暗雲の来訪
とある日のことだった。
例によって外回りから戻ってきた僕は、工場の入り口辺りが何やら騒がしいのに気が付いた。
「なんだ? ケンカか?」
「わからない、けどお前の出番は無いぞ」
「ちぇ、そーかよ」
興味深げに見る『オレ』を窘める。
どうやら社長がスーツ姿の数人の男と言い争っているようだ。
まだ結構離れているはずなのに、社長の怒鳴り声がここまで聞こえてくる、相当怒っているみたいだな。
正面から戻るのは、うまくなさそうだ。僕は足早に工場の裏口の方へと向かった。
「もう話すことはない! とっとと帰れ!」
社長の怒声が、工場を揺らす勢いで響き渡っている。
自分に言われているわけでもないのに、思わず首を竦めてしまいそうだ。
奥さんと昴ちゃんは、工場の奥に引っ込んで、物陰から恐る恐るその様子を見ていた。
社長の前には二人の男が立っていた。
片方は紫、もう片方は白のスーツを着ており、とてもカタギの人間には見えない。
白スーツの方は割と高めの身長でやせ型、面長の顔と細い目がキツネを思わせる。もしかしたら日本人では無いのかもしれない。
紫スーツの方はもうちょっと背が低い。だらしない立ち方、とても社会人とは思えない髪型、人を見下したような目、どう見ても口より先に手が出るタイプだ。
ヤクザ映画に出てくるようなチンピラを絵に描いたら、まさにこんな感じだろうか。
「まあまあ、そう怒らないでくださいよ。ほら、奥さんと娘さんが怖がってますよ」
主に話をしているのは、この白スーツの方らしい。
宥めるようなセリフとは裏腹に、口調はこちらをバカにしきっている。
「うるさい! 余計なお世話だ!」
社長はもはや、白スーツに掴み掛らんばかりだ。
「困った方ですねぇ、ま、今日のところは退散しますが、さっきの件、よーく考えておいてくださいよ」
挑発する気まんまんの口調でそう言い残すと、白スーツは踵を返して去って行った。
紫スーツの男が、地面にぺっと唾を吐くと、それに付き従う。
「……なめた野郎だな」
「そうだな、何の用だったのかはわからないけど、とても話し合いに来た感じじゃなかったな」
「次に来たときは、思い知らせてやろうぜ」
「よせ、先に手を出したら因縁をつける格好の材料になる」
「へっ、慎重なこって。あーいうのは、ガツンとやってやらないと、どこまでも図に乗るぜ」
「わかってる」
止めてはみたものの、『オレ』の言うことも一理はある。
あの手の連中、特に付き従ってた紫スーツの方は、理屈や正論など通じそうにない。
しかし法治国家の日本において、先に暴力を振るった方は、いかなる理由でも不利な立場に立たされるし、相手もそれを理解した上で、ああいう態度を取っているのだ。
わざわざ向こうの思惑に乗ってやる必要は無い。
それよりも、奴らが何の目的でここに来たのかの方が重要だ。
社長は、二人の去った方向に塩をまいている。
さっきの様子から見ても、今はとても冷静な話をできるような状態では無いようだ。
「ねえ昴ちゃん、さっきの人は社長の知り合い?」
僕は社長の耳に入らないように、小声で聞いてみる。
案の定、昴ちゃんは首を横に振った。
「ううん、全然知らない人よ。さっき相談があるって言って、突然やってきたの。それでお父さんとしばらく何か話してたみたいなんだけど、いきなりお父さん怒り出しちゃって、で、あんな感じ」
話の内容がわからないので、どうも要領を得ないが、嫌な予感がする。
「どうしたんだろう……あんなお父さん見るの初めて」
昴ちゃんが不安そうに呟く。
やはり直接社長に聞いてみた方が良さそうだ。
夜まで待って様子を見ることにしよう。
「あんな所を見せてしまって、すまなかったな」
社長はバツが悪そうに頭をかいた。どうやら昼間の剣幕はひとまず落ち着いたようだ。
