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後宮《ハレム》の女商人は謀略を売る  作者: 悠井すみれ
第一章 女奴隷と異国の貴公子の出会い
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第6話 女奴隷の中庭にて

 スィーラーンは、御車みくるまの門から後宮ハレムに入った。宦官や、女奴隷たちのたまの外出の際に使われる通用口だから、その構えは宮殿サライに似つかわしくなく簡素なものだ。


(入るとすぐ、宦官たちの礼拝堂モスクと宿舎がある。……エステルが言ってた通りね)


 つまり、女奴隷ジャーリエたちは壁によってだけではなく、宦官の監視によっても外界から隔てられている。だから彼らの機嫌を損ねてはならないのだ。


 通行料代わりの金貨は、スィーラーンを迎えた宦官の黒い手の中で、いっそう眩しく煌めいた。掌で重さを、白く輝く歯で硬さを確かめてからその宦官は金貨を袖にしまい、顎をしゃくって彼女を奥へと促した。これもまた、エステルから聞いた通りの流れだった。


(ここまでなら、さほどの難関でもない。もっと奥に入れてもらうためには──)


 考えを巡らせながら歩くスィーラーンの、耳には洗濯ものの水音が、鼻には香辛料の匂いが届く。

 この辺りは、女奴隷たちの生活の場なのだ。彼女たちや宦官たちの労働に支えられて、皇帝スルタン母后ヴァリデ・スルタン夫人カドゥン寵姫イクバルが寛ぐ豪奢な居室は、何段階も厳重な警固の壁に阻まれている。


バルトロ(あのひと)、手紙を渡す相手の名前や立場を言わなかったわね。イストリア出身の女奴隷なんて()()()から言えなかったんだろうけど)


 でも──彼の()()()目的は、確かに後宮ここにあるはずだ。わざわざエステル・キラを頼ったのだから。

 気の利く商人ならば、客が口に出さない望みも汲み取って叶えて当然だ。


(大言壮語を吐いたもの、手ぶらで戻れるものですか……!)


 改めて覚悟を決めた時には、スィーラーンは女奴隷の宿舎に囲まれた中庭に辿り着いていた。夫人カドゥン寵姫イクバルの御用達でもない行商人が入れるのは、ここまでがせいぜいだ。ひとまずは下働きの女奴隷たちを相手にしながら、次の手を探らなければ。


 石畳が敷き詰められ、四方に聳える宿舎が空を小さく四角く切り取る中庭の片隅に、スィーラーンは腰を下ろした。携えていた籠からこまごまとした商品を並べていると、呼びかけの声を上げるまでもなく、軽やかな衣擦れと足音が近づいてくる。


「行商人ね? 何を持ってきたの?」

「ね、触っても良い?」


 絢爛ではあっても狭苦しい後宮に閉じ込められた女奴隷たちは、外からの刺激に飢えているのだろう。下働きの娘たちが駆け寄るほかに、宿舎の上階では、いくらか身分の高い女官ウスタも、興味深げに窓辺に身を乗り出しているのが窺える。


 余所者を見物するのは女だけでなく、道化姿の宦官も混ざっていた。職務上の相談ごとでもあったのか、それとも女官との許されない逢引だったのか──スィーラーンが見上げて手を振ると、その宦官は慌てた様子で身を翻していた。


 上に目を向けていたの一瞬の間に、スィーラーンは集まった女奴隷たちに囲まれていた。火傷の痕はヴェール(ヤシュマク)の下に隠したまま、目だけで客たちに微笑みかける。


「ええ、もちろん。石鹸は、それぞれ香りも違いますのよ。どうぞお確かめになって」

「わあ、ありがとう……!」


 歓声を上げて品物を物色する娘がいるいっぽうで、顔を見せないスィーラーンを不審げに覗き込む者もいる。少なくとも顔と髪を晒してうろつけるという点で、後宮の奴隷たちは外の女たちよりも自由だった。


「新顔かしら。ヴェール(ヤシュマク)を取りなさいよ」

「醜い傷がありますのでご勘弁を。皆様とは違う、哀れな身の上です」

「ふうん……」


 後宮に収められる奴隷は、容姿に優れた者ばかり。卑下してみせれば、優越感と哀れみは相手の財布の紐を緩めてくれるだろう。それに──バルトロの時と同じく、スィーラーンの顔を見せるのは、ここぞという時と場所にしておかなければ。


「この耳飾りと同じ模様の指輪はないの?」

「聞いておきます。ついでに腕輪も揃えるのはいかがでしょう」

「良いわね!」


 若い娘が身を飾ることを好むこと、帝都の下町でも後宮でも変わらなかった。お陰で売れ行きは順調で、商品の数もだいぶ減った。けれどもちろん、完売を喜ぶだけではいられない。


(そろそろお声がかかって欲しいのだけど……?)


