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後宮《ハレム》の女商人は謀略を売る  作者: 悠井すみれ
第四章 傷ものの至宝の行方
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第2話 縁起もの

 先日の行楽ハルヴェトから日を置かずして、帝都クスタンティニーヤは、またも壮麗な行列アラユによって湧いていた。


 此度の行列は、先日の女たちの優美な華やかさとはまた違った趣だった。

 金銀の装飾や、陽の光に眩く輝く宝石の煌めきは同じでも、それらが縁取り、縫い留められ、嵌め込まれているのは、華奢な輿こしや絹の幕、宝物を捧げ持つ宦官たちの重たげな衣装ではない。


 体格も毛並みも良い馬のくらや、鐙。その馬にまたがる武官が腰に佩いた剣、肩にかけたえびら。――どれも、対峙する敵の目を射潰さんばかりに輝かしく、絢爛に飾り立てられていた。

 徒歩かち親衛隊イェニチェリが誇らかに掲げる軍旗も、金糸の刺繍に真珠インジ金剛石エルマスがいっそうの煌めきを添える。


 皇帝スルタンの命令によって鳥籠カフェスから出されたアスラン皇子が、コフチャズを平定するために出発しようとしているのだ。


 ひと際見事な白馬に乗った皇子をひと目見ようと、通りの両端は野次馬で埋め尽くされている。夏の強い日差しの下、立ち込める熱気が陽炎かげろうを成すほどだった。


皇子殿下シェフザーデ、若き獅子アスラン!」

「ご武運を――」


 あちこちから上がる歓声に応えて、アスラン皇子は視線や笑顔を巡らせる。その動きにつれて、ターバン留めにあしらわれた緑柱石ジュムリュトが輝くのはもちろんのこと、琥珀色の双眸も、雪花石膏アラバスタの白皙の頬も眩いばかりで、民の興奮は増すばかりだ。


 皇子のすぐ傍に従うバルトロは、心中で呟いた。


(まるで、皇帝スルタンその人が現れたかのようだな)


 黒い繻子で仕立てた長衣カフタンを纏った彼は、遠目には影のように見えるだろう。孔雀めいた華美な装いのゼーナ大使、ダンテ・スピノラは、彼とは趣味が合わない。


 宮殿サライの宝蔵庫から支払われた金貨と宝石で、兵を募り装備を整え、コフチャズまでの糧食を手配したのはイストリアの商人だ。ゆえに、相談役として皇子に侍る名誉を与えられた――という体で、若い獅子を監視しろ、というのが母后ヴァリデ・スルタンカハラマーンの意向だった。


(例によっての無茶ぶりだが――カザール帝国政府の用向きに食い込めたのは吉報のはずだ)


 アスラン皇子の絢爛さに掻き消されて目立たないのを良いことに、バルトロは西方語で()()()()語りかけた。


「誰も姿を知らなかっただろうに、人気なんだな」


 彼の腕と手綱の間には、小姓姿のスィーラーンが収まっていた。柘榴石の深緑の目が、バルトロを見上げて苦笑する。


「帝位に就けなかった皇子の末路は悲惨なものですから」


 長く豊かな髪をターバンで纏めたスィーラーンは、瑞々しい紅顔の少年にしか見えなかった。ヴェール(ヤシュマク)で顔を隠したとしても、女人が軍に従うのは憚りがあるということでの男装だ。


 文武の厳しい訓練を受けた本物の小姓なら、馬に乗れないはずがないのだが、そこはそれ、というやつだった。スィーラーンもさすがに馬術は修めていないし、男所帯の中にを紛れ込ませるなど思いもよらない。


 それに――揺れる馬上でのこと、自然と身を寄せ合う格好になるのは、役得だった。スィーラーンは、バルトロの胸に縋るようにして、彼の耳元に口を寄せてくれたから。


「小さな棺の葬列を見送るのを思えば、若く美しい皇子の晴れ姿を見られるのは喜ばしいことなのです」

「そういうものか……」


 暑い季節とあって、互いに纏う衣装の生地は薄い。生々しく伝わるスィーラーンの温もりと柔らかさに鼓動を早めつつも、バルトロの相槌は重かった。


 帝位継承に伴う皇子殺しについては、もちろん承知している。だが、幼い子供もその習いから逃れられないと改めて突きつけられると、気が滅入る。


(国を割る内乱よりはマシなのか――は、どうなる?)


 アスラン皇子を帝位に就けて恩を売る、というのが、イストリアの目下の戦略だ。その過程で帝国が混乱に陥るなら願ってもない、とバルトロの父である元首ドージェ以下の元老院は考えているだろう。


(祖国のための必要な犠牲、なのか……?)


