突然のメール
西側を向いた大きな窓から差し込む夕日の中を、ゆっくりと埃が舞っている。
動くものも何も無い部屋の中は、まるで時が止まってしまったかのようだ。
そして、その部屋の主である僕自身も彫像のように動かず、ベッドに背中を預けていた。
夢も、希望も、悲しみや絶望すらも今の僕の中には存在しない。
無精ひげも伸び放題だろうし、仕事にも行ってない。
ただ生きているだけの、文字通りの抜け殻。
いっそこのまま風化して無くなってしまえばいいと思うくらい、何も無かった。
真っ赤だった夕日は、徐々にその色合いを変え、紫から青へと移り変わっていく。
と、その時である。
ピリリリ! ピリリリ!
沈黙が支配する部屋を、携帯電話の無機質な電子音が引き裂いた。
どうやらメールが来たようだ。
心底めんどうくさいと思いながらも、ベッドの上に放り出された携帯電話を探す。
そこは、しばらく使っていないのが一目でわかるほど散らかりようで、なかなか見つからない。
途中で何度かやめそうになりながらも、ゴミをかき回して携帯電話を探し出した。
別にメールなんてどうでも良いのに、今回に限って何故こんなに一生懸命探しているのだろう。理由は良くわからない、強いてあげれば虫の知らせとでも言おうか。
すっかり日が落ちて薄暗くなった部屋の中で、ようやく探し出した携帯電話は、着信の名残である青いランプを点滅させていた。
緩慢な動作で携帯電話の画面を開く。
唯野誠一郎さま
突然のメールをご容赦ください。
あなた様にぜひご一読いただきたい耳寄りな情報が……
よくある迷惑メールというやつだ。
物凄い脱力感に襲われ、僕は手の中の携帯電話を無造作に放り出した。
どうせこの後には、どこぞの素敵な女性と会えるだの、絶対に儲かる投資法があるだのと、誰が引っかかるのかと思うほど胡散臭い言葉が並んでいるに決まってる。
ん?
まてよ?
再び呆けたように虚空を見つめていた僕の頭を奇妙な違和感がよぎった。
先ほど見たメールの文面を思い出す。
『唯野誠一郎さま』
そうだ、メールの書き出し部分だ。
ネット上のハンドルネームならともかく、僕の本名から始まるなんて、どう考えてもおかしい。
業者が何万通と同時に送るようなメールだ、そんなものにいちいち受信者の名前なんて入れるわけがない。
それに、携帯電話の中に自分のフルネームなんて入れた憶えは無いから、ここから名前を拾い出すこともできないはず。
すると、この妙なメールは、誰かが僕宛に送りつけてきた物なのか?
僕は、頭を何度か振って、思考の中にかかっていた霞のようなものを振り払った。
幾分か、ましになった気がする頭で、改めてメールの文面を読んでみる。
唯野誠一郎さま
突然のメールをご容赦ください。
あなたにぜひご一読いただきたい耳寄りな情報がございまして、取り急ぎご連絡させていただきました次第です。
このメールは、さる○月×日に沢渡響子さまが不幸にも轢き逃げに会った件に関して、その関係者にのみ送信させていただいております。
さて、この事件の加害者である「寺島圭司」ですが、現在、警察より身柄を引き渡され、当方にてお預かりしております。
被害者さまの無念の感は、当方では推し量ることもできないほど大きいものと存じます。
そこで、このメールを受け取ったあなたさま自ら、そのご無念を晴らす機会を当社にて設けさせていただければと考えております。
その後は、参加の意志があるのであれば、添付アドレス宛に空メールを送ること。
そして、主催の会社名、連絡先や期限、参加費用などの情報が箇条書きで表記されていた。
文体そのものは、型通りのビジネス文書か何かのような言い回しだったが、その内容はにわかには信じがたい物だった。
僕自身の手で仇討ちができる? この法治国家の日本で? そんなばかな!
