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後宮《ハレム》の女商人は謀略を売る  作者: 悠井すみれ
第一章 女奴隷と異国の貴公子の出会い
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第3話 皇帝が手に入れ損ねた至宝

「遥かチェルケスから売られて帝都クスタンティニーヤに辿り着いたその娘は、美貌を認められてとある高官に買われました。市場で家畜のように取引されるのではなく、これぞという相手――諸侯や高位の宦官、あるいは皇帝スルタンその人への、またとない贈り物になり得ると見込まれたのです」


 赤くなったり青くなったり忙しいアダムにも、眉を寄せたままの青年にも口を挟む隙を与えず、スィーラーンは滑らかに言い切った。


「その娘は、すぐに高官の所有するもっとも価値ある財産になりました。肌はクリーム(カイマク)のように白く、流れる黒髪は最高級の絹糸の艶やかさとしなやかさ。目の色は――翡翠とも緑柱石ともまた違う、珍しい緑の柘榴石スィーラーンの深い色」


 ヴェール(ヤシュマク)を取ったことで露になった髪を誇るように、指先で梳いてみせる。そう、これはスィーラーン自身の物語。青年が真に受けるかはまた別として、()()の説明は真摯かつ誠実に行わなくては。


(エステル・キラなら押し売りはしないわ。買いたくなるような口上を聞かせるのが彼女の手管、私だって使いこなしてみせる。たとえ私自身が商品でも、ね!)


 実のところ、エステルの監督なしで大きな商談をまとめるのは、初めてだったのだけれど。それでも、スィーラーンの鼓動が早まるのは、恐れや不安よりも高揚と喜びのためだった。商品の値を高めること、客を満足させること。同時に叶えるのは難しく、そしてだからこそとても楽しい。


「立ち居振る舞いも受け答えも申し分なく、詩歌を朗読する声は小夜啼鳥ビュルビュルが歌うよう、舞いを舞わせても並ぶ者がいない――その娘は、後宮ハレムでも必ずや輝き、寵姫イクバルの地位を射止めるだろうと思われました」


 かつて習い覚えた歌舞の技量は、今も健在のようだった。青年は彼女の声に聞き入っていたし、身振り手振りに見入っていた。

 彼は今、諸国の珍品が並んだ西方風の屋敷の一室ではなく、帝国の重臣の豪邸の、花が咲き乱れ緑滴る麗しい奥庭ハレムにいる心地になっているだろう


「けれど――」


 と、ここでスィーラーンは声を低めた。そうして、物語の転調を予感させる。


「いよいよ後宮に献上される段になって、娘はふと思いついたのです。帝国に君臨する皇帝とはいえ、たったひとりの男に我が身を捧げるのは惜しくはないか。東西の至宝を集めた豪奢な鳥籠に、生涯を閉じ込めるのはつまらなくはないか、と」


 スィーラーンがちらりと視線を窓に向けると、青年もアダムもつられたように同じほうへ顔を動かした。


 諸国の商人がもたらす情報と商品をいち早く手にするため、エステルは海――港の近くに屋敷を構えていた。

 窓から見えるハリチュ湾の対岸は、低地の市街に礼拝堂(モスク)円蓋ドーム尖塔(ミナレット)がそこここに聳え、高台に宮殿サライの壮麗な建築群が広がっている。


 かつての主人の奥庭ハレムという鳥籠から、かつてのスィーラーンはまた別の鳥籠――後宮ハレムを期待と憧れの目で眺めたものだ。


 そこでは、数多の美姫がひしめき、しのぎを削り合っている。美貌と教養と芸妓を磨き、あるいは競争相手を蹴落とし陥れて、母后ヴァリデ・スルタンに取り入り、皇帝への推薦を勝ち取ろうと。

 珈琲カフヴェの淹れ方から水煙管ナルギーレの取り回し方、淑やかな流し目に染めた爪先の悪戯、薄絹越しに透ける肢体、あらゆる手段で後宮ハレムの主の心を捕え、欲望を掻き立て満足させる。めでたく皇子を授かってその子が玉座の高みに上れば、その母の権威は外廷ビールーンにまで及ぶ。


 母后ヴァリデ・スルタンというたったひとりの勝者を目指す、熾烈な、そして時に陰湿で残酷な戦いに、彼女も身を投じるはずだった。


 でも、そうはならなかった。


 青年の表情に理解と哀れみの色が浮かぶのを確かめて、スィーラーンは息を継いだ。()()()()()は本題ではない。宮殿サライを遠目に眺めても、彼女の心はもう痛まない。なぜなら――


「娘は、主の目を盗んで顔を焼きました。後宮に収められる者は、五体に欠損があってはならないから。妙なる宝玉に、自ら傷をつけたのです。――いいえ」


 左頬の傷を手で覆って目を伏せて。けれど、一瞬の後に、昂然と、傲然と胸を張って笑う。誇らかに、胸に手を当てて宣言する。


「私は、皇帝が手に入れ損ねた至宝になりました。そうして、自らの価値をいっそう高めたのです。これこそが、エステル・キラが貴方様に委ねたもの。世にふたつとない賢く勇敢な柘榴石(スィーラーン)……!」


 スィーラーンの声の残響が消えた後も、青年は椅子にかけたまま、しばらく微動だにしなかった。いつの間にか顎に手を当てて、彼女を――目の前の品物を見定める構えのようだ。


 青年が何らかの結論を出す前に、我に返ったらしいアダムが喚いた。


「ど、奴隷の戯言だ……! 母に哀れまれて拾われただけの傷もの(チャトラク)のくせに、口だけはよく回る……!」


 美しく華やかな後宮ハレムの夢を、この男も確かに見たのだろうに、無粋なことだ。あるいは、傷ものふぜいの言葉に聞き入ってしまったからこそ、つまらない矜持を傷つけられたと感じているのか。


(でも、騒いでくれるほうが私にとっては()よ……!)