「いえ、余程のことだったんだと思います」
「まったくだ、ワシは今まで生きてきて、あんな人を馬鹿にした奴らは見たことがない!」
思い出して、また腹が立ってきたのか、自然と語尾が強くなる。
「それで、あの人たちは一体何者なんですか?」
「不動産屋だそうだ」
「不動産屋?」
僕は思わず首をかしげた。
てっきりどっかの暴力団か何かがクレームでも付けに来たのかと思っていたんだけど、どうもイメージが合わないな。
「ああ、うちの経理担当だし、唯野くんにも見てもらった方が良いな」
社長は数枚綴りの書類を取り出した。
受け取って中身をざっと確認した僕は、思わず絶句した。
「これって……」
それは、この工場と社長の自宅を含めた土地の売買契約書だった。
様式そのものは比較的まともな物だったが、問題はその提示金額だ。
どう考えても、ここら辺の地価として想像できる金額を大きく下回っているように見える。まさに二束三文という表現がぴったりくるほどだ。
「なんでも、ここら一帯にレジャー施設を建てるためだと言っとった」
「それにしても、これはひどいですね」
何故あんなに社長が怒っていたのか、ようやく合点がいった。
これは、いわゆる土地転がしというやつだろう。
しかも、この契約内容と昼間の人選。どう見ても、向こうにはまともに話し合う気など無いな。
断ったら、脅迫、嫌がらせ、どんな手を使ってでも出て行かせるつもりなのだろう。
ん? まてよ。
この間の銀行の貸し渋りの件もこれに関係あるのか?
もし、この件を知っているんだとすれば、これから無くなる可能性の高い相手に金を貸すバカは居ない。
奥さんは、あの担当者は最近代わったと言ってた。
馬鹿正直に本当の事を話すわけにいかない銀行側が、これを誤魔化すために、口のうまい営業を意図的にぶつけているんだとしたら……。
こんな騙しのような手口、到底納得できるものではないが、どう考えてもこれが自然に思えてくる。
とすれば、あの不動産屋とやらは、こちらの外堀をかなり埋めている可能性があるな。
「……社長、ここを売る気はありませんよね?」
「もちろんだ! ここはワシの爺さんの頃から続いてる大事な場所だ、どんなに金を積まれたって売る気は無い!」
「それであれば、今すぐにでも具体的な対抗策を考えた方が良いと思います」
僕は、あくまでまだ想像の範囲内であることを前置きして、自分の考えを話した。
思い当たる節があるのか、社長の顔がみるみる険しい表情に変わっていく。
「話はわかった、おそらく唯野くんの言うとおりだろう。しかしどうしたら良い?」
「僕の知り合いに、弁護士をやっている者がおります。すぐには無理かもしれませんが、一度相談に行ってみようと思います」
「そうか、そっちの方は任せる。ワシは付き合いのある会社にどの程度手が回っているか、それとなく探りを入れてみよう。それから……」
社長がそこで迷ったように、ちょっと言い淀む。
「うちの者に余計な心配をかけたくない。もう少し事がはっきりするまで、この件は伏せておいてもらえないか」
不安げな顔をした昴ちゃんの姿が、僕の頭の片隅をよぎる。
一人の父親としての親心は、僕にもわかった。
「そうですね、それが良いかもしれませんね」
社長は、わずかながら、ほっとしたような表情になる。
「すまんな、こんなことに巻き込んでしまって」
「とんでも無いです。僕を雇ってくれた社長には恩義を感じてますし、なにより僕はここが好きです。ぜひ協力させてください」
「そうか、そう言ってもらえると嬉しいよ」
弁護士相談に行く際の参考になるからといって、僕は契約書の写しを受け取り、今日の打ち合わせは終わりとなった。
それにしても腹が立つ。
こんな理不尽なことが、まかり通って良いわけがない!
絶対に屈するものか!
僕は断固たる決意を胸に、家路についた。