第2話 縁起もの
先日の行楽から日を置かずして、帝都クスタンティニーヤは、またも壮麗な行列によって湧いていた。
此度の行列は、先日の女たちの優美な華やかさとはまた違った趣だった。
金銀の装飾や、陽の光に眩く輝く宝石の煌めきは同じでも、それらが縁取り、縫い留められ、嵌め込まれているのは、華奢な輿や絹の幕、宝物を捧げ持つ宦官たちの重たげな衣装ではない。
体格も毛並みも良い馬の鞍や、鐙。その馬にまたがる武官が腰に佩いた剣、肩にかけた箙。――どれも、対峙する敵の目を射潰さんばかりに輝かしく、絢爛に飾り立てられていた。
徒歩の親衛隊が誇らかに掲げる軍旗も、金糸の刺繍に真珠や金剛石がいっそうの煌めきを添える。
皇帝の命令によって鳥籠から出されたアスラン皇子が、コフチャズを平定するために出発しようとしているのだ。
ひと際見事な白馬に乗った皇子をひと目見ようと、通りの両端は野次馬で埋め尽くされている。夏の強い日差しの下、立ち込める熱気が陽炎を成すほどだった。
「皇子殿下、若き獅子!」
「ご武運を――」
あちこちから上がる歓声に応えて、アスラン皇子は視線や笑顔を巡らせる。その動きにつれて、ターバン留めにあしらわれた緑柱石が輝くのはもちろんのこと、琥珀色の双眸も、雪花石膏の白皙の頬も眩いばかりで、民の興奮は増すばかりだ。
皇子のすぐ傍に従うバルトロは、心中で呟いた。
(まるで、皇帝その人が現れたかのようだな)
黒い繻子で仕立てた長衣を纏った彼は、遠目には影のように見えるだろう。孔雀めいた華美な装いのゼーナ大使、ダンテ・スピノラは、彼とは趣味が合わない。
宮殿の宝蔵庫から支払われた金貨と宝石で、兵を募り装備を整え、コフチャズまでの糧食を手配したのはイストリアの商人だ。ゆえに、相談役として皇子に侍る名誉を与えられた――という体で、若い獅子を監視しろ、というのが母后カハラマーンの意向だった。
(例によっての無茶ぶりだが――カザール帝国政府の用向きに食い込めたのは吉報のはずだ)
アスラン皇子の絢爛さに掻き消されて目立たないのを良いことに、バルトロは西方語で腕の中に語りかけた。
「誰も姿を知らなかっただろうに、人気なんだな」
彼の腕と手綱の間には、小姓姿のスィーラーンが収まっていた。柘榴石の深緑の目が、バルトロを見上げて苦笑する。
「帝位に就けなかった皇子の末路は悲惨なものですから」
長く豊かな髪をターバンで纏めたスィーラーンは、瑞々しい紅顔の少年にしか見えなかった。ヴェールで顔を隠したとしても、女人が軍に従うのは憚りがあるということでの男装だ。
文武の厳しい訓練を受けた本物の小姓なら、馬に乗れないはずがないのだが、そこはそれ、というやつだった。スィーラーンもさすがに馬術は修めていないし、男所帯の中に妻を紛れ込ませるなど思いもよらない。
それに――揺れる馬上でのこと、自然と身を寄せ合う格好になるのは、役得だった。スィーラーンは、バルトロの胸に縋るようにして、彼の耳元に口を寄せてくれたから。
「小さな棺の葬列を見送るのを思えば、若く美しい皇子の晴れ姿を見られるのは喜ばしいことなのです」
「そういうものか……」
暑い季節とあって、互いに纏う衣装の生地は薄い。生々しく伝わるスィーラーンの温もりと柔らかさに鼓動を早めつつも、バルトロの相槌は重かった。
帝位継承に伴う皇子殺しについては、もちろん承知している。だが、幼い子供もその習いから逃れられないと改めて突きつけられると、気が滅入る。
(国を割る内乱よりはマシなのか――次は、どうなる?)
アスラン皇子を帝位に就けて恩を売る、というのが、イストリアの目下の戦略だ。その過程で帝国が混乱に陥るなら願ってもない、とバルトロの父である元首以下の元老院は考えているだろう。
(祖国のための必要な犠牲、なのか……?)
