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後宮《ハレム》の女商人は謀略を売る  作者: 悠井すみれ
第一章 女奴隷と異国の貴公子の出会い
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第9話 契約成立

 スィーラーンは、バルトロとふたり、彼の屋敷の例の豪奢な客間にいた。


 人払いして扉も固く閉ざして、向かい合って座った卓上に屋敷の主が広げるのは、母后ヴァリデ・スルタンからの返信だ。後宮ハレムで成り上がるための努力の賜物だろう、ちらりと見えた筆跡は流麗で、しかも西方語の文法を見事に使いこなしているように見えた。


 穴が開きそうなほどにじっくりと、そして何度も手紙を読み直して、バルトロはようやくその状況を受け入れたようだった。つまり、祖国の密書を母后に届けることに成功し、しかも快い返事をもらえたのだ、と。


 手紙から顔を上げたバルトロの目は、素直な喜びと驚きで輝いていた。


「本当にやってくれるとは──いや、そもそも()()()目的さえ明かしていなかったのに。というか、貴女を危険に晒すところだったのに……!」

「お気になさらず。私は、異国の方より少しだけ後宮のことに詳しかっただけですから」


 ヴェール(ヤシュマク)を外したスィーラーンは、葡萄酒の果実水シェルベト割を飲み干してから微笑んだ。酒精の強さとしては物足りないけれど、果実水に使われた蜂蜜の甘みは乾いた喉を潤したし、薔薇の香りは張り詰めた神経を解してくれた。


 聞けば、彼女が宮殿サライに入った後、ゼーナの大使がわざわざ嫌味を言いに現れたのだとか。ゼーナがシェフターリと通じた手口を真似ようとしても無駄だ、とか何とか。


(まったく、性格が悪いんだから──でも、ゼーナのほうでも、母后と通じるために思いつく手段はそれくらいだった、ということね?)


 エステルを始末し、アダムを抱き込んだことで油断しているなら、反撃の余地は大いにあるだろう。……調子に乗っていられるのも、今のうちだ。


 闘志は裡に秘めて、スィーラーンは嫣然と微笑んだ。


「これで、私を信じてくださったでしょうか。金貨十枚には見合わない、()()()()()だったでしょう?」


 バルトロには、後宮での出来事をひと通り報告済みだ。彼の嘘を見抜いた上で利用して、母后への目通りを成功させた、と──ひと言ごとに彼の顔が引き攣ったり青褪めたり、くるくると表情を変えるのを見るのは楽しかった。


「ああ。まったく大した手腕だ。私のほうも、利用されていたんだろう?」


 そして今、異国の貴公子は晴れやかに笑っている。肩を竦めて両手を挙げる仕草と併せて、降参、の意味だろう。砕けた調子は、心の距離が縮まったことを示しているのだろうか。


「利用だなんて──どうしてそんな、人聞きの悪いことを?」

「言わせてくれ。私だって多少は考えることができるんだ」


 惚けて首を傾げると、バルトロは表情を苦笑に変えた。スィーラーンを見つめる金茶の目は鋭く真剣で、素顔で対峙するのは少々気恥ずかしい。頬の火傷痕のお陰で、赤くなったのがバレづらいのは、こういう場面では得なのだろう。


 スィーラーンの心の乱れには、幸い気付かれなかったのだろう。バルトロは、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべて身を乗り出した。赤金色の髪が揺れて、華やいだ香りをこちらの鼻先に漂わせる。


「貴女は、母后に対しても自身の値を吊り上げたのだろう? エステル・キラが亡くなった後、焦らしてから現れることで。しかも、イストリアからの密書を手土産にすれば、さぞ喜ばれただろう。貴女にとって、私は絹や宝石や香辛料を載せた船だった。訪れを待ち焦がれていたし、現れた時には歓喜したことだろう」


 待ち焦がれていた、という囁きは熱かった。けれど、恋情ではなく商人の思いを表しての言葉だったから、スィーラーンは自然に微笑むことができた。


(分かってくれている。この人も商人なのね)


 それも、なかなかに見る目がある。異国の貴族だからでもあるのだろうけれど、母后を取り入る対象としてだけでなく、駆け引きの相手としても見ているのだから。


「エステルを喪って、母后様は心細い思いをなさっていたと思います。焦らすなんて不敬ですわ」


 彼なら、多くを語らずとも、含みある微笑だけで分かってくれるだろう。それに、今後の話もできそうだ。そう、思ったのだけれど──


「だが、貴女にも読み切れなかったことがあると思う」

「……はい?」


 バルトロに、母后からの返信を突き付けられて、スィーラーンは目を瞬かせた。そして、声だけでなく心中でもほうける。


(……はい?)


