猛と杏奈
茶の湯気が少しずつ消え、飲みやすい温度に変わってきたかという頃に杏奈は少しずつ口を開き始めた。
「榊隆治って、知ってる?」
茶を一口啜りながら小さな声で話し始めた。俯いた顔は悲しさというよりかは何かに怯えている様な顔付きだ。
「あれか、ガイアっていう化粧品売ってる会社の」
答えたのは額に傷のある、猛と呼ばれた男だ。
「そう。その社長。私、その人の娘なの」
その言葉に仁は目を見開き、猛はヒュー、と口笛を吹いた。そして猛がおもむろに立ち上がり、本棚に置いてあるファイルを二つ程机に放った。
「そりゃびっくりだが、あそこの会社、まあこの島に本社ある時点であれだが悪い噂をよく聞くぜ?急に成長したし」
放られたファイルの片方を仁が開くと、そこには「ガイアコーポレーション、麻薬に手付けか!?」という週刊誌の表紙や新聞の株価のページ等が丁寧にファイリングされていた。
「そう。私のパパが電話してるとこ、たまたま聞いちゃったら、麻薬がどうとか利益がどうとか言ってたの。私、それまでパパのコト信頼してたから、裏切られたみたいで、そんなことに手付けてる人の子供でいたくないから逃げてきちゃった」
茶を啜りながら気丈な口調で杏奈は言ったが、それでも目尻には涙が溜まっている。仁はファイルを閉じて猛に手渡し、代わりに机に刀を置いた。
「じゃあこれに斬られた奴はなんだったんだ?」
「パパが私が居なくなったことに気付いて、よこしたボディーガードかなんかじゃないの?」
それを聞いて猛はバッと振り向いた。仁も杏奈もビクりとする。
「ボディーガード?それはおかしいぜ、嬢ちゃん。ボディーガードってのは名の通り何かを「守る」のが仕事だ。追いかけるのは警察とならず者の集まりの役目さ」
仁も同意を表すように首肯する。刀を机からどけて、灰皿を出し、煙草に火をつけた。
「つまり、お前のパパはマフィアとも繋がってる可能性が高いわけだな」
杏奈の目からとうとう涙が溢れ出した。煙草の煙は上へ上へと昇り、フワフワと漂う。猛はその空気と煙を嫌い、窓を開けた。
「嘘だ、嘘だよ......」
「まあお前のパパが馬鹿ならボディーガードを使うかもしれんが、この島でならヤクザやマフィアの方がありえるな」
煙草を吹かしながら仁が答える。あまりにも無機質で、突き放すような言い方に杏奈は涙を流しながら仁を睨みつけた。しかしその目つきすら全く気にせず言葉を続ける。
「この楽京島は日本にあって日本じゃないんだよ。色んな国の腹黒いお偉いさんや金持ちが住み着くもんだから悪い遊びが流行る。あんたの親父もそのお仲間さ」
その話を聞いてため息をついたのは猛だ。しかし話に茶々は入れず、窓際で黙って話を聞いている。
「やめてよ!私のパパはそんなんじゃない!」
とうとう堪え切れずに杏奈が叫んだ。しかしそれでも仁は煙草をくわえながら無感情な声を放つ。
「さっきは信頼できないと言いながら次はパパを擁護か。忙しいな」
「もういい、ストップだ」
流石に止めるべきと判断した猛が話を止める。杏奈は泣きじゃくりながら息を切らし、仁は煙草を灰皿に押し付けた。
「仁、熱くなるな。嬢ちゃんも落ち着け、話はそれからだ。まずはこの先嬢ちゃんをどうするかを考えなきゃならん」
と、猛が話を落ち着かせたところでがちゃり、とドアが開いた。
「あんたらはなんで勝手に事務所に人を入れてんのよ......しかも修羅場だし」
開いたドアの先には金髪の、長身の女性が立っていた。日本人ばなれした顔立ちに、光るような金髪は、本当に日本人ではないのではないかと疑いたくなるような顔立ちと身長だ。
「お、美佳、お帰り」
「猛。ちょっと軽く説明してくれない?」
美佳と呼ばれた女性はコートを脱ぎ、冷蔵庫から水を取り出しながら猛に説明を求めた。猛はとりあえず事の顛末を話す。
簡単な説明を受けた美佳は、杏奈をじっと見つめ、ふっと人の良さそうな笑顔へと変わった。
