第7話 金色の雌獅子
母后の軽やかな笑い声が響いた。
「エステルの娘ならば、どうにかして妾の前に出向くだろうと考えていた。宮廷手話を使っての合図に加えて、顔の傷を利用して証拠とする二段構え──良い機転であった」
宮廷手話とは、静寂が尊ばれる皇宮で用いられる特殊な技だ。指や掌を閃かせて意志や命令を伝える優美な所作は、もはや一種の舞に近い。音もなく奴隷や宦官を操ることで、貴人の威厳を示すという発想だ。
後宮であるていどの地位にある者──その候補である、よく教育された奴隷も──には当然の知識だけれど、《《外》》の世界で知る者はほとんどいないだろう。
(ただの行商人が操るのを見れば、驚いて母后に注進に及ぶでしょうね)
女奴隷の中庭でスィーラーンを覗いていた道化の宦官は、声を持たない沈黙の者だった。
皇帝や后妃は、秘密を守るためにそういった者を重用する。エステルにも遣わされたことがあると聞いていたから、すぐ分かった。彼は、母后の命令で新しい行商人が怪しい動きをしないかどうか、もしやエステルの縁者ではないかと見張っていたのだろう。
だからスィーラーンは《《手を振って》》伝えたのだ。母后への目通りを望む、と。
「恐れ入ります」
恭しく答えると、緻密に織られた敷物に繊手の影が落ちて、スィーラーンにまた顔を上げるように命じる。そうして初めて、彼女はじっくりと母后の姿を眺める栄誉に浴することができた。
(エステルから話には聞いていたけど──)
厳しく恐ろしく抜け目なく、そして同時に美しい御方だ、と。その評になんの誇張もないことは、ほんの短い間でもよく分かった。
琥珀という名は、輝く金色の目からつけられたに違いない。その双眸に宿る力強い光を見るだけでも、分かる。
この御方こそ、先帝の数多の寵姫を蹴落として後宮の頂点に君臨した覇者。ひとりの女はひとりの皇子しか儲けられないという慣例を先帝に破らせたという美貌と才知、反対する者をことごとく退ける冷酷さと狡猾さを兼ね備える女傑。
深緋の絹のショールに金糸で描いた草花文様は、帝国好みの大振りで大胆な柄。下手な者が纏えば《《負け》》かねない強い色と模様も、母后は玉座の敷布のように平然と従えている。
結い上げて宝石で飾った髪もまた、王冠を思わせる金だった。輝く黄金というよりは燻した風情のある濃い色だけれど、それだけに、齢五十に手が届く年配にもかかわらず、ひと筋の白髪もなく艶も失われていないという事実が際立つ。
背の低い長椅子に横たわるしどけない姿も、年齢を感じさせないしなやかさと妖艶さだった。ぴったりとした上衣は、西方の貴婦人が身に着けるコルセットのように彼女の肢体の優美な曲線を見せつける。
もちろん、カザール帝国の母后ほどに、全身に絹と金銀と宝石を纏うことができる女人は、西方の女王や王妃にもそうはいないだろうけれど。
「エステル・キラの死はまことに遺憾であった。そなたも無念であろう」
「もったいないお言葉です」
紅玉や青玉、緑柱石を留めた重たげな金の指輪を五指に煌めかせ、スィーラーンに手を差し伸べるカハラマーンは、間違いなく君主の風格があった。美貌と教養と陰謀を武器に戦い抜いた数十年は、女奴隷を女帝に磨き上げたのだ。
「どうせ、ゼーナ辺りの差し金であろう。妾の翼を捥いで、後宮という鳥籠に閉じ込めたつもりか……!」
そして、怒りと苛立ちも露な声には、猛獣が獰猛に唸る気配があった。無理もない。
後宮の女奴隷の数は多く、皇帝の寵愛など儚く移ろうもの。いっぽう、皇帝の生母はただひとりだから、母后の持つ権威と権力は絶大だ。後宮の真実の支配者は彼女だし、外廷の高官もその意向を無視することはできない。
けれど、女人である以上は、帝国が奉じる預言者の教えの戒律は母后にも及ぶ。高官や外国の使節と直接顔を合わせることが難しいからには、自身の意を後宮の外に伝えるには、宦官なり女商人なりを介さなければならない。
エステルを喪ったのは、カハラマーンにとっても相当の痛手だっただろう。──その痛手を埋め合わせることができるのがスィーラーンだと、納得していただかなくては。