 横目でアダムを睨んだ青年は、品定めの邪魔をされた、と思っているのは明らかだった。商品を売り込む商人の口上に、疑問も疑念もあって当然だけれど、あまりにも的はずれなことを言ってはかえって信用を無くすだけだろうに。


「では、今の話は口からでまかせか? 奴隷が、自らの値を吊り上げようとしただけだ、と?」


 青年は、アダムの反応も判断材料にしているだろう。スィーラーンを買い上げるかどうかについてだけではない、エステル・キラの後継者として、何かしらの商談を持ちかけても良いのかどうかについても、だ。


「当然です! 母が亡き後、売り飛ばされるのを恐れて悪知恵を巡らせたのでしょう!」


 憤然として頷いたアダムは、自身も品定めの対象になっているとは気付いていない。ゼーナと通じたであろうよしみのこと、青年の祖国と思しきイストリアはそのゼーナと対立していること。エステルの傍で、スィーラーンが何を見聞きしてきたか――それらのことも、どれだけ考えているだろう。


(とにかく生意気な小娘が出しゃばるのが許せない、ってだけかしら……?)


 アダムが喚くだけ、青年の表情は醒めていった。彼の心の中の天秤は、確実にスィーラーンのほうへ傾いているのだろう。


「見苦しいからヴェール(ヤシュマク)を取るなと言いつけたのに、勝手に、この――」


 椅子を倒して立ち上がったアダムが拳を振り上げても、彼女は避ける必要をまったく感じなかった。脅すように大げさに拳を掲げる隙に、青年も素早く動いたのが見えたから。


 青年が纏う黒い繻子が、しゅっとしなやかな衣擦れを奏でた。


「だが、確かに約束の柘榴石グラナートには違いないようだ」


 金茶の目でしっかりとスィーラーンを見据えるいっぽうで、青年の腕はアダムのそれを掴んでいた。


(イストリアの商人なら、水夫を束ねたり海賊とやり合ったりもするでしょうしね……)


 かの国では、貴族と言えども役職を世襲することはなく、交易でも問われるのは才覚だけ、出自に関わらず能力だけで財を成すものだとか。母親エステルの名と財産にぶら下がって遊び暮らしていた不肖の息子とは、わけが違うということだろう。


 腕を下ろすこともできずに目を白黒させるアダムに、青年は息を乱すことさえなく端的に告げた。


「エステル・キラの形見として、この娘をもらい受ける。否、買い取るほうがあと腐れがないか? ドゥカート金貨十枚で足りるか?」

「じゅ、十枚……?」


 怒りや屈辱や混乱が渦巻いていたアダムの顔に、歓喜の光が差したようだった。見ていたスィーラーンが思わず笑ってしまうくらい、分かりやすくて浅はかで愚かしい。


(傷ものが高値で売れて僥倖、とでも? ……手放したものの価値に気付くのはいつになるかしら)


 エステルが遺したという書簡を盾に、本物の柘榴石を強請ゆすり取られては大損、とも思ったかもしれない。


(ゼーナに怒られても知らないわよ?)


 スィーラーンは、エステルの手管を間近に見て来た。後宮の女商人に商談を持ち込んだ人物の名前や立場、品物や請願――ゼーナとしては、敵国に渡してはならないのだろうに。


「では、決まりで良いな。――マルコ、金貨を」


 アダムを解放しながら従者に呼び掛けた青年は、とにかくもスィーラーンを確保する必要性を理解したのだろう。


(それだけ分かってもらえたら十分。機会さえ与えてくれれば、私は私の価値を証明できる……!)


 金貨を数えるアダムを余所に、青年はスィーラーンに向き直った。悪戯っぽく微笑む表情には、共犯者の親しみがもう現れている。今のうちにさっさと行こう、と。


 スィーラーンが差し伸べた手を取って、青年は恭しく口づけた。淑女に対するような作法は、ただの奴隷として扱うつもりはないとの表明だろう。


「私はバルトロ・アレティーノ。最も晴朗なる共和国ラ・レプブリカ・セレニッシマイストリアの貴族、黄金の書(リーブロ・ドーロ)に名を連ねる大評議会議員――よろしく頼む、賢く勇敢な柘榴石スィーラーン


 青年──バルトロが並べた煌びやかな肩書は、煌びやかではあっても予想の範疇、スィーラーンは驚きを見せずに微笑んだ。


「こちらこそ。貴方のお役に立てるように誠心誠意、務めますわ」


 スィーラーンの深緑の目と、バルトロの金茶のそれが見つめ合い、そして頷き合った。


 こうして商談は、成ったのだ。

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