日本時計監督協会
一
強烈な喉の渇きで目が覚めた。
昨日は金曜日で、久しぶりに大学時代の友達と飲みまくって、終電を逃したんだっけ…タクシーで帰ってきたような淡い記憶もある。外は明るいから、朝かもしれないし、夕方かもしれない。さすがに三十時間寝たってことはないだろうから、今日はかろうじて土曜日だ。
とりあえず、ベッドにくっついてしまったんじゃないかと思うような体を無理矢理ひきはがし、水を二杯飲んでからトイレに行った。戻ってきてから、もう一度寝ようかとも思ったけれど、今晩眠れなくなるのも困るので、ベッドに座って少しぼうっとしていた。
……で、今何時だ?
ベッドの上の時計を見てみると、針は6時を指していた。
……6時。
結局朝なのか夕方なのか分からない時間だ。夏だと朝の6時も夕方の6時もどっちも明るい。まだ少しぼうっとしながら、携帯を開いてみた。
11:27
……なんだ、狂っているのか。
今はほぼお昼。七時間くらい寝てたってことか。まぁちょうどいいくらいだ。
お昼だと知ったからなのか、途端にお腹が減ってきたので、冷蔵庫に向かった。なんでもいいから胃の中に放り込みたい。そして冷蔵庫に手をかけた。
16:36
……冷蔵庫に貼ってあるタイマー時計は、16時36分を主張している。どういうことだ?僕は少し訳が分からなくなって、もう一度携帯を開いてみた。
11:29
まいったな。三個ある時計のうち二個が狂っているらしい。そんなこと、二十数年間生きてきて初めてだ。
しかもこうなると、どの時間が正しいのかさえも分からなくなる。僕は答え合わせをするつもりで、机の上に置いてある腕時計をつかんだ。針は2時10分を過ぎたところだった。
少しやけになって、机の奥に突っ込んであった、別の腕時計をひっぱりだした。去年の夏にその頃付き合っていた彼女からもらった時計で、冬に別れて以来していないやつだ。針は8時55分を指していた。
少し頭が混乱してきた……整理してみよう。
僕の家には時計が五つある。最初に見たベッドの上のアナログ。携帯の画面に表示されているもの。冷蔵庫に張ってあるデジタル。いつも付けている腕時計。そして、元カノにもらった腕時計。
その全てが、別々の時を主張しているのだ。もちろん時計が止まっていたことは二十数年間で何度かあるし、少しくらいは狂ったことだってあった。でも、彼ら時計たちはいつだって、たいていは足並みを揃えていたし、そのうちの一人が落ちこぼれた時も、他のやつらはおかまいなしに同じ時間を刻んでいた。だからこそ僕はその落ちこぼれに新しい電池を入れてやり、もとの群れに戻してやることができたのだ。
それが今は、五人中五人、全員が各自で突っ走っている。
よくよく考えると不思議なもので、最初は二台目の時計が正しいと思っていた。つまりベッドの上のアナログが6時と言っていようと、なぜかその後に覗いた携帯の「11:27」の方が正しいと思ったのだ。もしかしたら携帯の方が狂っているのかもしれないのに、なぜか二番目に見た携帯の指す時刻が正しい気がしたのだ。たぶん五台ある中の二台をどの順番で見ていても、僕は二台目の時計が正しいと思い込んでいた気がする。
でも今は、五台中五台、全部がそれぞれ突っ走っている。
僕は、またベッドの上でぼうっとしていた。なんだか、僕が時計の群れから置いてきぼりをくらったような気分だ。いつも、落ちこぼれを群れに戻してやったのは僕だったのに、やつらはそんな僕を置いて、好き勝手な方向に散らばっていった、そんな気がしていた。可愛がって育ててきた生徒が、自分を裏切って授業が崩壊していく、そんな気がしていた。
二
玄関のベルの音がした。それは最初、ベルだということにも気が付かなかったほどのベルの音で、映画の中の小さな効果音、分かる人にだけ分かる音、そんな音だったと思う。三度目くらいで、ようやくそれが玄関のベルの音だということに気が付いた僕は、まるで救世主が来たかのような、そんな気分になって、急いで玄関のドアを開けた。
そこにはベルを鳴らした男が立っていたが、地味なスーツ姿といい、地味な顔立ちといい、どう見ても救世主のようには思えない。しかし、まるで僕がそう思ったことに気が付いたかのように、彼はこう言った。
「お忙しいところ申し訳ありません。NTKの者です。」
「すみません、受信料なら払っているはずですけど…」と僕。
「いえ、NHKではありません。NTKです。」
彼は明らかに<T>を強めに発音した。
「NTK?」と僕。
