第7話 幸せに
後宮に戻ったシェフターリを待っていたのは、母后カハラマーンが下した鞭打ちの刑だった。
後ろ盾としていたゼーナ出身の賊が、コフチャズ近郊を荒らしていたことはさておき、何よりも皇帝に母后と弟への疑念を吹き込んだことが罪とされたのだ。
母后の前に引き出されて震えるシェフターリを、皇帝ジャフェルは一応は庇おうとした。
『シェフターリに悪気はなかったのです。余を案じてくれただけで……結果的に、アスランの忠誠を確かめられたのだから良かったではないですか……?』
でも、善意から出たものだとしても、実のところその執り成しはまったくの逆効果だっただろう。ひれ伏して寛恕を乞う姿勢を取りながら、シェフターリは内心で罵倒を撒き散らした。
(何も分かってない。母后は、アスラン皇子を解き放つことになったからこそ怒ってるのに。この馬鹿……!)
後宮に引きこもってばかりの兄と違って、若々しく美しい姿を民に見せた弟皇子は帝都でもたいそう評判になったという。さらに、コフチャズの領主は、母后に宛てた報告で、皇子の礼儀正しさや兵の規律を褒め讃えていた。締めくくりの一文に曰く――
このように頼もしい御方がいらっしゃれば帝国の未来も安泰でしょう。臣下のひとりとして、今後のご活躍を期待するものです。
領地の治安向上に寄与した皇子への賞賛は、それ自体はおかしくはない。けれど、領主の報告は、イストリアの指導のもと、皇子が書かせたものだとシェフターリは信じている。
(この機会に、鳥籠を出る――そして、臣下の要請によって、という建前で宮殿の外に立場を得るつもりね……!)
帝国の歴史上、皇子たちは麾下を率いて外征や地方の統治に臨み、その功績によって帝位を争ったものだ。だから、かつての習慣を復活させることに疑問や不満を持つ者は少ないだろう。……鳥籠に確保していた手駒を逃がしたことになる母后以外は。
(アスラン皇子は苛烈な気性の獅子……一度鎖を外してしまえば、実の母でも思い通りにはできない。帝位に就けて恩を売るどころか、あの御方なら自力で掴み取ろうとする……!)
そういう気性だと見込んだからこそ、暴走する――勝手に反逆者になってくれるのを見越して策を練ったというのに。唯一の帝位継承者を始末すれば、皇帝ジャフェルの立場は当面安泰、寵愛を失わないことに注力すれば、シェフターリの身の安全も図れると思っていたのに。
弟よりは扱いやすい、という、母后から見た利点がある限り、皇帝の立場は変わらない。でも、シェフターリについてはそうはいかない。
『寵姫といえども奴隷に過ぎない。国事や皇室への差し出口は後宮の秩序を乱すもの、罰しなくてはこの母后の咎となろう』
息子の執り成しを切り捨てて、カハラマーンは冷酷に告げた。顔を上げずとも、怒りに燃える金色の目が、出過ぎた真似をした寵姫の首筋をちりちりと焼くのが感じられた。
本音では、すぐにも袋に詰めて海に放り込んでやりたい、と。母后の目は雄弁に語っていた。そうしないのは、残酷な振る舞いによってジャフェルが引くのを懸念しているからでしかないのだろう。
『わ、私……皇帝を案じただけでしたのに。愛する御方、心よりお仕えする御方を思ってのことが罪になるなんて……!』
自身の命が、恐ろしい女のごく細い忍耐の糸に懸かっているのを悟って、シェフターリは精いっぱい、涙を流して哀れっぽく泣き叫んだ。
女奴隷の手管に通じた母后が絆されることなどあり得ないけれど、皇帝の同情を引くためだ。彼を思ったがために寵姫が鞭打たれるのだ、と――心に刻んでおけば、傷が癒えればすぐにまた召してもらえるかもしれない。
そのていどの悪あがきしかできないのが、悔しくてならなかった。
* * *
そして、今――シェフターリは、自室で鞭が柔肌に刻んだ傷の痛みに耐えている。母后の顔色を窺った宦官は、欠片たりとも手加減をしてくれなかった。
寝台にうつ伏せになっても、幾筋もの傷が熱を持って燃えるよう。肌着や、解いた髪が擦れるのさえ痛みをもたらすから、指一本動かすのにも慎重の上に慎重を期さなければならなかった。
唯一、思い通りに動かせるのは舌だけだった。食欲も失せたことで罅割れた唇から、掠れた声が漏れる。
「このまま終わってなるものか……」
彼女が苦しむ間にも、皇帝は母后が選りすぐった美姫に囲まれているのだろう。その中の誰かが懐妊しないか、皇帝の心を盗まないかと思うと恐ろしい。
(御前に上がることさえできれば……!)