僕は何度か大きく深呼吸をした、心臓の高鳴りがおさまらない。
こんなもの誰かのイタズラか、金目的の詐欺に決まっている。
でも、もし万が一これが本当のことなら……。
猜疑心と期待が交互に襲ってきて、頭が混乱する。
その時、ふと今まで目が行かなかったが、メールに添付ファイルが付いているのに気が付いた。
慌てて開いてみたそれは、二枚の小さな写真だった。
一枚は生前に撮られたものだろう、快活に笑う沢渡響子のものだ。
そして、もう一枚は、どこかの殺風景な部屋の中で、ロープで手足を縛られてカメラを睨み付ける男が写っていた。
間違いない、こいつだ。僕の元から響子を奪った奴。
写真の中の響子の笑顔は、僕の忘れていた感情に鋭く突き刺さり、自然と涙が滲んできた。
慎重過ぎて積極性のあまり無い僕と、さっぱりした性格で決断の早い響子は、正反対ながら何故か気があった。
やがて結婚の約束もし、二人でその資金を貯めていた矢先、彼女は僕の目の前で信号無視で突っ込んできた車に撥ねられた。
あの時のドライバーのまるでゴミでも引っ掛けたかのような面倒臭そうな表情は、未だに目に焼きついて離れない。
夕日に照らされた道路を、彼女の血が更に真っ赤に染め上げていく。
そこから先の記憶はあまり無い。
気が付くと、僕は病院でなす術も無く彼女の手を握り締めていた。
結局、響子は僕と両親に見守られながら、一度も意識を取り戻すことなく息を引き取った。
悲しみ、絶望、まるで世界の終わりのような衝撃。
いや、僕の世界は文字通り終わってしまっていた。
その場で一生分の涙を流しつくした僕に残されたのは、身を焦がすほどの怒りの炎だった。
響子は信号に従って、きちんと横断歩道を渡っていたのだ、こんな理不尽は絶対に許されることでは無い。
ドライバーの顔も、車種も、ナンバープレートに至るまで鮮明に覚えている。
たとえ地の果てだろうと追い詰めて、この手で自分のやったことの報いを思い知らせてやる。
しかし、現実は、さらにひどい絶望を僕に突きつけた。
響子を轢き逃げした男は、そのすぐ後に速度超過で警察に止められ、その時に発見された激突痕を問いただされて逮捕されたというのだ。
まだ未成年だったらしい奴は、これから延々と裁判で時間をかけた挙句に、ものの十年かそこらで何食わぬ顔で社会に舞い戻ってくるのだろう。
しかもそれまでは警察の絶対権力に守られ、名前すらも公開されない。
何の謂れも無いのに病院の片隅で冷たくなった響子。
それを強いたにも関わらず、警察に守られ、ぬけぬけと生き続けている奴。
振り上げた拳の下ろし所を失った僕の中で、何かが壊れた……。
思い出したくもなかった記憶の残滓を振り払い、僕は改めて、もう一度、写真を確認した。
響子の写真は、おそらく遺族から提供されたのだろう、新聞やニュースでも見たことのある物だ。
しかし、もう一枚の写真は一体どこで撮られたものだろう。
それこそ警察の取り調べ室のような無機質な部屋だが、手足をぐるぐる巻きにするなど、このマスコミやネットがうるさい時代に、警察がやるだろうか。
しかも、この寺島圭司という名前が本当なら、メールの送り主は、少年法に守られ公開されていないはずの加害者の男の本名を知っていることになる。
信用できるのか?
参加費用は二百万。メールで承諾して、ぽんと出すには十分に法外な金額だ。
そして、主催している会社「(株)プレシャス・スタッフ」
TVのCMなんかでも聞いたことがある。
人材派遣を中心に、リースやファイナンスなど手広くやっている会社だ。
以前、何かの用事で本社ビルの前を通ったことがあるが、かなりの大きさだった記憶がある。
空メールの返信用アドレスにカーソルを合わせたまま、しばし逡巡する。
最後に僕の背中を押したのは、「お客様が当社においで下さるまで、当該メールでは、いっさい個人情報をお聞きいたしません」というメールの最後に書かれていた一文だった。
メールの返信は、ほどなくして届いた。
コンピュータか何かで自動返信しているのか、夜だというのに、やけに対応が早い。
「お申し込みありがとうございます」とタイトルのついたメールには、本社ビルの場所、受付できる日付と時間、そして受付IDが記載されている。
どうやら、こちらから出向いて、受付でこのメールを見せれば良いらしい。
日付の方は、明日でもOKなようだ。
まだ半信半疑ではあったが、ここまで手が込んでいて、ただのイタズラというのは考えにくい。
とにかく、明日には事の真偽がはっきりする。
逸る気持ちを抑えきれずに、僕は立ち上がって、意味も無く部屋をうろうろと歩き回った。
いままで半ば死んでいたかのような意識が、目的を得て急速に覚醒していく。
まずは夜が明けたら風呂に入って、髭をそらなきゃな、そして通帳の残高を確認して、それから……。
そこで僕は、いまさらながら自分の居た部屋の惨状に気付いた。
いったい何日呆けていたのかわからないが、いくらなんでもこれは酷すぎる。
何よりもまずは掃除だ。夜が明けるまでの時間潰しにも丁度良い。
僕は、ほうきとゴミ袋を手に取った。