第3話 出資者の意向
帝都の尖塔の頂点を飾る、金に塗られた三日月の彫刻が地平の彼方に消えたころ――アスラン皇子は行軍の停止を命じた。親衛隊も傭兵もさすがに手際よく、夜の帳が完全に下りる前に、平原にはいくつもの天幕が立ち並び、炊事の煙が星空を翳らせることになった。
中でも特に大きい天幕が、アスラン皇子の寝所にして謁見の間だった。
戦場にあっては主君と臣下は食事を共にして絆を深めるのがカザール帝国の習い。元女奴隷のスィーラーンと異教徒にして異国人のバルトロも、それぞれ母后とイストリアの後ろ盾ゆえに、皇子と食卓を囲む光栄に与った。
「変装しての行軍は疲れただろう、スィーラーン。ここでは気兼ねせずに休むと良い」
「恐れ入ります、皇子殿下」
皇子が手ずから発酵乳を注いだ玉杯を受け取って、スィーラーンは控えめに微笑んだ。酸味とほのかな塩気は確かに疲れた身体に心地好く、食卓に並んだ炊き込み飯や羊の焼肉の味も申し分ない。
「元首の子息殿も。そなたたちとは人目を気にせず話をしたかったのだ」
けれど、蝋燭の灯りに不穏に煌めく琥珀色の目を前にして、言われた通りに気を緩めることなどできそうになかった。
「はい。私のほうでも、祖国イストリアの意向を伝える機会を待ち望んでおりました」
バルトロの表情が硬いのも、足を組んで床に座る帝国式の食卓に慣れないからだけではないだろう。
金茶の目が、ちらちらとスィーラーンを窺って気遣わしげな色を浮かべている。帝都の大通りでの皇子とのやり取りを、まだ気にしているのだろう。でも、それも彼が頬を強張らせる理由のすべてではない。
「うむ。では、ほかの者が怪しむ前に端的に話したい」
天幕の中――控える奴隷を除けば――機嫌が良いのはアスラン皇子だけだった。クッションに凭れて寛ぐ姿は、噴水の涼やかな音と花の香りが彩る、宮殿の中庭にいるかのようだった。
実際は、ここは平地のただ中の天幕の中。緞帳は、刺繍の彩りこそ華やかでも風が吹けば頼りなく揺れ、床は地に絨毯を敷いただけ――宮殿の壮麗さには比べるべくもないのだけれど。
(でも、鳥籠の重苦しさを思えば楽園のよう、なのでしょうね)
宮殿では、皇子は母と兄の顔色を窺って一挙手一投足に気を配らなければならなかったはず。束の間とはいえ鎖から解き放たれた若き獅子は、野心を露にできること、思うままに語れるということが楽しくてならないようだった。
「兄上の――というか、寵姫シェフターリの企みは見え透いているし、母上の思惑も分かり切っている。私は、暗殺される気も、大人しくお使いを済ませて鳥籠に戻る気もない」
強く言い切って、バルトロを見据える金色の目は、母后カハラマーンよりもなお鋭く獰猛だったかもしれない。異を唱えれば、海に放り込むどころか首を食いちぎってやる、と言わんばかりの剣呑さは、口元に牙が覗いていないのが不思議なほどだ。
「この機会に、いずれかの都市を落として拠点とし、帝位を狙う――それが、イストリアの意図ではないのか」
「残念ながら、違います」
戦いを待ち望んで猛る獅子を前に、首を振るのは勇気が要ることだろうに。バルトロは、怯む気配も見せずに言下に否定した。
「恐れながら、殿下が兄君の命令に背いて野心を見せれば、それはただの反逆です。直接にエドレネを狙うのではなくとも、同じことです」
アスラン皇子を討つ口実ができるのを、シェフターリと、傍に控えるゼーナの大使は待ち望んでいる。そして、母后はその企みを妨げようとしている。勝手な動きをすれば、皇子は母君からさえも切り捨てられかねない。
「だが。私に賭ける者も現れるであろう。兄上の治世に不満を持つ者、権力から遠ざけられた者は新たな皇帝を歓迎するはず……!」
今のところは母后の思惑に従うのが得策だ。皇子もそれは承知しているはず。それでも、牙を剥くように唸らずにはいられないのは、それだけ幽閉生活で鬱屈が溜まっているのだろう。握った拳が卓を叩くと、三人分にはゆうに余る食事の皿の数々が、脅すように耳障りな音を奏でた。
(……大丈夫?)