貴方を思ってのことだったから悔いはない、と健気に振る舞えば、皇帝をまた落とす自信が、シェフターリにはある。母上はひどい、と思わせることも簡単なはず。
でも、ほとんど自室のようだった皇帝の寝室は、今の彼女には果てしなく遠い。傷が癒えるまで安静にさせてやれ、との母后の命令が、後宮中に行き渡っているからだ。
「あの女……!」
歯軋りすると、身体に伝わった緊張が傷にも響いた。シェフターリが息を詰めて痛みをやり過ごそうとしていると――控えていた女奴隷が、おずおずと声をかけた。
「シェフターリ様。母后様からお見舞いでございます」
「見舞い……?」
痛みと、告げられた名を恐れて、罰せられたばかりの寵姫吐き出す息だけでそっと囁いた。その視界に、しなやかな細身の影が落ちる。同時に、歌うような優雅な響きの、艶のある声が。
「お久しぶりね、珊瑚――今は、シェフターリと呼ぶべきかしら。意外と元気そうで何より」
「……柘榴石っ」
後宮に入る前の名で呼ばれて。それを知っている声の主に気付いて、シェフターリは叫び、跳ね起きた。再び鞭打たれたかのような痛みに背を焼かれ、目に涙を浮かべながら、さらに喚く。
「な、何しに来たのよ。母后の命令で、私を嗤いに来たの!?」
「お見舞いだと言ったでしょう。私は母后様の女商人、よく効く薬を持ってきてあげたのよ?」
スィーラーンは、さっさと寝台の脇に座ると、螺鈿細工の小箱を開けてみせた。箱には灰色の軟膏が満たされ、添加されているらしい薔薇の香りの影から刺激臭が微かに漂っている。……それが薬草の臭いだなんて、信じることはできなかった。
(殺される……!?)
だって、あの母后カハラマーンが、自身に楯突いた小娘を許すはずがないのだから。
「触るな! 薬だなんて、嘘ばっかり! 誰か――」
シェフターリの悲鳴は、柔らかな羽毛が詰まった枕に吸い込まれて消えた。スィーラーンが、雑な手つきで彼女を寝転がらせたのだ。もちろん、背中の傷を労わるような優しさはない。
痛みに悶えるシェフターリの身体から、手際良く容赦なく衣が剥ぎ取られた。無防備に晒すことになった傷痕を軽くなぞられて震える彼女を、スィーラーンが優しく嗤う。
「薬だって言ったでしょ。人を呼ぶだけ貴女の恥になる。――母后様のご厚意を無にするなんて」
「ひゃ――」
背中にひやりとした感覚があり、香料と刺激臭も強まった。得体の知れない軟膏を塗られた、と思うと全身が粟立ったけれど――
「本当に効くのよ。私の火傷も、これでもだいぶ良くなったから。東方渡りの貴重な薬草を調合したものだそうよ」
スィーラーンの手つきは丁寧で、傷の痛みも悪化する様子はない。……少なくとも、今のところは。
拭いきれない恐怖に、喚いて醜態を晒したことへの羞恥。見舞いの理由が読めない不安。幾つもの思いが渦巻くのが落ち着かなくて、シェフターリは軽く伏せられた深緑の目を睨め上げた。
「良くなって、それ? そんな傷が残るくらいなら、死んだほうがマシよ……!」
彼女の背に屈み込んだことで、スィーラーンの頬の火傷が間近に見えた。無事な右半面は、皇帝の寵姫をして嫉妬と危機感を感じさせるほど整っているけれど、だからこそ赤黒く爛れて引き攣った左頬は醜くおぞましい。
(よくも顔を上げて歩けるものね。一生俯いていれば良いのに……!)
悔しまぎれとはいえ、侮辱の意図ははっきりと伝わっただろう。美貌を誇っていた女にとって、容姿を貶められるのはこの上ない屈辱のはず。急な来訪で脅かされた、意趣返しをしてやたと思ったのだけれど――
「怖いの、シェフターリ?」
「何の、ことよ……」
スィーラーンは、どこまでも余裕たっぷりに微笑んだ。軟膏を塗り広げる指の動きもよどみがない。ただ、声の温度がほんの少し下がり、不穏に尖る。
「死ぬのが。美貌を損ねるのが。……この、私が」
例によって歌うように数え上げたのと同時に、スィーラーンは軟膏を塗り終えたようだった。指先を手巾で拭うと、シェフターリの目を覗き込んで、唇だけを、静かに動かす。
「貴女を許す気はないわ。でも、殺したり傷つけたりするより良い方法がある気がしてならないの」
「あら、ずいぶん優しいのね」
勝手に脱がせられた衣装を直しながら、シェフターリは挑発的に笑った。寝台に半身を起こすと、再び鞭打たれたかのように背中の傷が痛む。でも、その痛みこそが神経を研ぎ澄ませてくれる。
(母后は、私をまだ殺すつもりじゃない? 脅すだけ? スィーラーンを使えば効果的だと思ったなら、趣味が悪いわ……!)
