第8話 腐敗した桃
スィーラーンは、膝で母后ににじり寄ると、密書――手紙と言われて預かったけれど、そうではないと確信している――を手渡した。
封印を破って羊皮紙を広げたカハラマーンは、興味深げに目を瞬かせた。
「ほう──」
「暗号が使われているかと存じますが。お手伝いいたしましょうか」
「要らぬ」
差し出口は、案の定あっさりと退けられた。エステルを介してのやり取りである以上、彼女が使っていた暗号についてはとうに承知しているということだろう。
実際、文字を追って左右する金色の目の動きに淀みはなかった。口元に微かに浮かぶ笑みからしても、記された内容を理解し、しかも満足していると見えた。
と、羊皮紙から目を上げないまま、カハラマーンが独り言のように漏らした。
「エステルが異国の政府の意向を伝えるとは、珍しいことであったな」
確かに、彼女は常に後宮、ひいては帝国の安定を考えていた。何も大それた正義感や慈悲深さからではなく、そのほうが商売がやりやすいから。市中にも数多いる客たちには、憂いなく安楽で余裕ある生活を営んでいて欲しいから。
それが、最後の最後に節を曲げたのは──イストリアと手を組まないことこそが、かえって国の乱れや、果ては荒廃を招きかねないと考えたからだろう。
帝国とイストリアはかつて何度も干戈を交えたし、特に海戦においてイストリアが勝利を収めたこともある。けれど、広大な領土を誇る帝国のほうが、常に国力の回復は早かった。
戦い合い疲弊し合うよりは、利用し合うほうが建設的だ、とは商人ならではの妥当な結論だ。だからエステルも理解を示したのだろうし――
「それだけ後宮の現状を憂えていたのでしょう。寵姫シェフターリは、噂に聞く限り厄介な御方のようですから」
皇帝の目に留まり、その関心を惹きつけ続け、しかも、後宮に囚われた身でありながら祖国と通じることに成功した女だ。只者のはずはないから、スィーラーンの相槌は不自然ではなかっただろう。カハラマーンが書簡から目を上げていたなら、彼女の深緑の目に不穏な煌めきが宿るのに、目ざとく気付いたかもしれないけれど。
(桃……今はそう呼ばれているのね)
甘く柔らかく芳しく、けれど熟し過ぎれば腐汁を滴らせて虫が湧く。可憐な容姿とどす黒い内面を兼ね備えたあの女には似合いの名前だ。
あの女は、かつては珊瑚と呼ばれていた。
ほんのわずか赤みがかった金の髪に、淡い青色の目、儚く砕ける白い波頭のように透明感のある華奢な肢体。南の海から産する宝石の名もまた、あの女の容姿に似合ってはいた。柘榴石と対になるように意識された名でもある。
けれど、あの女はスィーラーンと対であることを拒んだのだ。蜂蜜のように甘ったるくねばつくような笑い声が、熱と痛みと共に蘇る。
『ごめんなさいね、スィーラーン。私、皇帝の寵愛を独占したいの……!』
思えば、スィーラーンとは真逆の意味で、売られるだけの奴隷の身であることを良しとしない女だった。……だからこそ後宮で成り上がったと聞いても驚かないし、放っておくのは危うい、という懸念も身に染みて分かる。
「──この密書を携えてきたのは、どんな者であった」
と、不意に問われて、スィーラーンは母后の御前で気を散らせるという失態に気付いた。いつの間にか頬の傷痕を抑えていた手を床について、慌てて答える。
「まだお若い御方でした。イストリアの大評議会議員とのことですが、それだけではないかと存じます。これだけの大任を任せられるからには、要職にある御方に近しいのでは、と」
何しろ、イストリアの貴族は、成人すると例外なく大評議会に議席を得る。だから、バルトロの自己紹介は、貴族である、という以上の意味を持たない。そもそも、アダムの目の前で本当の立場を明かしたりはしないだろう。
(あんな豪邸に住んでいるのだし、ね?)
彼の立場のあるていどのところは、スィーラーンに見透かされた。
そして、母后にとっては、異国の貴族の身分の多少の高低は関心の外のようだった。細い顎に手を当てて、彼女が言及したのはまた別のところだったから。
「まだ若い、か」
「とはいえ、イストリアの貴族ならば、すでに交易も経験していらっしゃるでしょう。国の密書を女奴隷に託す度胸があるいっぽうで、ご自身の立場や自国の狙いのすべてを明かさなかったのは、堅実でもあるかと存じます」
気を揉みつつ待っているであろうバルトロは、今のスィーラーンにとっては商品だった。母后には、見た目以上の掘り出し物だと信じていただかなければならない。
「ご自身は若くとも、後ろにはイストリアがついております。カハラマーン様には、有望な同盟相手になるかと──」
「そして、そなたにとっては養母の仇を討つための踏み台になる、ということか」
けれど、スィーラーンは語り過ぎたようだった。商人としては強引過ぎたし、個人的な願望も見透かされてしまった。
(相手が母后様とはいえ、不覚だった……!)
