僕と『オレ』
夜だというのにカーテンも閉めていない窓からは、見慣れた夜景と行き交う車のヘッドライトが見える。
気が付くと、僕は自分の部屋でひとり立ち尽くしていた。
まるでさっきのコンビニ前の出来事が、無かったことにされたようだ。
しかし、ずきずきと痛みで悲鳴を上げる身体と埃まみれの服が、あれが夢でも幻でも無いと主張している。
またか。
昨日の夜もこんな感じだった。
帰りの記憶が途中で途切れていて、気が付いたら自分の部屋のベッドで寝ていた。
あれは酒に酔って記憶が曖昧だったせいかと考えていたが、今日のは違う。
今日は酒など飲んでいないし、袋叩きに遭い、気を失う所までの記憶は、はっきりとある。
彼らがわざわざ部屋まで送り届けてくれるなど考えられない。
すると、コンビニの店員か通りがかった人か誰かが警察でも呼んでくれたのか?
だとしても、真っ暗な部屋の中で一人で立っていることなど、ありえるだろうか?
どう考えてもおかしい。
これではまるで、僕自身が意識の無い状態で自力で部屋まで帰ってきたみたいではないか。
解離性同一性障害……。
未知の物に対する恐怖で、心臓が大きく高鳴る。
多重人格とも呼ばれている障害で、自分の中の感情や記憶が成長して別の人格を形成する。
新たな人格が出ている時には、もう片方は眠っている状態になっているため、記憶の断絶などの症状を引き起こす。
昔、何かで読んだ解説が頭に浮かんだ。
そして、昨日の夜に見た、もう一人の自分……。
まさか、そんな非現実的なことが!
「なかなか察しが良いじゃねえか」
「誰だ!」
慌てて辺りを見渡す。
声はすぐ間近から聞こえたような気がするが、辺りにそれらしき人影は無い。
「ここだ、こ~こ」
「どこに居る、姿を見せろ!」
僕自身にそっくりな声、どこか人をバカにしたような軽い喋り方、間違いない昨日の奴だ。
この部屋に隠れる場所など無いはずだ、絶対探し出してやる!
奴の姿を探してベッドの掛け布団を跳ね除け、浴室のドアを開ける。
「昨日わざわざ挨拶してやったってのに、まだわかってねえのか。お前の中に居んだよ」
「何をバカなことを!」
「ちょっとは落ち着いたらどうだ」
「その手には乗らないぞ!」
「面倒くせえな、いいから話を聞け!」
今の声は、確かに外からじゃなく、僕の内側から聞こえてきた。
奴の剣幕におされたせいで少し落ち着きを取り戻した僕は、顔を背けることのできない現実を叩きつけられた。
僕の中に、もう一人だれかが居る……。
しかもそいつが、僕に話しかけてきてる。
そんなことがありえるのか?
「ごちゃごちゃうるさいやつだな、いい加減イライラしてくんぜ」
間違いない、少なくとも、この声の主は僕の考えていることがわかっている。
本当に僕の中に居るのなら、何としても出て行ってもらわなきゃ。
こんな四六時中監視されているようなのは、ごめんだ。
散々迷った末に、ようやく決心した僕は、床に胡坐をかいて座った。
何となくそうした方がうまくいくような気がして、ゆっくりと目を閉じる。
周りが見えなくなったせいか、高鳴っていた心臓の音が、徐々に落ち着いてきた。
「手間かけさせやがって、そしたら自分の意識を身体の内側に向けるんだ、空想や妄想をするような感じで」
頭の中に響く、奴の声に従う。
「そうだ、それでいい。余計な事は考えるんじゃねえぜ」
まるで水の中をたゆたうように、意識が流れていく感覚があった。
頭……胸……腹……手足……。
身体の隅々まで順に巡っていく。
光ひとつない闇の世界なのに、どこに居るのか理解できる不思議な感覚。
ほどなくして、その場所は見つかった。
ゆっくりと赤い色が明滅する何も無い空間。
昨日見た夢そのままの世界に、奴は立っていた。
前回と違って心の準備ができているせいか、いささか落ち着いて相手を見やることができる。
「よう、また会ったな」
相変わらずのにやにや笑い、気分が悪くなる。
「僕をここまで連れてきたのは、お前か?」
「オレの部屋まで、ってことなら、そうだ」
「僕の部屋だ! 断じてお前なんかの部屋じゃない!」
「つれねえな、オレとお前は同じ唯野誠一郎っていう人間だって、言ったろうが」
そんなはずはない、この目の前のちゃらちゃらした男が僕自身だなんて、信じられるか。
「ま、どっちでも良いけどな」
奴が大げさに肩をすくめる。態度の一つ一つが、いちいち勘にさわる。
「しっかし、お前なさけねーな。あんな程度のやつらに良いようにやられやがって」
あんなやつら? コンビニ前にいた、赤ジャンパーたちのことか?
