第5話 敵国の大使と
バルトロは、宮殿の前庭、眩いほどの白大理石が輝く正門の前に佇んでいた。
煌びやかな衣装の衛兵はたいそう規律正しく、精緻な機械仕掛けの人形ではないか、と埒もない考えが頭を過ぎるほど。ただ、心のない人形ではない証拠に、緊張した面持ちの異国人には時おり鋭い視線が向けられる。
宮殿に出入りする人の数は、思いのほかに多い。御前会議に出向くと思しき高官の列に、訓練中の小姓たち。皇帝に仕える種々の職人たち。訴訟や陳情のために訪れる地方民もいれば、旅の土産話を求めて立ち寄った異国人の、西方風の装いも目立つ。バルトロが即座に取り押さえられることがないのは、そのためだ。
ただ、誰も声ひとつ立てない。馬でさえ蹄の音を殺しているようで、静寂が耳に痛いほどだ。壮麗な城門を前に、色とりどりの装いの者たちが音もなく行き交う様は、帝都の下町で好まれる影絵芝居を、語り手なしで見るかのようだった。
無音が示す規律と支配者の権威は侵しがたく、バルトロは従者に唇の動きだけで囁いた。
「ここでは目立つな――離れたところで待とう、マルコ」
スィーラーン──深緑の色の宝石の目と、爆ぜた柘榴の傷痕を持つ娘は、つい先ほど、宮殿の中に姿を消した。エステル・キラの人脈を頼って、出入りの商人の妻の親族を名乗るのだとか。後宮に入れる行商人は当然のことながら女だけ、それも、身元が確かな者でなければならないのだ。
(あの度胸と話術で、後宮に伝手がある――十分な拾い物だ。無理に手柄を立てようとしなくても良いのに)
市街へと足を向けながら、バルトロは首だけで振り返り、宮殿を仰ぎ見た。
都を訪れる各国の船を見下ろす、岬の高台に聳える宮殿は、遠目には装飾模様のようでもあった。緑なす丘に、様式や趣向を変えた数々の建物がちりばめられた様が、そう見えるのだ。
壮麗かつ堅牢な宮殿を好んで築く西方の王侯と違って、草原の遊牧民から興った帝国の君主たちは、頻繁に自身や妾妃のための住まいを建て直させる。
だから、宮殿といってもひとつの建築物ではなく、その時々の主の趣味を反映して毛並みや羽の色を変える、巨大な生き物のようなものだ。その胎内の奥深くでどのような思惑や陰謀が渦巻いているか、外からは計り知れない。
なのに、バルトロが用意した装身具や化粧品、香料入りの石鹸などを入れた籠の底に、蝋で丁寧に封をした書簡を潜ませて、あの娘は落ち着き払った微笑を浮かべていた。
『エステルから後宮の造りや習いは聞いています。クスタンティニーヤの市街に行商に出たこともありますし、要領は分かっています』
彼の本当の目的をお見通しだと仄めかした彼女の自信のほどを、バルトロは計りかねていた。商人の話術の一環、はったりだろうと思う――というか、思いたい、というほうが近いだろうか。
そうでなかったら、彼は会ったばかりの異国の娘に国家機密を漏らしたことになってしまう。あるいは、イストリアの事情とは無関係の彼女を危険に巻き込んでしまうことになる。
(……本当のことなど言えないし、分かるはずもない。分かっていたら、あんな風に笑えるはずがない……!)
だから大丈夫。存在もしないイストリア人の奴隷など、見つからない。柘榴石の娘、スィーラーンの話術がいかに巧みでも、存在しない宛先を見つけ出すことはできない──だから、諦めて引き返してくれるはずだ。
(ならばなぜ、私は本物の密書を委ねてしまった……?)
暗号で記されているから取り上げられても危険は少ない、などというのは言い訳だろう。どんな犠牲を払っても祖国から与えられた任務を遂行しなければ、と考えるほどの愛国心に駆られたわけでも、ない。ならば――
(彼女に賭けてみたくなったのか? 分の悪い賭けは投資ではない。まともな商人なら避けるべきだろうに……!)