 流麗な筆跡が綴る美辞麗句──イストリアの()()()()への謝辞に、歴史やら詩句やらを引用しつつ繁栄を願う挨拶文に。文字だけでも目が眩むようなきらきらしい紙面の中に、その一文はさらりと紛れ込んでいた。


 柘榴石の娘と結婚せよ。母后の代理人キラとの婚姻をもってイストリアとの同盟の証とする。


「……なるほど」


 呻きながら、スィーラーンは了解した。

 絶対に逃がさない、鎖をつけて飼い馴らす、という母后の強い意志が窺えた。


(若いと聞いて、結婚させれば早いと思ったのね……)


 母后の計らいでの縁組は、そう簡単に解消できるものではない。そんなことをすれば、帝国そのものへの敵対意志の表明と取られかねない。


 だからスィーラーンはもう逃げられない。イストリアも、同盟を裏切ることは簡単にはできない。


(手強い御方ね、本当……!)


 ひとつの石でふたつの獲物を仕留めんと狙うのは、母后も同じらしい。新しい代理人キラや同盟相手を得て喜ぶだけでは、確かに後宮の頂点に君臨することはできないだろう。


 顔を引き攣らせて紙面を食い入るように見つめていると、バルトロが心配そうな声を上げた。


「不本意だろうが──形だけで良い、協力してもらえるか? もちろん貴女に非礼は働かないし、快適に過ごせるように務める。望みがあるなら何でも言ってくれて良いから……!」

「まあ──」


 声だけでない、眉尻を下げて下手に出る構えの青年を見て、スィーラーンは素早く胸の中で算盤そろばんを弾いた。


(イストリアの貴族……後ろ盾としても仕入れ先としても、願ってもない……!)


 やられた、と思うのは早計だったかもしれない。後宮の女商人──エステルの後継を務めようにも、今の彼女には伝手も元手もないのだから。そこを一気に解決できる旦那様は、こちらから乞うてでも摑まえておくべきだ。


「何でも、だなんて。イストリアの商人が容易く口にすることではありませんわ」

「普通の商談なら、確かに。だが、今回は違うだろう。こういう──重要な席では、誠意を見せるものだ」


 もちろん、前のめりになって足もとを見られたくはない。だから、いったんは窘めてみたのだけれど──バルトロは、驚くほどに真っ直ぐな目で、頑なに首を振った。誠意、と言われるまでは、危うく本気で求婚されているのかと疑いかけたところだった。


 とはいえ、彼の真摯さは好ましく、信じるに値するだろうと思えた。


(夫婦というか──共同経営者、よね?)


 いずれにしても、足りないところを補い合う関係になるのだろう。

 スィーラーンは後宮の知識や帝国の習俗を。バルトロは、イストリアの権威と財力を。そう思えば、なかなか釣り合いが取れているかもしれない。


「望みというなら──旦那様の正体を伺っても?」


 契約成立の証に、ごくささやかな望みを口にする。隠し事はなしで、というのは、夫婦だろうと共同経営者だろうと当然の前提だ。


「ああ。黙っていてすまなかった」


 言外の意図を読み取ったのだろう、スィーラーンの夫だか相方だか運命共同体だかは、優雅な身のこなしで立ち上がった。


「バルトロというのは本名だ。ただ、先に名乗った姓は母のものだ。父の名はアントニオ・コンタリーニという」


 どこか照れくさそうに告げられたのは、予想していた以上に大物の名だった。アントニオ・コンタリーニといえば――


「……イストリアの元首ドージェ!?」


 驚きのあまり、スィーラーンは思わず椅子を蹴立てて立ち上がっていた。

 飾り気のない年相応の娘の言葉遣いで叫んでしまったのに気付いたのは、バルトロが軽く目を瞠ったのを見てからのこと。彼の前では、ここまで優雅な物腰を貫くことができていたのに。


「……良いのですか? 元首のご子息が、女奴隷と結婚なんて」

「私は三男なんだ。どうせ、元首職の世襲は許されないし──どうにでもなる」


 気まずさに目を逸らしながら早口に言うと、バルトロが肩を竦めたのが気配で伝わってきた。次いで、長靴ちょうかの足音が響くこと数度、スィーラーンは、金茶の目に見降ろされていた。


「イストリアは商人の国だ。良い買い物だと、貴女自身が言ったじゃないか。破格の値で手に入れたものを、逃がしはしない」

「……良いお心がけです」


 意外と背が高い人だ、と思いながら、スィーラーンは頷いた。どうでも良いことを考えていないと、距離の近さやバルトロの視線や声に篭もった熱を、意識してしまう。男に侍る技を習ったこともあるのに、情けない限りだ。


「では──」

「はい。どうぞよろしくお願いいたします」


 ともあれ、契約は成った。口づけでも指輪の交換でもなく、色気のない握手によって。商人同士の()()だから、これが似合いというものだ。


 新たに母后の信任を受けた後宮の女商人の噂が、帝都を賑わすのは間もなくだろう。

今回で第一章終わりです。以降、完結まで毎朝更新します。

評価・感想等、今後の参考と励みになりますので、よろしければお寄せいただけると嬉しいです。

どうぞよろしくお願いいたします。

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