「こんにちは、榊さん。この野郎二人が威嚇したかしら?私は内藤美佳。とりあえず、名前だけでも聞かせてくれない?」
笑顔でまるで子供に話しかけているような口調。しかし、その口調は杏奈を少し安心させるのには十分だった。
「榊、杏奈です」
「杏奈ね。ほら、猛、仁。あんたらどうせ名前も教えてないでしょ。特に仁、あんた自分の気まぐれで助けてきたんならなおさらよ」
まるで姉か母親のような女性の登場に杏奈は安心と、少なからず戸惑いも覚えていた。しかし、この美佳という女性がこの部屋に入ってきてから、この部屋の雰囲気が変わっていた。
「月島仁だ」
「悪いな、どうもびびらせてたみたいで。俺は不二猛」
美佳曰く野郎二人も自己紹介をする。それを見てよろしい、と美佳が頷いて、そのまま話の主導権を握った。
「で、パッと簡単に話を聞いて疑問に思ったことが幾つか。どうして逃げる先を東京にしようとしたの?」
水を飲みながら美佳は杏奈に質問を始めた。杏奈は先程よりかは落ち着きながら質問に答える。
「東京ならパパの追っ手も来ないかな、と思って。ちょっとツテもあったし」
「しかし杏奈ちゃん、お前いいカンしてるよ。東京じゃ拳銃なんかぶっぱなせない。それにこの島よりマスコミもちったぁ動く」
「同感ね。まあ、結局東京に行くには必要な物が足りずに立ち往生ってわけね」
猛が感心したように口笛を鳴らし、美佳もそれに同意する。仁は相変わらず機嫌が良くないらしく、ずっと無言だ。
「じゃあ次の質問。これからあなたどうするつもり?」
その問いに杏奈はドキッとした。考えていなかったが、杏奈には今帰る場所がない。してち父の追っ手となる暴力団やマフィアに見つかっても事実上の死を意味する。拳銃を発砲する程だから、捕まれば殺されるだろう、と杏奈は考えた。
今考え直してみると、なんて浅はかだったのだろう。失敗した時の最悪のパターンを、杏奈は全く考えていなかったのだ。
「どうしよう......」
必死に不安な頭を回し続ける杏奈。それを見ていた仁はおもむろに席を立った。
「ちょ、仁。どこ行くの」
「トイレだよ」
扉を開け、階段を降りていく。それを見つつ猛が口を開いた。
「どーすんだ」
「私はね、八年前、十五の時に母と父が死んだのよ。その時は体を売ったわ」
笑顔のままさらっと美佳はとんでもない事を口にした。杏奈は目を見開き、背中が冷えるのを感じた。
「あなたにそうしろと言ってるわけじゃないけど、最悪その道もありえるかもね。私達も協力出来ることはしてあげたいけど」
逃げる前に仁が言っていた、この街にお節介な奴はいない、という言葉がここでもう一度思い出された。さっきから話を聞いている限り、恐らくこの島は任侠ドラマやハウリッドに出てくる様な、ならず者の島なのだろう。
すると、トイレに行くと言って出ていった仁が戻ってきた。気のせいか、鼻先に埃が付いているように見える。
「美佳、猛、こいつをここに住ませるのはどうだ」
「はぁ!?」
仁は誰もが予想しないことを呟くように言い、猛と美佳は同時に素っ頓狂な声をあげた。
「三階の部屋、一つ使ってないだろ。俺らの仕事を手伝う条件付きでならいいんじゃないか」
「いいじゃん、俺も賛成だ。こんな可愛い子、体売るのはもったいねえな」
一度は素っ頓狂な声をあげた猛だが、すぐに仁に賛成する。美佳は少し考えた後、はぁ、と溜め息を付きながら杏奈を見た。 「まぁ、いいわ。杏奈をこのまんま外に投げたら死にそうだし」
その一言で、杏奈の身の振り方は決まった。杏奈は取り敢えず泊まる場所が見つかった安心と、仕事というフレーズに、どのような仕事をするのかという心配の二つがのしかかった。
「取り敢えず付いてきな。お前の部屋を見せてやる」
仁が相変わらずの機嫌のまま、杏奈を連れて階段を降りていった。
めちゃくちゃ間空きました。申し訳ないです。
これからはここまで間を空けることはないように努力します。