 逸る心を抑えて、そっと視線を巡らせた時──中庭の端、後宮の奥側のほうから眩い輝きの塊が現れた。


 貂の毛皮をあしらった外套に、袖の長い絹の長衣カフタン。衣にも帯にも金糸や宝石が惜しみなく使われ、冬の薄暗い後宮に、南国の太陽を思わせるぎらついた光をもたらす──黒人宦官長だ。


 彼女たちの命運を一手に握る存在の突然の登場に、女奴隷たちはいっせいに口を噤んで冷たい石畳に平伏した。不安と怖れによって緊迫した吐息、不審と驚きの眼差しには一顧だにせず、磨かれた黒檀を思わせる美しい肌の色の宦官長は、スィーラーンの目の前に歩み寄った。


 去勢された者に特有の、不思議な高さの声が、短く命じる。


母后ヴァリデ・スルタンのお召しだ。ついて参れ」

「──はい」


 恐れる様子もなく、あっさりと答えて荷物をまとめ始めたスィーラーンを見下ろして、宦官長はようやく表情を動かした。顔を顰めたのは、彼女の平静さに驚いたのか、それとも畏まらないのが不敬だと言いたいのか。


(いずれにしても、奴隷たちの前で問い質すことはできないでしょう。……さぞ、気になるでしょうね?)


 立ち上がり、左右を宦官に挟まれて歩き出すと、女奴隷たちの視線が背中に突き刺さるようだった。彼女たちの中には、母后に取り立てられることを切望する者も多いだろうに。

 突如現れて、後宮の最奥に招かれた行商人。顔も見せなかったその女の噂は、当分の間後宮を賑わせるだろう。そう思うと楽しかった。




 スィーラーンが一歩進むごとに、壁や床や天井を彩る装飾は華麗さを増していった。


 薔薇、チューリップ(ラーレ)カーネーション(カランフェル)。月に星辰、金泥で描かれた聖典の句や歴代の皇帝の花押。

 色とりどりのタイルや石材、螺鈿細工に寄木細工。空白を恐れるかのように。精緻を極めた文様が、豪奢を極めた材料で職人の技術の粋を凝らして広がって。そうして、帝国の最秘所に近づく者の目をくらませる。


 後宮のほぼ中央に位置する母后の居所は、そのような富貴と華麗が結集したような空間だった。


 装飾の緻密さ美しさはもちろんのこと、季節を逆転させたかのような温かさこそが最高の贅だろう。雪と霧に閉ざされる外の世界とは裏腹に、黒人宦官が汗を流して焚き続ける炎によって室内は温かく、中庭には花が咲き乱れている。スィーラーンたちを迎える可憐な少女たちも、肌を透けさせる薄絹の衣装を纏っていた。


「連れて参りました」

「うむ」


 宦官長に倣って平伏したスィーラーンの耳に、威厳のある女の声が届く。中庭の噴水のせせらぎと、女奴隷の奏でる弦楽器ウードによっても決して掻き消されることのないその声の力強さは、王者然とした風格さえあった。


「顔をお見せ。そなたが何者か、心当たりはあるが──確かめねば」


 鷹揚な命令は、決してその女の優しさを示すものではないだろう。満腹の獅子が喉を鳴らすようなもの、子鼠こねずみが図に乗ればすぐに叩き潰される──海に投げ込まれるだろう。


「はい、母后様」


 顔を伏せたまま、スィーラーンはヴェールを外した。黒い薄絹と、同じ色と艶の彼女の髪が床に零れる。ゆっくりと上げた面には、この事態を予想して化粧を施してある。

 眉はくっきりと、深緑の色を引き立たせるよう、目元にも線を入れて。白粉によって肌はいっそう白く、そして火傷の痕はいっそう際立つように。


 ほう、と。母后は満足げな溜息を漏らした。


「なるほど、確かに。そなたが柘榴石スィーラーンか」


 赤黒く無残な傷痕も、雲母と金粉を乗せ、白粉とまゆずみを駆使して陰影をつけると、まさしく宝石の結晶が頬から生えているように見えるだろう。

 もちろん、一瞬だけ錯覚させることしかできないだろうけれど――母后への第一印象は上々のようだった。


「エステル・キラから聞いている。後継者として賢い娘を育てていると。奴隷の身だというが、よくここまで辿り着いた」


 恐ろしい獅子は、上機嫌で喉を鳴らし続けてくれている。お褒めにあずかった、というよりは、まずは合格、ていどの意味だろう。子鼠の分を弁えていると示すため、スィーラーンは改めて顔を伏せ、深く平伏する。


「辿り着けぬようでは、母后の代理人(キラ)は務まらないでしょうから。お目通りが叶い、大変嬉しく光栄に存じます──母后カハラマーン様」


 キラ──後宮の女商人とは、ただの行商人とはわけが違う。珍奇な商品を持ち込めば良いというわけでは、決してない。


 後宮の最奥の貴人の意を受け、外の世界にそれを伝える。相手は商人のこともあれば、高名な職人だったり、高官や諸侯だったりすることもあるだろう。もちろん、場合によっては異国の外交官もあり得る。

 そうしてやり取りされるのは金とモノだけではない。皇帝や母后の機嫌や思惑に関する情報、国同士の関係における利権、それに関する譲歩や交渉の打診──何もかもを仲介するキラとは、商人というよりも母后の意向を代表する代理人に与えられる称号だ。


 スィーラーンの養母エステルは、そのように重要な存在だった。だからこそ彼女も後継であろうと熱望するし、バルトロという異国の貴公子も頼ろうとしたに違いないのだ。

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