言わせてもらえば、あれは誰でもない」
僕はベッドから足を下ろすと、クルドに向かって座った。
「つまりは君のために用意された余興だと思ってもらっても結構。女王はこれからも今までも同じように仕事を続けることになる」
「女王が見つかったのですか?」
「女王は女王の間にいる」
「アマナが殺したのでは?」
「誰も死んでいない」
僕は立ち上がるとクルドの襟元を掴んだ。
「誰も死んでいない? どうしてそんなことを言うんだ。あれは間違いなく人間だった。僕は触ったんだ。間違えるはずがない」
「手をどかしてくれないか」
「もしも、僕がここで殺されたら、僕も死んでいないことになるのか!」
「……そう判断してもらっても構わない」
「つまり、女王の間にやってきた人物が殺された、と」
「誰も死んでいない」
「僕の質問に答えろ」
「まずは手を離して頂きたい」
「……すまない」僕は手を話すと、再びベッドに座った。「だけど、どういうことだ。僕達外からの使者は、あなた達にとって何なんだ?」
「若いものは理解できないで存在でしょう。多くのものが、新しい血をもたらす、要は遺伝子のことですが、そのおかげで、新しい生命が生まれると考える。が、同時にこの世界のパラダイムをシフトさせるだけの力がある。だから、多くを受け入れることはできない」
「パラダイムシフトを起こしてでも、外からの使者を多く迎え入れるべきでは?」
「女王が判断すべきことだ」
「アマナは生きているのですね」僕は再び聞いた。「彼女に会いたい。会って直接話をしたい」
「それはできない」
「なぜです?」
「マナミだけが判断できます。彼女に聞いてください」
「分かりました」僕は返事をすると立ち上がった。「では、すぐに会いに行きましょう。彼女は今どこにいるのです?」
クルドは予想していなかったのか、驚いて立ち上がる。「い、今からですか?」
「あなたと話しても話が進まない。マナミから直接聞くか、あるいは彼女の許可を得る必要があるならそうします。そうでなければ、僕はここでの存在価値がなくなる」
「あなたの価値は多くありますが、分かりました。彼女の元に案内します」
歳を取っているが背筋を伸ばし、姿勢よくクルドは僕を案内する。部屋を出て、そのまま中央の建物へ。エレベータの前でクルドは止まった。そこでエレベータを操作する。
「彼女は上にいます」
「あの、隣の部屋ですか?」
僕の質問に彼は答えなかった。エレベータが上昇し、周囲の光景がよく見える。それほど広くない世界ではあるが、よく自然と調和している。ここの施設を効率的に稼働させるために、おそらく初期からそう配置されていたのだろう。
やがて再び視界はなくなり、上階に着いた。クルドは、僕を一瞥してから、少し離れた、つまり、女王の間の前へと来る。再び驚いた僕を無視するように、クルドはその扉に手をかざした。扉がゆっくりと開く。僕は急いで扉の前に向かった。
女王が座っている。
あの椅子に、こちらを向いて。
ドレスは、昨日とは別のものだ。真っ白な、豪奢なドレス。紫色の口元に、真っ白な瞳。前髪がわずかに掛かっていて、髪はゆるやかにウェーブし、腰のあたりまで伸びている。その顔がまっすぐ僕を見て、そして微笑む。
「アマナ?」
「いいえ。違います」クルドが否定をする。「女王、つまりマナミです」
女王は立ち上がると、ゆっくりこちらに歩いてくる。マナミ? 確かに、最初の印象で2人は似ていると思ったが、髪や瞳の色が違う。否、コンタクトレンズとかつらを利用しているとすれば、可能だ。口紅だってそうだ。女王の間のギリギリにまで女王は来る。
「どうしたの?」女王が口を開く。「エレベータが動くの感じたからとっさに座ったんだけど、びっくりしちゃったじゃない」
その話し方は、アマナとはまったく異なっていた。
「女王様、すいません」クルドが一礼する。「どうしてもミツキがあなたと話したいと申すので、わたくしも悩みましたが、一度女王に相談するのが早くて賢明だと判断した故でして」
