出会い
「お前は……」
僕は、その一言だけを、かろうじて絞り出した。
そいつを指差した手が小刻みに震えている。
さっき、しこたま飲んだばかりだというのに、喉がカラカラに渇く。
そんな馬鹿な! ありえない!
僕の頭の中は疑念でいっぱいだった。
両手をポケットに突っ込んだまま、そいつが一歩二歩と近づいてくる。
僕と同じ背格好、同じ服装。
愛用のジャンパーと同じ物を着て、ジーンズ姿のそいつは、顔まで一緒だった。
まるで鏡の前に立って居るような、不思議な感覚。
ただひとつだけ違うのは、そいつの表情だ。
ともすれば、ふてぶてしいとさえ取れるような自信に満ちた笑み。
よく人から、何となく不安そうと言われる僕には、絶対にできない表情だ。
「誰だ! なんでこんなイタズラを!」
僕は精一杯の虚勢をはった。
こいつに呑まれちゃいけない!
理由は良くわからないが、頭の中で、けたたましく警報が鳴っている。
なにか取り返しのつかない事になる。
そんな予感がしていた。
「おいおい、まんざら他人ってわけでもねえのに、ずいぶんなご挨拶だな」
そいつが、大げさに呆れたジェスチャーをした。
「俺の名前は、唯野誠一郎だ、よろしくな」
「馬鹿を言うな! 唯野誠一郎は僕だ!」
馴れ馴れしく差し出した、そいつの右手を払いのけて叫ぶ。
こいつは、僕が混乱したり驚いたりするのを楽しんでいる。
それを隠そうともしない態度に、生理的な嫌悪感を抱いた。
「まあ、そういきり立つなって、俺は別にお前さんを取って食おうってわけじゃ無えんだ」
自分と同じ姿をしているせいだろうか、奴の軽薄な態度が、いちいち癇に障る。
「わざわざ僕に化けて、一体何の用だ!」
「だから変装じゃ無えって言ってんのに、わかんねえ奴だな」
奴は、そこで初めて僕を正面から見据えた。
「いやなに、これからその身体に厄介になるんで、一応挨拶でもと思ってな」
なんだって?
こいつ、僕の身体を乗っ取る気か。
現実的に考えて、そんなこと出来るわけが無い。
頭ではわかっていても、この異常な場所では何が起こってもおかしくない。
僕の背中を冷たい汗が一筋流れた。
奴が僕に一歩踏み出してくる。
「く、来るな!」
僕は一歩後ずさる。
「まあそう邪険にすんなって」
奴がまた一歩近づいてくる。
僕はまた一歩……下がれなかった。
身体がまるで金縛りにあったように言うことをきかない。
「残念だったな、ここでは俺の支配力の方が強いんだ。逃げられんよ」
余裕の笑みを浮かべたまま、奴が近づいて来る。
「やめろ! 来るな! 来ないでくれ!」
僕は半狂乱になって叫んだ。
奴が僕の胸元へ手を伸ばす。
僕はそこから目を離すことができなかった。
奴の手が、まるで実体が無いかのように、僕の身体の中に、ずぶりと入り込んだ。
赤の他人に身体をまさぐられるような、激しい嫌悪感が胸元から手足の先まで広がった。
「仲良くやろうぜ、よろしくな」
すぐ近くで聞こえる奴の声は、耳元からか、それとも頭の中から聞こえてるのか。
「やめてくれー!」
僕は叫び声と共に跳ね起きた。
そこは、僕の部屋のベッドの上だった。
窓から差し込んでくる光がまぶしい。
……夢、だったのか?
まるで水でもかぶったかのように、びっしょりと寝汗をかいている。
胸元に、まだあの嫌悪感が、わだかまっているようだ。
昨夜は、社長の家で晩ご飯をご馳走になって、終電近くになってから家を出て、それから……。
僕は、辺りに脱ぎ散らかした服を見ながら、必死に思い出そうとした。
霞がかかったようで、頭がうまく回らない。
うっすらとだが、電車に乗った記憶も、自分のマンションの鍵を開けた記憶もあるような気がする。
すると、やっぱり夢なのか?