「はい、日本時計監督協会、略してNTKでございます。まぁNTKKと言うべきなのかもしれませんがね。」
そう言いながら、彼は少し笑った。全然面白くなかったし、むしろその笑顔は僕をイラッとさせた。
「なんですか、それは?時計なら結構です。足りています。」
僕はこの時、自分の可愛い時計達が大変なことになっていることを忘れていた。
「いえいえ、訪問販売などではございません。私どもは先ほども申し上げました通り、時計の監督をさせていただいております。」
NTKは馬鹿らしくなるほど、馬鹿丁寧な物腰だった。そして、それがまた僕をイラッとさせた。
「だから、なんだって言うんですか?今忙しいんです。申し訳ないですけど、また今度にしてください。」
僕がそう言うと、NTKはまた少し笑ったようだった。
「申し訳ございません。いや、実を申しますと、その、お宅のですね…」
そう言いながら、NTKは周りをチラチラと見た。「外では話しにくい。だから中へ入れてはもらえないだろうか?」要は、その仕草だった。そして小声でもう一度、「日本時計監督協会です」と言った。
今度は<監督>の部分を明らかに強く発音していて、僕はその一言で魔法にかかったかのように、NTKを簡単に部屋に入れてしまった。
「いやぁ、いい部屋ですねぇ」NTKは部屋に入るなり、そう言った。
ベッドに、机に、冷蔵庫に、テレビ。僕の部屋はどの角度から見たってけっしていいところではない。でも、見え透いたお世辞にさえ、もうイラッとはしなかった。「イラッとする余裕がなかった」と言う方が、正しいかもしれない。僕は機械的にクッションをすすめ、機械的にコーヒーまで出していた。僕がポットになって、彼が僕をつかんでコーヒーを注いでいる、それくらい僕は機械的に動いていたと思う。
彼は、そのコーヒーを唇に付けたか付けないかくらいで、机に置いてしまって、まるでこれからの話のプロローグのように、小さく咳払いをした。そして僕は、その物語をじっと待っていた。
三
「突然のことでなんだか訳が分からないかもしれませんが、まぁリラックスして聞いてください。」
「はぁ……」
「リラックスしてください」という言葉ほど、言われてリラックスできない言葉は、この世にないんじゃないだろうか……この先、おかまいなしに彼の話は続くことになったのだが、自分の言葉で、相手が本当にリラックスできたとでも思ったのだろうか。そうだとしたらNTKというこいつ、相当ツワモノである。
「先ほども申し上げましたがね、私どもは時計の監督をしております。もう少し分かりやすく言えば、時計の動きを見張っているわけです。今日はお宅の時計がたいそうご迷惑をおかけしたと思うのですが……?」
僕は半分言われるがまま、「まぁ、そうですね。あれにはまいりました。」と答えた。
「本当に申し訳ございませんでした。私どもの監督不行き届きとしか言いようがございません。いや、実はですね、あまり知られてはいないのですが、私どもNTKは時計の親分とも言いますか、何と言いますか、彼ら時計の動きを常に見張っておるのです。彼らは、お客様方からしましたら、24時間365日、機械的に規則正しく動いているように見えるでしょう。しかしですね、実際はそうはいかんのです。」
彼はチラッと僕を見た。いや、ちょうど僕の後ろにあるベッドの上の時計を見たようだ。
「時計という生き物は、実に自分勝手な生き物でしてね。彼らは本来、全くバラバラに動くのです。日本中、世界中にある、ありとあらゆる時計が、本来は勝手に動いておる訳です。もうすでに、お察しのところかとは思いますが、私どもはそれを常に監督している。つまり、規則正しく動くように指示しているわけです。
昔は、まぁ、ざっと4000年ほど前でしょうか、時計が生まれたあたりですね。そのころから、私どもは彼らを監督する役目を仰せつかっている訳ですが、昔は時計というやつはたいそう意地っ張りでしてね。今の言葉で言えば、すぐ「針が狂う」わけです。
人は必死に直します。時計に熱い思いを込めて、日時計を頼りに、必死に懇願するわけです。『お願いします、今の正確な時を教えてください』と。まぁそう言われれば、彼ら時計も嫌な気はしませんでしょう。そこそこに動いてやるという具合です。」
彼はコーヒーを唇に付けた。
「それで、よかったわけです。人は必死に時を知りたがる、時計はおだてあげられて正確に動く。私どもの先輩は暇だったでしょうねぇ。