「ああ、いいよ、そんな変な口調でわたしに喋らなくても」笑いながらマナミが答える。「あ、もちろん、他の住民の前だったら、そのときはシャンとするから、心配しないで」もう一度笑ってから、マナミが僕の方を向く。「それで、どうしたの、ミツキ? わたしが女王の格好してるの、おかしい?」
「いや、驚いた、というか、考えていなかった、というか」
「だよね。わたしも考えてなかった」
「でも、そっくりだ」
「ありがとう」マナミは微笑んだ。目が細くなり、普通の笑い顔だ。アマナの上品な、優雅で作ったような笑みとはまるで違う。
「それで? わたしに何か用なの?」
「実はミツキが、今回のことの真相を知りたいと」
「真相? わたしが女王になっておしまいじゃないの?」
「ええ、この世界ではこれでおしまいです。ですが、ミツキの、つまり外からの使者からすると、それで終われないようなんです」
「うーん、よく分からないなぁ。ミツキ、どういうこと?」
あまりのことに毒気を抜かれ、言葉を失う。けれど僕は気を取り直して、マナミに聞いた。
「昨日、この女王の間で人が殺されました」僕の表現に、マナミは顔をひきつらせる。「僕は、殺されたのが誰で、誰が殺したのか、その真相が知りたいのです」
「外からの使者がやってきて、女王を襲った。女王はその人を殺して、外へ逃げた。だからわたしが女王を引き継いだ」
さらさらと答える。
「外からの使者?」
「やだ、違うよ、ミツキじゃないよ」マナミは僕の疑問に驚いて首を振る。「だってミツキはもう下にいたじゃない。パーティにも参加してくれてたし、わたしたちと一緒にここに来て……そして誰よりも勇敢だった」
「それじゃあ、僕が来てから、また別の外からの使者が来たと?」
「そう考えるのが最も合理的じゃない?」
「偶然?」
「偶然」
「どうして頭を切り取った?」
「女王の間には誰も入らない……普通は。アマナは、殺されたのが自分だと判断してもらうのが目的だった。つまり、外からの使者がやってきて、女王を殺して、また外に帰った、と。そうわたしたちに判断して欲しい、と」
「そんなこと、ありえない」
「だけどねぇ、クルド」今度はクルドに向かって言う。「そうじゃないと説明つかないわよね?」
「そうです。その首のない死体を調べた所、この住民の誰でもない、ということが分かりました」
僕の思考が追いつかない。
「とにかく、僕はこの事件の真相が知りたい」
「だから、真相は……」
「僕が納得できる、真相です。ですから、僕が調べる許可を欲しいのです」
マナミがクルドを見て、首を傾ける。同じように、クルドも傾ける。
「よく分からないけど、ミツキがこの結論に納得出来ないなら、いいんじゃない? 好きにすればいいと思うんだけど」
「女王の許可が、必要らしいんです」
僕の言葉にようやく合点がいったのか、マナミは大きく二回頷いた。
「そっか。わたしが女王だもんね。わたしが許可してあげないと、みんなが口を封鎖しちゃったり、この女王の間にも入れないってことね。いいよいいよ。よし、それじゃあこの件はミツキにすべての権限を委ねるってことで」
「ありがとうございます」それから僕は横を向くとすぐにクルドに聞いた。「それで、この住民の誰でもない、というのは、どういう意味ですか?」
「そのままの意味だ」
「外からの使者」
「そう考えるのが、最も合理的で、この状況を最も説明できる」
「先ほどマナミも最も合理的と言いました。最もではないけれど、他に可能性はありますか?」
「可能性だけなら、どれだけでも言えるな」クルドは皺だらけのあごに手を当ててから続ける。「が、低すぎる可能性は排除するとして、例えば、わたしの把握していない住民」
「そんな人がいるのですか?」