「お前があんまり情けない顔して気絶してたんで、俺が代わりに仕返ししておいてやったぜ、感謝しろよ」
なっ、いったい何をやらかしたんだ、こいつは。
「反撃されると思ってなかったんだろうなぁ、あいつらの顔、見物だったぜぇ」
「仕返しって……殴ったのか?」
「当然だろ? あんな社会のゴミみたいなやつら、生かしておくのも勿体無ぇ。お前もそう思うだろ」
僕の顔を冷たい汗が一筋流れる。
「まさか、殺したんじゃ……」
「それでも良かったんだが、俺もまだまだ暴れたいからな、適当に逃がしてやった。今頃は病院にでも駆け込んでるだろうぜ」
そう言って、奴は実に楽しそうに大声で笑った。
殺さなかったのは警察に捕まりたくなかったから?
こいつは人の命を何とも思ってない……とんでもない奴だ。
僕は思わず戦慄した。
「ま、そういうわけだ。お前さんも少しは溜飲が下がったろう?」
「あ、ああ……そんなわけないだろう!」
僕はつられるように頷いてから、慌ててそれを否定した。
その様子を見て、奴が何を思ったか、にっこりと笑う。
「そう邪険にするもんじゃねえぜ。俺はお前の力になりたいと思ってんだ、いわばランプの精ってやつだ」
「ランプの精だって?」
何をばかなことをと思うが、奴の顔を見ていると不思議と言葉が出てこない。
奴の浮かべている笑顔は、先ほどまでの下品なものではなく、明るい何となく好感が持てるものだ。
「そうだ、お前さん自分の積極性の無さとか、優柔不断さとかが嫌だったんだろう? 困った時は俺を呼びな、力になってやるぜ」
僕が常日頃から思っていた弱点を、ずばり突かれたようで、心臓がひとつ大きく飛び跳ねた。
「それに回数制限なんてみみっちいことは言わねえ、いくらでもOKだ」
なんと魅力的な提案なのか。
こんなうまい話には、必ず裏があるに決まってる。
そう思っても、僕は既に奴から目を離すことができなかった。
「決まりだな、じゃあしばらく厄介になるぜ」
瞑っていた目を開けると、そこは見慣れた僕の部屋だった。
まるでうたた寝でもしていたような感覚。
しかし、さっきのは夢では無い。
もう一人の自分だと名乗った奴は、確かにこの身体の中に居る。
言いようの無い気味の悪さと、ほんのわずかな期待の中で、夜は更けていった。
あくる日の朝、僕はいつも通りホームで電車を待っていた。
昨日の事があまりにも突拍子も無さすぎて、まだ頭が混乱してるが、だからといってそれを理由に会社を休むというのも僕自身の良心が許さない。
一時は、その手の病院に駆け込もうかとも考えたが、どう説明したところで奴が表に出てくるのを拒否すれば、狂人扱いされるのが関の山だ。
もっと奴のことを知らなければ、対策もままならない。
「なあ『オレ』」
僕は自分の中のもう一人に向かって声をかけてみた。
「なんだその変な呼び方は」
昨日の奴の声が頭の中に響く。
僕もそいつも、もちろん声には出していない。
傍から見ると単にぼーっとしてるように見えるかもしれない。
「見た目も名前も同じなんだろう? ならこのくらいしか違いが無いんだから、仕方ないじゃないか」
僕は、もう一人の自分に呼び名が必要と考え、僕との唯一の違いから『オレ』と呼ぶことにした。
「……まあいい、なんか用か?」
しばしの沈黙の後、『オレ』から返事が返ってきた。
かなり不承不承ながら、一応納得はしたらしい。
「ちょっと聞きたいとこがあるんだ……」
「面倒な奴だな、早く言え……っと、その前に、ちょっとあれ見てみろよ」
『オレ』に言われてホーム際のを見た僕は、思わずあっと声を上げた。
小学生らしい何人か連れの一人が、遊んでいるうちにホームから転落してしまったのだ。
「やっぱり落ちたか、朝っぱらから人身事故とは景気が良いじゃねえか」
「のんきなこと言ってる場合か! 早く助けないと!」
なんで誰も助けに行かないんだ! 黙って見てるくらいなら、せめて駅員のために道を開けてやるくらいしろよ!
焦る頭の中とは裏腹に、僕自身も周りの人たちと同様に一歩もそこから動けない。
早くなんとかしなきゃ! 急がないと電車が来る!
なんとかしなきゃ!
なんとかしなきゃ!
いくら叫んで見ても、恐怖に竦んだ足は、相変わらず全く動かない。
「ちっ、しょうがねえな、どけ!」
頭の中で『オレ』の声が響いたと同時に、肩をつかまれ、ぐいっと後ろに引かれる感覚があった。
転ぶ!
そう思った僕の意識とは逆に、僕の身体は全速力で前へと走り出し、躊躇無くホームから下へと飛び降りる。
緊急ブレーキのけたたましい音を響かせながら、電車が滑り込んできたのは、この直後のことだった。