「ゼーナは、素早くエステルの息子に接触しておりました。ですが、彼女の《《本当の》》後継者が傷物の女奴隷であったなどと、想像だにしていなかったのでしょう」
ここぞとばかりに自身を売り込むと、猛獣めいた金色の目が細められて、スィーラーンを見据えた。
「エステル・キラの読みには間違いがないな。そなたにも同様の活躍を期待したいものだが」
「後宮の女商人の何たるかは、厳しく躾られております。決してご期待には背きません」
後宮の権謀術数を勝ち抜いた女傑の目は、異国の青年貴族のそれよりもずっと厳しく鋭かった。多少の機転を見せただけでは、まだ認めてはもらえないらしい。
美しく恐ろしい女の妖しく紅い唇が、三日月のように弧を描く。鼠をいたぶる猫の笑みだった。
「ならば、妾への最初の挨拶に、空手で出向くなどあり得ぬな?」
行商人の体で後宮に入ったスィーラーンが、母后への献上品に相応しい宝石の類など持っているはずがない。そんなことは承知の上で、何か《《面白い》》ことを聞かせろとの無茶ぶりだった。
(エステルならそれくらいできる、ということね……?)
しばらくの間、奴隷が奏でる弦楽器の音だけが響いた。
カハラマーンの、黄金の矢のような視線が突き刺さるのを感じながら、スィーラーンはゆっくりと呼吸を整えた。
次の答えに、すべてがかかっている。
彼女が後宮の女商人になれるかどうか。商談の駆け引きの喜びを、また味わえるかどうか。最初の客であるバルトロに、良い知らせを持ち帰ることができるかどうか。
(勝算はある、けど……!)
清らかなせせらぎと美しい調べが満たす穏やかな空間を乱すのは、とても勇気が要ったけれど──それでも、自信たっぷりに笑って、断言する。
「もちろんでございます」
それは、すべての情報を考え合わせてはじき出した答えだった。
母后と寵姫が対立する後宮の現状、エステルの急死とアダムの動向。それに、おかしなことだらけだったバルトロの話──何もかもが繋がっているはずだ。
奴隷として売られた娘に親からの手紙を届けてやりたい、というだけの頼みなら、エステルは即座に叶えていただろう。そういう人だから。
国のために、なんて言っていたのも不可解だ。
イストリアは痩せた土地ゆえに交易で身を立てるしかなく、よって国を挙げて商業を後押しし、商人を保護しているということだけれど、令嬢ひとりのために貴族を使者に遣わすのはやり過ぎだろう。それで母后の不興を買えば、かえって国益を損なうことになるのだから。
(イストリアとゼーナは互いに間諜を送り合っているとか。下手に『自国出身の奴隷』に接触しようとすれば、外交問題に発展しかねないのも分かっていたはず)
だから、彼の話は真実ではない。イストリア本国から課された《《本当の》》任務は、やすやすと口にできなかったのだろうけれど――
(私が海に放り込まれかねない筋書きを授けたと知ったら、あの人はどんな顔をするかしら?)
もちろん悪気はなかったのだろうし、スィーラーンはすべて見越した上で母后に目通りする成算があったから気にしない。ただ、後で経緯を報告されたイストリア首脳は青褪めるだろうと思うと面白いだけだ。
(でも、彼らだって喜ぶはずよ。結局、計画した通りになるんだから!)
ゼーナがエステルを亡き者にしたのは、彼らが擁立する寵姫と対立する母后の牽制のため。息子のアダムは、すでにゼーナに取り込まれた。
敵の敵は味方、というごく単純な理屈で考えれば──バルトロ、ひいてはイストリアが接触を望んだのが何者かは、おのずと分かる。
スィーラーンは、籠の底に隠していた書簡、バルトロから託されたそれを、金の獅子のように彼女を見下ろす母后に差し出した。
「ゼーナの専横を疎ましく思うのは、カハラマーン様だけではございません。イストリアも、母后の御力にお縋りせんと、エステル・キラに接触しておりました。同盟を求める密書も、ここに……!」