不安と、自らへの疑問が入り交ざったもやもやとした思いを抱えて早足で歩くことしばし、バルトロは珈琲店に入った。
外国人居留区ならまだしも、尖塔を従えた礼拝堂も立ち並ぶ界隈で酒を出す店はない。そもそも、今の彼は酒を呑む気になれそうにないが。
珈琲の香りと水煙草の煙が紗幕のように漂う店内の、窓辺に腰を下ろす。宮殿にほど近い場所だから、騒ぎでも起きればすぐに察知できるだろう。
禁酒の民がこよなく好む、歯が溶けそうなほど甘い練り菓子を、珈琲の苦みで中和しながら齧っていると──バルトロの手元に、影が落ちた。
「これは、若君。帝都観光でもなさっているのですか」
朗らかに呼び掛ける声は、周囲の客が交わす帝国語ではなく、西方語だった。
「あいにく、今日は何の行事もありませんが。祭礼も、軍事演習も──罪人の処刑も」
碧い目をわざとらしく見開いてバルトロを覗き込む声の主は、孔雀のように自らを飾り立てた男だった。ただでさえ豪奢な冠のように見える金色の髪に、さらに羽飾りを挿している。帝国の貴顕に倣ったのか、天鵞絨の上着の釦には大粒の宝石が使われていた。
「それは残念。そういう貴殿は、どうしてここに、スピノラ大使閣下?」
下手な者が纏えば道化に見えかねない華美な衣装をさらりときこなし、かつ、衣装に負けずに輝く、整った容姿の男──その顔と名前を、バルトロは一応知っていた。
ダンテ・スピノラ。彼の祖国イストリアの敵手、ゼーナがクスタンティニーヤに派遣した外交官だ。若くしてやり手と評判の男だから、こちらのことも見知っているのは不思議ではない。
(だが、馴れ合う筋合いはないはずだが?)
一介の若造でしかないバルトロから聞き出す機密などないはずなのだから。……任務について、嗅ぎつけられたのでなければ。
「実のところ、若君を探してうろついていたところです。エステル・キラの形見に、女奴隷を引き取ったと聞いたもので」
バルトロの許しを乞うこともなく、ダンテは彼の前に腰を下ろした。西方なら椅子にかけるところ、帝国の様式の腰掛は限りなく背が低く、床にクッションを敷いて座るのとほぼ変わらない。お陰で、バルトロは必要以上に間近に、ダンテと顔を突き合わせることになった。
どこまでも爽やかな笑顔と親しげな態度は、どの国の宮廷でも通用することだろう。だが、麗しい貴公子の仮面の陰で、この男は平然と手を汚すこともできるはずだ。
(エステル・キラとの接触に気付いていたのか。我が国が彼女と通じるのを警戒して、始末していた……?)
クスタンティニーヤに赴き、後宮の女商人ことエステル・キラに接触せよ──祖国から下された任務が達成不可能になったことを知った時、バルトロは崩れ落ちそうになったものだ。それでも念のためにと彼女の屋敷を訪ねて、出会ったのがスィーラーンだった。
彼にとっては予期せぬ幸運だったが、ゼーナにとっては思わぬ伏兵になるのだろうか。
「……顔に傷がある娘でした。良い買い手に巡り合える見込みは低いだろうと思ったので、つい」
手強い外交官から肚の中を隠そうと、バルトロはわざと珈琲をゆっくりと啜った。沈み切っていなかった澱が、口中にじゃりっと不快な感覚を残す。
顔を顰めた彼とは裏腹に、ダンテは興味深げに目を輝かせた。
「イストリアの商人が、奴隷ひとりを哀れんだ、と? 珍しいこともあるものだ」
「我らも常に利益だけを追い求めるわけではないので。──それこそ奴隷ひとりのことを、ずいぶんと気になさるものだ」
反撃のつもりの問いかけは、けれどさらりと躱された。
「実のところ、その娘を哀れんだのは私のほうでして」
「それは、どういう……?」
「エステル・キラに仕えたことがあるからといって、世間知らずの若君が無理難題を押し付けたのではないか、と」
見目麗しいはずのダンテの笑みに、悪意の翳りが見えた。珈琲の残った陶器を卓に戻す時、バルトロは必要以上に音を立ててしまわなかっただろうか。
「難題。どのような」
「例えば──奴隷として後宮に収められたイストリアの良家の娘に宛てて、祖国からの手紙を託す、とか。そういうことを考えているなら、止めたほうが良いとお伝えしたかったのですが」
息を整える間を稼ぐべく、バルトロは菓子を口に放り込んだ。頭が痺れるほどの甘さが、今は感じられないのが不思議なほどだ。
(あてずっぽうで言っているだけだ。後宮に売られたイストリアの娘などいないのだから)
スィーラーンを騙した形になる心苦しさはあるが、知らないということは彼女を守るだろう。あの話術と度胸と機転なら、品物を売り捌く片手間に、女奴隷や宦官に取り入れるはず。後宮に潜入できる駒を確保できたと報告すれば、本国もひとまずは満足するだろう。
(彼女は無事に戻る。事情を明かすのは、信頼関係を築いてからで良い……!)