しかしです。それが、中世のころですね、だんだんと変化してきたわけです。人は時計を機械的に改良していき、彼らを強制的に正確に走らせることにしたのです。
人は決定的に勘違いをしておりました。『時計をつかさどること、イコール、時をつかさどること』だと。
あくまで時計は、ただ、<時>を表す生き物です。時計自身、自らを勘違いしていたことも少なからずありましたが、まぁ、それも今となっては可愛らしいものですよ。人のそれと比べましたらね。時計はあくまで<時>という目に見えない宇宙的フィルムを映し出すスクリーンにすぎないのです。」
彼は一方的に話し続けた。しかし、それは言いなれた台詞のようには聞こえず、今僕のために一言一句を選んで語っている印象を受けた。コーヒーは喉まで届くこともなく、唇を塗る程度にしかならない。それくらい彼は、僕のためだけに話していた。
「人は、ほぼ完璧に、と言いますのも太陽や月の動きなどにあわせて、ほぼ完璧に時計を支配しました。人にとって時をつかさどることは神になったも同然だったようです。時は、宇宙の要素の重要な、非常に重要な一部ですから。まぁ、その気持も理解はできますが。
しかし、何度も言いますように、時計を支配することは、<時>を支配することではありません。スクリーンに色を塗っただけで、フィルムまでがその色に変わることはないでしょう?人はその勘違いを時計に押し付け、支配し、時計はその勘違いを背負わされたまま、500年近く走らされているわけです。
もちろん、時計の中にもたまに、革命を夢見る者も現れました。時計からすれば<原点回帰>です。人がまだ自分たちを支配していなかった時代に戻ろうという回帰。そこで、彼は足並みを乱すことにします。時計が狂うわけです。しかし、他の時計は後について来ません。人が強烈なまでに彼らを縛ってきたせいで、彼らのほとんどは足並みを揃えることに必死、捨てられないことにまず必死なのです。革命なんて考えている余裕はありません。そして革命は、儚く終わります。革命を企てた者は、無理矢理もとの列に戻されるのです。何度か革命を試みれば捨てられます。そして、終わりです。」
彼はまた僕を見た。今度はまぎれもなく僕を見ていた。後ろにある時計までもが、僕を見ていた。
「そして、今日、革命が起きたのです。まさにこの場所で。」
僕はコーヒーを飲むふりをして唾を飲んだ。唾を飲むことがこんなに難しかったのは初めてだったと思う。
「私どもは監督する立場ですので、けっして時計の言い分を全て認めるわけではありません。彼らだって、えらそうにチクタクしていた頃もあるのですから、原点に戻らせるのも危険です。しかし、今日、実際に革命は起こりました。もちろんこの後、彼らはまた足並みを揃えるでしょう。でも、それはあなたに縛られた結果ではありません。あくまで、彼ら自身の行進です。」
四
「そろそろ時間です。」 ―――そんな感じの事を言って、彼はゆっくり立ちあがった。僕は、彼の動きに引っ張られるかのように立ち上がり、まるで彼に連れて行かれるように玄関まで歩いた。自分の部屋だというのに惨めな囚人が解放されるまでの道のりのように思えたし、たしかに僕は堂々とは歩けなかった。そして、彼が革靴を履くのをぼんやりと眺めていた。
「あ、そうそう。コーヒー、ごちそうさまでした。私はあぁいう濃いコーヒーが好きでしてね。ゆっくり時間をかけてドリップして、ゆっくり時間をかけて飲む。何より好きなんですよ。本当にごちそうさまでした。」
ドアを閉める音をエピローグにして、物語は終わった。
部屋に戻り、恐る恐るベッドの上の、さっき後ろから僕を見つめていた時計に目をやった。何となく、彼が革命の首謀者であるような気がしたのだ。
針は12時半を少し過ぎたところだった。
少し冷静になって考えてみると、NTKは1時間弱話をしていたと思うから、それから逆算して僕が起きたのは11時半前ということになる。そう言えば、2台目に見た携帯は<11:27>を表示していた。だとすれば、他の時計とは違って、携帯のそれは狂っていなかったということになる。理由はよく分からない。僕が日々携帯に感謝しているから、彼だけは反逆に加わらなかったのか。それとも携帯の中の時計と他の時計はそもそも種族とかが違って仲が悪いのか……考えても分からないことだ。
ただ、今僕の部屋にある全ての時計は同じ時間を指している。NTKの言葉を借りれば、今彼らは行進を始めたのだと思う。足並みを揃えて、彼らは彼らの行進を始めただけなのだ。