赤く明滅する空間に立つ、自分と同じ姿の男。
やけにリアルではあったが、常識的に考えて、そんなことが現実にあるはずがない。
「おとぎ話じゃあるまいし」
思わず苦笑が漏れる。
とりあえず、シャワーでも浴びて汗を流そう。
僕は、夢の残滓を振り払うように、ベッドから勢い良く降りた。
今日の作業は、昨日に引き続き倉庫の荷物整理だ。
所狭しと置かれた部品は、ビス一本、トランジスタ一個から、一人では、とても動かせそうもない大きな物まで色々ある。
正直、何に使うのかもわからない物ばかりだが、工作機械の使い込みようといい、ああ見えて社長の腕は、かなり確かなのだろう。
それにしても、このモーターの大きさは全部ばらばらだな、一体どうやって整理しよう。
座り込んで、ぶつぶつと独り言を言いながら、手の平サイズの部品を選り分けていく。
「おつかれさま、たいへんでしょう?」
顔を上げると、社長の娘さんがお茶の乗ったトレイを片手に倉庫の戸口に立っていた。
「いえ、見たこと無い物ばかりで楽しいですよ」
「ほんと、お父さんも面倒になると、すぐ人に押し付けるんだから。倉庫の整理くらい普段から自分でやれば良いのに」
娘さんは軽く口を尖らせて、倉庫に入ってくる。
足元に結構色んな物が落ちてるのに、トレイを持ったままで、よく転ばないもんだ。
「お茶、ここに置きますね」
「あ、ありがとうございます。ええっと……」
しまった、きのう夕食の時に娘さんの名前を聞いたはずなのに、全く憶えてないぞ。
「あれ、名前教えてなかったですか? 昴です」
「すみません、昨日聞いてたはずなんですが、すっかり……」
「ふふ、お父さんに、だいぶ飲まされてましたものね」
記憶を失くすほど飲んだおぼえは無いんだが、いやはや情けない。
「女の子で昴なんて、変わってるでしょ?」
「いえ、そんなことは無いですよ」
「ありがと、お父さんが付けてくれたんだけど、産まれる前から決めてたらしくて、女の子だって言われても押し切っちゃったんですって」
「お父さん、星が好きなんですか?」
「ええ、そりゃあもう。このあいだ探査機か何かが地球戻ってきたとかってニュースでやってたでしょ? あれ見て燃え上がっちゃって、倉庫がこんな風になってるのも半分はそれが原因なんですよ」
「……はは」
「ワシならもっと精度の高い部品が作れる! ってもう大張り切り」
娘さんの呆れ顔に、思わず苦笑が漏れる。
「昴さんは、お父さんのこと好きなんですね」
「年上の人に、さん付けされるとくすぐったいです。ちゃん付け、いっそ呼び捨てでも良いですよ」
「いや、それはさすがに……じゃあ、昴ちゃんで」
「はい。どうなんでしょう? 自分では良くわかりませんけど、尊敬はしてますよ」
その時、工場の方から昴ちゃんを呼ぶ社長の声が響いてきた。
「あ、もう行かなきゃ。 あんまり無理しないでくださいね」
「はい、お茶ありがとうございました」
「うちはみんな家族みたいなもんですから、他人行儀は無しですよ?」
昴ちゃんは、ちょっと咎めるような表情を見せると、慌てて倉庫を出て行った。
気を使ってくれてるのか、人の温かみが身体に染み渡るようで、とてもありがたい。
「さあ、やるか!」
皆の恩に報いるためにも、頑張らなきゃな。
僕は再び、膨大な部品と格闘し始めた。
「今日は疲れたろ、早く帰って休むと良い。おつかれさん」
「では、失礼します」
見送る社長に挨拶をして、僕は外に出る。
辺りはもう、とっぷりと日が暮れていた。
悲鳴を上げる太ももや腰が、いままで運動不足だったことを痛感させる。
こりゃ、明日は起きるの大変だぞ。
今日は、とっとと帰って、シャワーでも浴びて寝てしまおう。
おっと、その前に晩ご飯だな。
電車を降りて、帰り道にあるコンビニへと向かう。
料理はできないわけではないが、身体が痛くてどうにも面倒だ。
今日のところは買って済ませることにしよう。
昼夜を問わず、煌々とついているコンビニの明かりに吸い寄せられるのは虫だけでは無いらしい。
そこには三人ほどの男たちがしゃがみこんでいた。
まったく、運が悪い。
わざわざ、こんな所で宴会などしなくても良いだろうに。
無関心を装って、足早に立ち去ろうとしたが、時すでに遅し。
男の一人が立ち上がって、実にだらしない歩き方で近寄ってきた。
着ているジャンパーの真っ赤な色が目に痛い。
「よう、そこのあんちゃん。 俺たち帰りの電車賃が無くて困ってんだけどさあ」
きつい香水の匂いをぷんぷんさせたその男は、酒臭い息と共に、実に定番のセリフを吐く。
「ちょっと金貸してくんねぇかなぁ」
残りの二人が、にやにやと下品な顔で歩いてくる。
「すいませんが、ちょっと急いでますので」
「そう邪険にしなくても良いじゃねえか、何も身包み剥ごうってんじゃ無いんだから」
どうあっても逃がす気は無いらしい。
後の二人に、僕はすっかり囲まれてしまう。
「ほんの一万か二万で良いんだ、頼むから大人しく貸してくれや」
コンビニの店内では、こちらが見えているのかいないのか、店員が無関心を装って、向こうを見ている。
なにが、「ほんの一万か二万」だ、返す気も無いくせに。
なんで、こんな社会に迷惑ばかりかけているような奴らが、大手を振って歩いているのか。
不意に、僕の中で理不尽に対する怒りが湧き上がった。
「どいてくれ」
「おっと、そうは行かねぇな」
「どけって言ってんだ!」
道を塞いでいた男たちは、僕の剣幕に一瞬動きが止まった。
が、まるでそれがプライドを傷つけたと言わんばかりに睨み返してくる。
「てめぇ、良い度胸じゃねえか」
赤ジャンパーの男が僕の胸ぐらを掴んで引き寄せる。
その手を振り払おうとするより早く、男の拳が僕の頬に炸裂した。
二、三歩よろけて、そこで踏ん張りが効かなくなって尻餅をついた僕を、男たちは寄ってたかって蹴りつける。
急所を守るのに丸くなるだけで精一杯だった僕の手足や背中に男たちの爪先が容赦なくめりこんだ。
げらげらと楽しそうに笑う声が聞こえる。
こんなことの何が楽しいんだ。
僕が一体なにをしたって言うんだ!
許せない! こんなことが許されてたまるもんか!
抵抗できない悔しさと、激しい怒りに我を忘れた僕は、顔を上げて目の前の男を睨み付けた。
翻る赤いジャンパーが目に入った次の瞬間、こめかみにめり込んだ靴の踵のあまりの衝撃に、僕の意識は闇の底へと落ちていった。