必死に自身に言い聞かせながら、バルトロはどうにか微笑んだ。
「何を仰っているのか分かりません。どうしてそのようなことを?」
「我が国がすでにやったことだから、ですよ!」
ダンテが高らかに笑うと、珈琲店の客の視線が彼らふたりに集まった。異国の風俗や言葉に一々驚いたりしないクスタンティニーヤの住人をして、煌びやかな貴公子のはしゃぎようは異様に見えたのだ。
蕩けるようなダンテの笑みは、舌なめずりする猛獣を思わせた。
「皇帝の目下の一番の寵姫は、ゼーナの貴族の娘です。今は帝国語で桃と呼ばれていますが。彼女のお陰で、皇帝は快く我が国の意向に耳を傾けてくださっている」
「……羨ましい話です」
掠れた声で相槌を打ちながら、バルトロは内心で歯噛みしていた。
寵姫シェフターリの存在と、彼女がゼーナと繋がっているという噂は、イストリアも把握している。だからこそ牽制のためにエステル・キラに接触したのだ。
だが、彼の任務には不要の情報と考えられたのだろうか、その繋がりがどのように得られたかまでは、聞いていない。
(杜撰な――父上に苦情を言ってやる……!)
間諜だか外交官だかの迂闊にバルトロが歯噛みする間も、ダンテはにこやかに滔々と歌い上げる。
「無論、母后にとっては苦々しいことこの上ないことでしょうが。──だから、どの国であれ、自国出身の女奴隷と通じようなどという動きを察知したら。使いの者は、容赦なく海に放り込まれることでしょう」
この男の思惑は、もはや明らかだった。
(後宮の利権は渡さない、イストリアに割って入る余地はない、と言いたいのか……!)
バルトロがスィーラーンを宮殿に送り込んだところも、見られていたに違いない。その上で、話しかけてきたのだろう。足掻いても無駄だ、と思い知らせるために。
「──失礼」
勢いよく立ち上がると、陶器が倒れて珈琲が卓上に黒い小川を作った。
「どうなさいましたか、若君」
優雅な仕草で天鵞絨の上衣を摘まみ、珈琲の染みから守ったダンテを、バルトロは射殺さんばかりに睨めつけた。もちろん、してやられた彼が迂闊で愚かだっただけのこと、筋違いだとは分かっていたが。
「急用を思い出したもので」
短く吐き捨てて、バルトロは店を飛び出した。背後に、従者の慌てた足音が追ってくる。
嫌味な敵国の大使のことより、スィーラーンだ。深緑の柘榴石の目をしたあの娘の機知と堂々とした振る舞いは、確かに皇帝が手に入れ損ねた至宝と呼ぶのに相応しかった。それを、彼は投げ捨ててしまったのだろうか。
(頼む。どうか……!)
急いだところで、宮殿の門が彼に開かれるはずもないのは分かっていたが。それでも、バルトロは駆け出さずにはいられなかった。