自身の立場を確かめ、敵の思惑を探るべく、シェフターリは自分を怨んでいるに違いない相手の一挙一動に目を凝らした。
でも――そんな彼女の緊張を笑うかのように、スィーラーンはふわり、と微笑んで首を傾げた。少しも気負ったところのない笑顔の中では、火傷の痕さえ綻ぶ薔薇のように見えた。
「念願叶って皇帝の寵愛を独占してるのに、貴女、ちっとも幸せじゃなさそう。顔色も悪いし、怯えているようだし。お菓子や葡萄酒はちゃんと美味しい? 絹や宝石を見て綺麗だと思えてる?」
「……っ」
スィーラーンの声は親しげで、仲の良い友だちを案じるかのようだった。でも、同時に、はっきりとシェフターリを嘲っていた。同輩に消えない傷を負わせてまで得た寵姫の地位も、大したものではない、と。
(負け惜しみよ。醜い傷ものの癖に、知った風に……!)
そうだ、スィーラーンは後宮での暮らしを知らない。その本当の恐ろしさも、贅も、油断ならなさも。幸せじゃない、なんて――あてずっぽうに、決まっているのだ。
「私は、幸せよ。カザール帝国の皇帝でさえ、私の言いなりなのよ? どんな贅沢も思いのまま、望んで手に入らないものはない!」
昂然と、胸を張ってシェフターリが断言すると、スィーラーンはくすくすと笑って立ち上がった。傲慢な宣言は未来永劫約束されたものでは決してなく、今は頼りなく揺らいでいると見透かした、哀れみの笑みだった。
「そう。良かった。私だけ幸せなら申し訳ないと思っていたわ」
スィーラーンが左手を上げて髪のほつれを直すと、深緑の光がシェフターリの目を射った。頬と違って傷ひとつなく白い指に、大粒の柘榴石の指輪が輝いているのだ。主と同じ名と、その双眸と同じ色を持つ宝石が。
特別な相手から贈られたに違いないその柘榴石から、シェフターリは目を離せなかった。
そのていどの大きさのものは、山と積み上げるほど持っている。皇帝から贈られた
にもかかわらず、そのたった一粒の宝石は、彼女には決して手に入らない。そう、見せつけられた気がしたのだ。
「私、やっぱり後宮に入らなくて良かったと思ってるの。素敵な旦那様に出逢えたから。広い世界で、自分の力を試すことができるから」
愛しげに指輪を撫でながら、スィーラーンは勝ち誇った。そして身を屈めると、声も出せずに震えるシェフターリの耳元に唇を寄せる。
「貴女の幸せも続くと良いわね。……色々と気をつけて」
次の機会はない。また出過ぎた真似をすれば、その時こそ――母后からの警告は、もっとも効果的な形で与えられた。
シェフターリの答えを待たず、スィーラーンは優雅に一礼すると辞していった。
自室に取り残された寵姫が、声を発することを思い出したのは、女商人の足音さえも完全に聞こえなくなってからだった。
「私――わたし。こんな、嘘っ、なんで……!」
怒りなのか、屈辱なのか、恐怖なのか――わけが分からない感情に突き動かされて、シェフターリは喚き、手に触れるものすべてを壁や床に投げ、枕や寝具を殴って当たり散らした。その動きのひとつひとつに激しい痛みが伴って、頬を涙が伝うのにも構わずに。
(負けた。スィーラーンに負けた。見下されて哀れまれた……!)
顔を歪めて荒れ狂う様を皇帝が見れば、寵愛も一度に冷めるだろう。分かっていても、自分を制御することができなかった。奴隷として売られて以来、常にできていたことのはずなのに。
きりきりと、血の味がするほどに唇を噛み締めて、シェフターリは決意した。奴隷になった時よりもよほど強く、覚悟を新たにした。
(私は、まだ終わらない! こんなところで、こんな思いで――嫌、絶対に……!)
スィーラーンに負けないくらいに幸せになってやるのだ、と。