帝国の次代を導くかもしれない男の器は如何、と。バルトロはアスラン皇子の輝かしい横顔を密かに凝視した。
その瞬間に、琥珀色の目がふいにこちらを向く。盗み見を咎められるのか、とバルトロは身構えたが――
「スィーラーン。私の馬のほうが大きい。こちらに参れ」
輝くような笑顔と共に、アスラン皇子は手招きした。
皇子の指輪に嵌められた大粒の紅玉が、小さな太陽のように煌めいてバルトロの目を射る。――紅玉の輝きは、あるいは異国の貴族に放たれた牽制の矢だっただろうか。
(渡すものか)
居心地悪そうに身動ぎしたスィーラーンの身体を抱き寄せて、バルトロは皇子の金の眼差しを正面から受け止めた。
彼は、イストリアの代表として、今回の行軍の出資者の立場にある。帝国の臣下でもないのだから、命令に従う義務はないのだ。
「皇子殿下が堂々と小姓と戯れるのはいかがなものかと。民の失望を招きましょう」
せっかく、皇帝が寵姫と酒に溺れて勝手に株を下げてくれているのだ。イストリアの投資に値する振る舞いをして欲しい――言外の要求が伝わったのだろう、アスラン皇子は口元を笑みに似た形に歪めた。
「イストリアの元首の子息はあらぬ思い違いをしている。私は、縁起ものを手元に置いておきたいだけだ」
「縁起もの……?」
繰り返したバルトロの戸惑いにはすぐに答えず、皇子は彼とは逆のほうを向いて、民に手を振った。これで良いのだろう、とあてつけるかのようだった。
そして、ようやくバルトロに向き直った時――皇子は紅玉の指輪を嵌めた右手を掲げ、またも彼の目を眩ませた。
「かつて、エステル・キラはこの紅玉を父上に売りつけた。バヤズィト征服帝を導いた雷に撃たれた逸品だ、と言って。傷ものの値を吊り上げる、遣り手の商人だったようだな」
言われて初めて、バルトロは気付いた。その紅玉には大きな罅が走っていることに。中に抱く星を両断するその罅によって、赤く鮮烈な光はいっそう複雑な軌跡を描くようだった。
だが、紅玉の輝きよりも、皇子がさりげなく付け加えた言葉がバルトロを惑わせた。傷があるからこそ価値が上がる――そんな話は、ほかにも聞いたことがある。
「傷ものの、値」
「作り話だ。だが、面白くて興味深い。信じても良いと思うほどに」
彼の腕の中で、スィーラーンが身体を強張らせているのが不穏だった。皇子の意味ありげな視線に撫でられて、さらにふるりと震えるのも。
バルトロの妻を怯えさせておいて、アスラン皇子は晴れやかに艶やかに微笑んだ。
「兄上ではなく私がこれを受け継いだことには意味があるはず。――ならば、エステル・キラが仕立てたもうひとつの至宝も欲しい」
幽閉生活が長い割に、皇子の手綱捌きは巧みだった。絢爛な馬具を纏った白馬に迫られて、バルトロの馬は怯えたように脚を乱した。
白い馬との対比で、バルトロの黒衣はかえって目立ったのだろう。民の不審や好奇のざわめきが、彼の馬をさらに浮足立たせる。
その様を笑って、アスラン皇子は紅玉の輝く手を伸ばす。揺れる馬上でバルトロにしがみつく、スィーラーンへと。
「皇帝が手に入れ損ねた柘榴石、それを捕えた者は、次の皇帝になれるのでは……?」
「そのような、こと……っ」
スィーラーンをしっかりと抱えると同時に、バルトロは思い切って馬を数歩、走らせた。まとわりつく白馬を――その騎手であるアスラン皇子を振り切って。
迷惑そうに睨め上げる親衛隊の間に、無理やり居場所を確保してから、バルトロはようやく口を開いた。
「妻はものではなく人間です。帝国でも、奴隷を妻とする時には解放するものだと存じておりますが」
「顔に傷のあるただの女を妻にするのか。物好きな」
半ば振り返る体勢で貴人に対する、という不敬を咎めることなく、皇子は不思議そうに首を傾げた。
(ああ、そうか……エステル・キラの作り話こそが、スィーラーンの拠りどころなのか)
スィーラーンの、これまでの言動のいくつかが腑に落ちた。
皇帝が手に入れ損ねた至宝たることを、こよなく誇る節があること。何かとバルトロの役に立とうとすること。……そうでなければ、ただの傷ものの奴隷に過ぎなくなってしまうから。
(そんなことは、ない)
強く、はっきりと彼女に言ってやりたかった。とはいえ、行列のただ中、帝都の通りで口にすることではない。
今のバルトロが対峙するのは、あくまでもアスラン皇子だけ。それでも、腕の中のスィーラーンにも聞こえるように、堂々と宣言する。
「イストリアの商人の目は確かです。商品だけでなく、人についても」
「……その慧眼で、何を売りつけてくれるものやら。楽しみにしていよう」
皇子は、興を削がれたようにつまらなそうに吐き捨てた。けれどそれも一瞬のこと、すぐに華やかな笑みを浮かべて民の歓呼に応える。
そうして、端整な容姿と気品ある振る舞いで民を存分に沸かせておいて、皇子が率いる一行は帝都を後にした。




