第4話 後宮への手紙
スィーラーンが金貨十枚でイストリアの貴公子に買われた、と知った時のサルマの顔は見ものだった。
貴公子――バルトロは、女奴隷の相場の十倍以上をあっさり支払ったからには貧乏人ではあり得ない。さらには、西方の貴婦人に対するかのように傷ものの娘に手を差し伸べるのを見れば、物好きな変態でもないのは明らかだったから、それは目を疑うだろうし、嫉妬と憎悪と羨望に胸を焼きもするだろう。
「――じゃあね。後はよろしく」
どす黒く染まった顔を歪めたサルマと裏腹に、スィーラーンは晴れやかに笑った。毛織の外衣だけでは寒いだろうと、バルトロが貸してくれた黒貂の毛皮の上着をさらりと羽織り、小さな包みだけを携えて。
エステルから与えられた衣類や装飾品は、早々にアダムに取り上げられていたから、荷物を纏めるのにほとんど時間はかからなかった。取り戻したい、とは思うけれど――それは、今でなくても良い。商人としてアダムを越えれば、屋敷ごと手に入れることだってできるかもしれない。
「荷物はそれだけか」
「ええ」
バルトロは、上衣を脱いでも黒を基調にした装いをしていた。弔意を表すためというだけでなく、実用と合理性を好むイストリアの国風を表しているのだろう。
後宮の女さながらの煌びやかな装いを見せびらかしていたゼーナの大使とは対照的で、スィーラーンとしては好ましい。
品定めの目線が、今度は自身に浴びせられているのに気付いたのか、異国の貴公子は軽く眉を寄せた。けれど手に入れたばかりの柘榴石の無礼は咎めず、短く告げた。
「では――着いておいで。屋敷に帰る」
* * *
イストリアの大使館や商館が並ぶ通りの一画、冬の帝都に特有の白い霧を掻き分けるようにして辿り着いたのは、薄桃色の大理石の装飾も美しい、小さな屋敷だった。開廊――通りに面した壁を廃し、開けた空間を列柱で支える正面の様式は開放的で、社交にも商売にも向くだろう。
邸内に入ると、足もとには帝国の装飾模様に倣った花の紋様がモザイクで描かれていた。見上げれば、当然のようにイストリアのガラス細工のシャンデリアが設えられている。夜会でも開けば、さぞ煌びやかに輝いて、来客の目を眩ませるのだろう。
通された客間の、壁や天井を飾る絵画、壁紙や絨毯の色、暖炉や窓枠を彩る彫刻――ひとつひとつに目を留めながら、スィーラーンは胸の裡で設計者やその主の人柄を推し量る。
(商人にしては可憐な趣味かも。もともとは、夫人や――愛人のための別荘だったり?)
いずれにしても、バルトロは富裕な家の出身に違いなかった。エステルの屋敷の客間で、まったく動じた様子を見せなかったのも頷ける。
実際、彼は天鵞絨張りの長椅子に、ごく無造作に腰掛けた。
「適当に座ってくれ。空き部屋はいくらでもあるから、それも後で見繕えば良いだろう」
「ありがとうございます」
「飲み物は? 東方の茶でも珈琲でも。葡萄酒に――何なら蒸留酒もあるが」
「では、蒸留酒で。よく、エステル・キラのお相伴にあずかったものです」
借り物の上着と、ついでに野暮ったい外衣を脱いで、スィーラーンはバルトロの向かいに座る。
ゆったりとしたズボンにブラウスを合わせ、さらに丈の短い上衣を重ねる――帝国風の装いは、イストリアの貴公子には物珍しくも魅惑的にも見えるはずなのだけれど。バルトロの金茶の目に浮かぶ表情は真剣そのもの、礼儀正しくはあっても冷徹な、商談に臨む商人のそれだった。
「エステル・キラとは非常に重要な話を進めていた。最後の書簡といい、先ほどの口振りといい、聞いていると思って良いのか?」
「詳しくは、まだ。けれど、宮殿は後宮に関わることでしたわね?」
何も聞いていないことなどおくびにも出さず、スィーラーンは笑顔で首を傾げた。
「ああ、無論」
苦笑めいた表情で頷いたバルトロも、惚けられたことには気付いているのだろう。
何しろ、後宮の女商人に持ちかけるのだから、話は後宮に関することに決まっている。スィーラーンを買ったのだって、口上と立ち居振る舞いから、後宮に送り込んでも通用すると考えてのことだろうから。
「我が国ため、その民のために、後宮の女商人の力を借りようとしていたのだ」