爪と牙を揮う機会を求めて猛る獅子に、首輪を嵌めることができるのかどうか。
スィーラーンが視線で問うと、バルトロも目のわずかな動きだけで頷きを返した。
「それに――」
皇子に反駁する彼に、怯えや気おくれは欠片も見えない。
イストリアは、巨額の投資と引き換えに、帝国との――比較的――平穏な関係を贖おうとしている。皇子は、即位後に図る便宜を担保として前借りして、イストリアの援助を買っている。
これも一種の商売だから、商人の国イストリアの元首子息が引き下がることはあり得ない。
「イストリアは、西方諸国との関係にも気を遣わなければなりません。反逆を唆したとなれば、我らは非難の的になる――戦争の口実にもなるでしょう。イストリアがアクデニズ海に築いてきた権益を、狙う国は多いですから」
そう、イストリアは貧しい国土だからこそ交易で栄える道を選んだ国。豊かな富は軍備にもつぎ込まれているけれど、民の――つまりは兵の少なさはどうしようもない。一連の工作は、戦争そのものを避けるための必死の努力なのだ。
「付け入る隙を与えてはならぬのは、我らも同じ。聡明な皇子殿下にはご理解いただけると願います」
分からない愚か者はイストリアの投資には値しない、と。バルトロの強い口調は暗に告げていた。
(本当に、素敵な旦那様で……)
きっと、本国の父君や大使からも、重々言い含められているのだろう。外交官や政治家の視点で語る夫は、スィーラーンとしては眩しいと同時に少し遠い気もして、なぜか苦しさを覚える。
「では、何のために私に接触した。どのような目論見があってのことだ」
状況は、よくよく理解した上で、それでも思うように動けない歯がゆさは、アスラン皇子を苛立たせているようだった。
若い獅子の勘気を宥めるため、それに、バルトロを援護するため。スィーラーンはにこやかに微笑んだ。
「血濡れた玉座は、脆いものです。いわくつきの品を恩着せがましく売りつけたとなれば、イストリアの名折れ。殿下には、誰もが認める形で帝位に就いていただかなければなりません」
「口先三寸で傷ものの値を吊り上げるのが、商人のやり口ではないのか」
そのやり口を捨てるなら、お前はただの傷ものではないのか――残酷な皮肉も、スィーラーンの笑みを揺らがせることはない。
(『皇帝が手に入れ損ねた至宝』でなくても――それでも、私はもう、傷ものではないわ)
バルトロが、そう教えてくれたから。ひとりではなく、夫婦ふたりで臨む商談だと、分かっているから。
「客に喜んで代価を支払わせるのが、商人の手腕というものです」
だから、スィーラーンは心から笑い、自信たっぷりに告げることができる。
「ご覧になっていてくださいませ。わざわざ血を流すまでもなく、帝位は殿下の前に差し出されることでしょう」
「……そなた、誰に何を売りつける気だ? 私と母上以外にも客がいるのか?」
眉を顰め、目を細めたアスラン皇子は、さすがに敏かった。
(怒りに目が眩むのではなく、苛立ちながらも状況を見極めようとする――本当に、カハラマーン様に似ていらっしゃる……!)
擁立しようとしている相手の頼もしさと手強さを同時に確かめて、スィーラーンとバルトロは視線を交わして苦笑し合った。油断してはならないいっぽうで、長く、そして上手く付き合いたい商売相手だと、確かめたのだ。
「それも、後々のお楽しみです。――そろそろ、仕入れが出来ると思いますから」
「イストリアはゼーナとは違います。甘言を囁くばかりの者など信用に値しないでしょう」
商人は、難しい商談に臨むと燃えるもの。夫婦揃って、やたらと熱のこもった笑みを浮かべるふたりは、商人ではない皇子にはだいぶ奇異に見えたのだろう。
「……ふん。信用に値する手腕を見せて欲しいものだな」
吐き捨てて発酵乳を呷ったアスラン皇子は、いまだ不服げな面持ちをしていた。それでも毒気を抜かれたのか気を逸らされたのか、ひとまずは引き下がってくれるようだった。