母后とイストリアについて後宮に出入りすれば、おのずとシェフターリとゼーナと敵対することになる。エステルを殺した者たちに報復する機会と手段を、堂々と手に入れることができる。それも確かに、スィーラーンの目的だった。
「……はい。ご賢察の通りです」
未熟を認めて頭を垂れると、軽やかな笑い声が振ってきた。幸いに今の母后は機嫌が良く、必要以上の長広舌を咎める気はないようだ。
「エステルの息子も、妾に遣いを寄こすであろう。が、ゼーナに筒抜けになると思うと信用ならぬ。そなたを妾の代理人に任じよう」
「誠にありがたく存じます。ご信任に背かぬよう、誠心誠意お仕えいたします」
「うむ。エステルの無念を晴らせるか否かは、そなたの働きにかかっていることを忘れるな」
今度こそ短く答えると、カハラマーンは満足そうに頷いた。そして、指輪の宝石を煌めかせながら、宦官を手招きする。
「イストリアの使者に返信を認めるゆえ、しばし待て。後宮の甘味を堪能していくが良いぞ」
そうして、母后がペンを走らせる間、スィーラーンはお言葉に甘えて皇帝の菓子職人が作った蜜漬けパイと珈琲を賞味する栄誉に浴した。
しばらくの後、スィーラーンは元通り顔をヴェールで隠して母后の居室を後にした。
抱える籠の中には、来た時に詰めていたのとは比べ物にならないほど上質の宝飾品と焼き菓子、それに返信の密書が入っている。どれも、母后からバルトロ、ひいてはイストリアに宛てたお近づきの証だ。
(少し、遅くなったかしら。でも、これだけお土産があれば良いでしょう!)
女奴隷の宿舎から、宦官たちのそれへ。元来た道を足取り軽やかに辿るスィーラーンに、四方から視線が突き刺さるのが肌で感じられる。あるいは密かに、あるいはあからさまに、時には囁き声を伴って。
突然母后の居室へ呼び出され、しかも無傷で戻った行商人のことが、すでに噂になっているのだろう。
(ヴェールを取ったのは、母后の御前でだけ。シェフターリは、まだ私に気付かないと思う、けど……!)
エステルの屋敷の女奴隷が、イストリアの青年貴族に引き取られたこと。母后の代理人に任じられた若い女商人のことは、すぐにあの女の耳に入るだろう。その女の頬に火傷の痕があることも。
(望むところよ。ゼーナはエステルの仇。シェフターリは、私自身の仇なんだから)
皇帝が手に入れ損ねた至宝──エステルが彼女に与えてくれた箱書きは気に入っている。商人としての生き方も、思いのほかに彼女の気性に合っている。
けれど、あの熱と痛みを忘れてやるかどうかはまったく別だ。
シェフターリに、権勢をほしいままにさせたりはしない。必ず、その地位から引きずり下ろしてやる。
心中で決意を固めたころには、スィーラーンは後宮から出ていた。
耳が痛くなるほどの静謐、それが醸す荘厳さを感じながら、バルトロが待つであろう白亜の大理石の門を目指す。もちろん正門の通行は皇帝にしか許されていないから、実際に潜るのは衛兵や使用人の通用門だ。
帝都クスタンティニーヤの雑踏の賑わいまで、あと少し。あと少しで、気を緩めることができる。そう思った瞬間──
「──スィーラーンっ」
「……はい?」
大声で呼ばれて、スィーラーンは目を瞬かせた。一応は、門を一歩出たところでは、あった。けれど、皇宮の正門の前庭は、いまだ皇帝への敬意を表して沈黙すべき領域だろうに。あえて教えられずとも、その不文律は耳で察せられるだろうに。
(……何ごと?)
なのになぜ、彼──バルトロは、雷かと思うほどの大声で呼びかけて来たのだろう。異国人の無作法を、衛兵が険しい目で睨んでいるというのに。
「あの、ここでは──」
「無事で良かった。どうなることかと……!」
窘めようと、したのだけれど、バルトロの青褪めた顔、引き攣った声から何となく察する。
(ああ……気付いたの?)
彼女に聞かせた建前の話が、とても危ういものだったということ。下手をすれば、母后の怒りを買うところだったこと。だから焦って──彼女を案じて、いてくれたのか。
(優しくて、甘い――良い方ね)
スィーラーンは、主にして顧客の青年の気性を再び確かめて微笑んだ。後宮の中での首尾を聞き出そうというのか、大きく息を吸ったバルトロの唇を、人差し指でそっと封じながら。衛兵の耳を憚って、ヴェール越しにそっと、彼の耳元に囁く。
「ご安心ください。母后からのご返信はいただいております」
目を剥いたバルトロには、言いたいことも聞きたいこともあっただろうけれど──公衆の面前では、とても言えない。
だからスィーラーンは、驚きのあまり絶句したらしい青年を置いて、さっさと歩き出した。外国人居留区の、彼の住まいに向けて。イストリアと母后の同盟を仲介する役を仰せつかったからには、今やあの屋敷こそが彼女の帰る場所になるだろう。