「把握していない、というのは登録をしていないという意味だが」クルドはマナミに視線を送り、すぐに続ける。「基本的にはいない……ことになっている。が、存在する。そして、存在することをわたしは知っている」
「外からの使者は僕が二人目だと聞きましたが」僕はラーサのことを念頭にして聞いた。「もしかしたら、2人以外にもいる、ということですか?」
「その可能性はあまりないだろう。女王の間を通らずに、この世界に入ることなどできない。この世界は閉じている。唯一外と接点があるのが、女王の間だと言われている」
「哲学者、あるいは科学者がここにはいないのでしょうか?」
「言葉としてはあるが、存在はしない」
「この世界を正しく理解している人は?」僕はマナミに視線を送った。「アマナ女王は理解していたでしょうか?」
「していたかもしれないね」マナミは首を振りながら答える。「わたしは、悪いけどさっぱり。外への扉の開け方も分かんないくらいだもの。ここの扉みたいに、手をかざすだけで開いてくれると嬉しいんだけどね」
「僕は客観的に、この世界の仕組みを理解しています。ですが、そのことをここの住民に教えるべきかは分かりません。求めるものがいれば、教えてしまうかもしれない。もし僕が、少し頭を働かせれば、女王の間を通らずにこの世界に来ることは不可能じゃない」僕は嘘をついた。「危険ではありますけれど」
「危険を犯して、この世界に入り込んでいるものがいて、そのものがあのパーティに紛れてここに上ってきて、ここで殺された? それなら、最初の真相のほうが合理的だな」クルドの言葉に僕も頷く。「わたしが知っているのは、先ほど出てきました科学者あるいは哲学者だったものが、隠れ住んでいる、ということだ」
「隠れて? ここに?」
僕の疑問に、クルドは大きく頷く。「この場所から視界の限界は、あの遠くに見えている娯楽施設です」
エレベータから見える風景では、確かに最も遠くに見えるのはあれだった。角度的に、ほぼ90度、ここと異なっている。観覧車が大きいから、その姿が視界に入った。
「わたし達は経験的に、この世界がトーラスの形をしていることを知っています。簡単に言うと、ドーナッツの形ですね。それが回転することで、わたし達はこうして外周の内側に立っていられる。つまり遠心力です。この場所からは娯楽施設までしか見えませんが、その先はわたし達も基本理解していません。密林が広がっていまして、要は自然な酸素を作っている環境です」
「あなたは科学者なのでは?」
「立場上、女王の話し相手をしていますので、この世界について少しだけ周りよりも理解しているだけです。最も、本当に理解できているとは言いがたいことですが。それで、話を単純にすると、その密林の中がどうなっているか、わたし達は知らない。もしかしたら、そこに人が住んでいるかもしれない、ということです」
「そのものが、この世界のことを理解して、外に行くために、ここに忍び込んだ……」言葉にしながらも、なんとも説得力のない説だ。そして、女王に逆に殺された……。「否、ありえない、か」
「そう、ありえません。それでも、可能性としては、ありえます」
「十分に低すぎる、そう思いますが」
「もう少し話を進めますと、その忍び込んでいるものが、こちらの社会に隠れ住んでいる可能性もある、ということです」
「知らない人間が混じっていれば、気がつくのでは?」
「ええ、気がつくでしょう。ですが、それを危険だ、という認識を住民は持っていません。ですから、受け入れることは十二分にあり得る。ここの住民は500人程度ですが、例えば今日のパーティに参加してくれたすべての人を照合し、忍び込んでいるものがいないかを確認するのは、ひどく骨の折れる作業でしょう」
「分かりました。ありがとうございます」僕はお辞儀をした。
「もういいの、ミツキ?」マナミが目をぱちくりする。「わたしも暇だから、ときどき遊びに来てね」
僕はもう一度分かりました、と答えた。