残された物
こうしてプレシャススタッフが行っていた事の全ては白日の下にさらされた。
当連載から始まった一連の動きが遂には警察を動かし、摘発という事態に至ったことについて、世論の力というものに筆者は感嘆を禁じ得ない。
公式発表によると、一企業との癒着という司法の根幹を揺るがす事態のなった今回の件について、警察はその威信を賭けて第三者専門機関を設置し内部調査に踏み切ったということである。
これらの一連の動きが民衆の目を逸らすための単なるスケープゴートで終わらないためには、我々マスコミに携わる人間がしっかりと襟を正して監査していかねばならない。
ただ一つ惜しむべきこととしては、本誌に情報を提供し、事件解決の立役者となるはずであったT氏が病院への搬送中に亡くなったことだ。
もし彼が今の状況を知れば、いかなる感想を持つか、それを聞く機会が永遠に失われたことは非常に残念に思う。
本誌が独自に入手した彼が日々を綴った直筆の手帳によれば、理不尽な轢き逃げによって最愛の人を失い、半ば虚脱状態となっていたT氏はプレシャススタッフに復讐を果たす機会を与えられることによって人としての生活を取り戻した。
その後、彼は世の中の理不尽と闘うという大義名分を掲げ暴力行為に明け暮れることとなる。
最後には読者の皆様もご存じのことと思うが、通り魔殺人事件を引き起こし、逮捕された。
『罪を憎んで人を憎まず』
日本人の心に根差し、性善説に基づいた非常に美しい言葉といえよう。
この国における刑罰は、この精神に則り、犯罪者の更生と社会復帰を重視する。
慎重を期し冤罪を防ぐため三審制を導入し、刑罰が確定した者に対しても最低限の生活を保証する。
しかし、それは時に被害者への軽視と映る場合がある。
T氏の場合がまさにそれで、彼は現行の制度と犯人を許せないという遺族感情の狭間で苦しんでいた。
無気力に毎日を過していた彼に、もし復讐の機会を与えられなかったら、どうなっていたことであろうか。
そのまま絶望のうちに一生を終えるか、はたまた自ら命を絶つか。
どちらにせよ良い結末になったとは到底思えない。
もちろん私刑である個人による復讐が正しいと言うつもりは無い。
しかし、この行為がT氏が立ち直るきっかけとなった事もまた事実として受け止める必要があるのでは無いだろうか?
法制度によって刑罰が確定するまで何年もかかり、しかもそれが済めば何事も無かったかのように社会に復帰する。
もちろん少なからず何がしかの不便はあるだろう。
しかし、それにしたところで命を奪われた被害者本人に比べればどんなに幸せなことであろう。
被害者感情の側に立った場合、それを理不尽と感じるのは致し方無いと筆者は思う。
実際、T氏の手記に綴られた無念さは、胸を打つものがあった。
今、世の中は犯罪者に対する厳罰化の流れになっている。
もし自分がこのような事態に直面した場合には、自分の手で犯人に思い知らせたいと思う者も少なくないかも知れない。
だが本当にそんな事を願う前に、そこで一度立ち止まって欲しい。
なぜなら、人は他人を殺すという行為は想像以上の重さを伴うからである。
もちろん例外はあるだろう。
もし万人がそうであるならば、そもそも殺人事件という物そのものが成り立たないからだ。
だが、それらの例外があってなお、一般大多数の人々は如何なる理由があろうと、その重さに耐えることは難しいと言わざるを得ない。
T氏もまた、そうであった。
彼の手記に登場する『オレ』なる人物は、本人の話では逃避行動によって彼の中に生まれた暴力的なもう一つの人格であったと言う。
筆者が最後にT氏と会った際、彼はこの暴力的な部分を疎ましく思う一方で自分が理不尽と感じたことを跳ね除ける力として依存もしているように感じられた。
手記を託された時、これを使って、すべてを白日の下に晒してほしいと頼まれた。
諦めに近い表情だったT氏が、それでも必死になって訴えたかった物、それが何だったのか、それは筆者にも誰にもわからない。
僭越であるのを覚悟の上で、筆者の考えをここで述べさせていただこうと思う。
T氏自身が、この結果に満足していたのかどうかは誰にもわからない。
しかし彼の生き様は、犯罪を未然に防ぐことのできない警察。
遺族感情を置き去りにする司法。
そして、突如として巻き込まれる理不尽な犯罪。
それらへの問いかけでは無かったかと筆者には感じられるのだ。
もちろん神ならぬ身である自分には、何が正しいのか、どうすれば良かったのかを軽々しく語ることはできない。
ただ願わくば、これを読んだ方々が犯罪と刑罰、そして復讐に対して今一度向き合うきっかけになることを祈るばかりである。
「週刊バッカス短期集中連載『復讐の価値』最終回より」