 帝国の次代を導くかもしれない男の器は如何、と。バルトロはアスラン皇子の輝かしい横顔を密かに凝視した。


 その瞬間に、琥珀色の目がふいにこちらを向く。盗み見を咎められるのか、とバルトロは身構えたが――


「スィーラーン。私の馬のほうが大きい。こちらに参れ」


 輝くような笑顔と共に、アスラン皇子は手招きした。

 皇子の指輪に嵌められた大粒の紅玉ヤクートが、小さな太陽のように煌めいてバルトロの目を射る。――紅玉の輝きは、あるいは異国の貴族に放たれた牽制の矢だっただろうか。


(渡すものか)


 居心地悪そうに身動ぎしたスィーラーンの身体を抱き寄せて、バルトロは皇子の金の眼差しを正面から受け止めた。

 彼は、イストリアの代表として、今回の行軍の出資者の立場にある。帝国の臣下でもないのだから、命令に従う義務はないのだ。


「皇子殿下が堂々と小姓と戯れるのはいかがなものかと。民の失望を招きましょう」


 せっかく、皇帝スルタンが寵姫と酒に溺れて勝手に株を下げてくれているのだ。イストリアの投資に値する振る舞いをして欲しい――言外の要求が伝わったのだろう、アスラン皇子は口元を笑みに似た形に歪めた。


「イストリアの元首ドージェの子息はあらぬ思い違いをしている。私は、縁起ものを手元に置いておきたいだけだ」

「縁起もの……?」


 繰り返したバルトロの戸惑いにはすぐに答えず、皇子は彼とは逆のほうを向いて、民に手を振った。これで良いのだろう、とあてつけるかのようだった。

 そして、ようやくバルトロに向き直った時――皇子は紅玉の指輪を嵌めた右手を掲げ、またも彼の目を眩ませた。


「かつて、エステル・キラはこの紅玉ヤクートを父上に売りつけた。バヤズィト征服帝を導いた雷に撃たれた逸品だ、と言って。傷ものの値を吊り上げる、遣り手の商人だったようだな」


 言われて初めて、バルトロは気付いた。その紅玉ヤクートには大きな罅が走っていることに。中に抱くユルドゥズを両断するその罅によって、赤く鮮烈な光はいっそう複雑な軌跡を描くようだった。


 だが、紅玉の輝きよりも、皇子がさりげなく付け加えた言葉がバルトロを惑わせた。傷があるからこそ価値が上がる――そんな話は、ほかにも聞いたことがある。


「傷ものの、値」

「作り話だ。だが、面白くて興味深い。信じても良いと思うほどに」


 彼の腕の中で、スィーラーンが身体を強張らせているのが不穏だった。皇子の意味ありげな視線に撫でられて、さらにふるりと震えるのも。

 バルトロの妻を怯えさせておいて、アスラン皇子は晴れやかに艶やかに微笑んだ。


「兄上ではなく私がこれを受け継いだことには意味があるはず。――ならば、エステル・キラが仕立てたもうひとつの至宝も欲しい」


 幽閉生活が長い割に、皇子の手綱(さば)きは巧みだった。絢爛な馬具を纏った白馬に迫られて、バルトロの馬は怯えたように脚を乱した。


 白い馬との対比で、バルトロの黒衣はかえって目立ったのだろう。民の不審や好奇のざわめきが、彼の馬をさらに浮足立たせる。

 そのザマを笑って、アスラン皇子は紅玉の輝く手を伸ばす。揺れる馬上でバルトロにしがみつく、スィーラーンへと。


皇帝スルタンが手に入れ損ねた柘榴石スィーラーン、それを捕えた者は、次の皇帝スルタンになれるのでは……?」

「そのような、こと……っ」


 スィーラーンをしっかりと抱えると同時に、バルトロは思い切って馬を数歩、走らせた。まとわりつく白馬を――その騎手であるアスラン皇子を振り切って。

 迷惑そうに睨め上げる親衛隊イェニチェリの間に、無理やり居場所を確保してから、バルトロはようやく口を開いた。


「妻はものではなく人間です。帝国でも、奴隷を妻とする時には解放するものだと存じておりますが」

「顔に傷のある()()()女を妻にするのか。物好きな」


 半ば振り返る体勢で貴人に対する、という不敬を咎めることなく、皇子は不思議そうに首を傾げた。


(ああ、そうか……エステル・キラの()()()こそが、スィーラーンの拠りどころなのか)


 スィーラーンの、これまでの言動のいくつかが腑に落ちた。


 皇帝スルタンが手に入れ損ねた至宝たることを、こよなく誇る節があること。何かとバルトロの役に立とうとすること。……そうでなければ、ただの傷ものの奴隷に過ぎなくなってしまうから。


(そんなことは、ない)


 強く、はっきりと彼女に言ってやりたかった。とはいえ、行列のただ中、帝都の通りで口にすることではない。


 今のバルトロが対峙するのは、あくまでもアスラン皇子だけ。それでも、腕の中のスィーラーンにも聞こえるように、堂々と宣言する。


「イストリアの商人の目は確かです。商品だけでなく、人についても」

「……その慧眼で、何を売りつけてくれるものやら。楽しみにしていよう」


 皇子は、興を削がれたようにつまらなそうに吐き捨てた。けれどそれも一瞬のこと、すぐに華やかな笑みを浮かべて民の歓呼に応える。


 そうして、端整な容姿と気品ある振る舞いで民を存分に沸かせておいて、皇子が率いる一行は帝都を後にした。

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