だから、バルトロは親切で教えてくれているのではない。イストリアの商人なら、分かり切っているはずのことをわざわざ繰り返そうとはしないはず。スィーラーンがどこまで話を合わせられるか、聞いたことからどれだけの情報を拾うことができるかを試しているのだろう。
「――数年前、イストリアのある商人の船が、海賊に拿捕された」
イストリアのガラスの杯で出された蒸留酒の水割りを舐めながら、バルトロは語った。
海賊は、大陸に食い込んだ内海、アクデニズ海のあちこちの入り江や小島に巣食っている。時には金で雇われて国同士の海戦に参入することもあるし、他国や異教徒に対しては各国の正規の海軍の行いも似たり寄ったりではあるけれど、とにかく、商人にとって厄介な存在であることは間違いない。
海賊の害を逃れるために、ゼーナの商人は自ら重武装し、イストリアの商人は航路を決めて船団を組む。とはいえ、何ごとにも絶対はあり得ず、不幸な事態は往々にして起きるものだ。
その商人は、特に不運だった。何しろ、拿捕された船にはたまたま彼の年若い娘が乗っていて、しかも、身代金を工面する前に奴隷として売り払われてしまったというのだから。
(とても気の毒なことね。……本当にあったことなら)
蒸留酒に添加された香草の、独特の甘みと香りを楽しむのは二の次で、スィーラーンはバルトロの表情や視線の動きを探った。
「――商人は、娘の行方を探し続けた。そして最近、後宮にいることが判明したのだ」
「なるほど。女商人は、小物や装飾品を売りに後宮に入ることもあります。その時に……?」
鎌をかけられたのにも恐らく気付かず、バルトロは破顔して頷いた。
「その娘に、父親からの手紙を渡して欲しい。それに、後宮での暮らしに役立てるための宝石も。イストリアとしても、国を離れた民を見捨てないという信頼を稼ぐ必要がある」
「一介の女奴隷への、過分な差し入れ――普通なら、どれほどの賄賂を要求されるか分かったものではありませんわね」
女官から下働きまで、すべての女奴隷は黒い肌の宦官たちによって厳しく監督されている。秩序を乱したり、増長したりする者は容赦なく罰せられ、時に袋詰めにされて海に放り込まれることもある。後宮の食卓に上る魚は、沈められた奴隷の死体を食らって肥え太っていると、もっぱらの噂だ。
一応、もっともらしいと思うのだろう。エステルや後宮について、よく知らない者が聞いたとしたら。
(イストリアがそんなことを頼むはずがないし、エステルがそんなことのために殺されるはずはない……)
後宮の女商人の突然かつ不審な死は、国同士のもっと大きな思惑が絡んでいる。スィーラーンにはそう思えてならないのに。
バルトロは、今はこの筋書きで通すつもりのようだ。いくつもの疑問や綻びを指摘するのは簡単だけれど――
(これは、私の値を吊り上げる好機ね!)
正直は、商人にとっても美徳ではある。けれど、今回の場合は先に不実の罪を犯したのはバルトロのほうだ。結局のところ、まだ完全に信用してもらえていないということなのだろうし――長く良い関係を結ぶためには最初が肝心、彼女の手腕を確と心に刻んでいただこう。
(イストリアの本当の狙いは、たぶん――)
考えをまとめたところで、スィーラーンはにっこりと微笑んだ。
「分かりました。では、行商の品を用意してくださいませ。エステルの伝手を使えば、後宮に入れます。奴隷や宦官の噂話も聞けるでしょうし、その娘の持ち場を探って、手紙を届けてみせますわ」
自信たっぷりに請け合うと、金茶の目が大きく見開かれた。
「……本当か」
「ええ」
眉を顰めながら口を開閉させたバルトロは、嘘を打ち明けるべきかと悩んだのだろうか。それなら、意外に甘くて優しいことだ。
(良い人、なのかしら)
商人に対しては非礼かもしれない感想を抱きつつ、スィーラーンは卓上に身を乗り出した。そして、彼の耳元に囁く。夜風が寝台の帳を揺らすように、そっと優しく、密やかに。
「本当のことをすべて教えていただいたほうが確実なのですけれど。――でも、大丈夫。貴方様の目的を叶えて差し上げましょう」
「――え?」
演技でも駆け引きでもない、素の驚きの喘ぎを引き出せたのが嬉しく楽しくて、スィーラーンは声を立てて笑った。




