第1話 皇帝《スルタン》からの詔書
後宮の中枢、母后の居室に足を踏み入れた瞬間、スィーラーンはとてつもなく嫌な予感を覚えた。
女主人の金色に燃える双眸は、どうみても機嫌が良いようには見えなかった。華麗な螺鈿細工の水煙管が水瓶を叩く硬く鋭い音は、美しく恐ろしい雌獅子が、鋭い爪で苛立たしく地を掻く様を思わせる。
「カハラマーン様にはご機嫌麗しく――」
そぐわないのは百も承知で、平伏したスィーラーンが型通りの挨拶を終えるや否や、目の前にひらりと一葉の紙が舞い降りた。
母后の威厳ある声が、最低限の説明を短く告げる。
「ジャフェルからの詔書だ」
「恐れ入ります、拝見いたします」
絵画のように美しく優美な線で描かれたのは、まさに皇帝の権威に相応しい華麗な花押だった。それを床に投げ捨てるあたり、大人しく帝都に帰る、という報せではないようだ。
(詔書――何を命じてきたの……?)
訝しみ、かつ警戒しながら、スィーラーンは厳格な規則によって認められた、格式高い文面に目を走らせた。その内容は――
皇帝ジャフェルの名において、アスラン皇子に命じる。コフチャズ付近の政情不安を平定せよ。監督および、必要な場合の援護のため、命令の達成まで余はエドレネに陣を構える。
「どう思う」
思わず額を押さえたスィーラーンに、母后は熟考する間を与えてくれなかった。仕方なく、策を弄さずに端的に読み取れたことを答える。
「後宮に戻るのを恐れたシェフターリが策を巡らせた、と――アスラン皇子殿下を鳥籠の外に誘い出して暗殺、もしくは死を賜れば、少なくとも皇帝のお立場は当面安泰です。つまりは、あの女も」
コフチャズはエドレネからそう遠くない小都市だ。親衛隊を引き連れた皇帝の御座所の間近に、今のところ唯一の帝位継承者が参じる形になるのだ。
アスラン皇子の些細な挙動をあげつらって反逆罪にするも良し、事故や戦死を装うも良し。危険を感じて命令に背けば、その時は堂々と糾弾できる。正面から兄に挑もうにも、皇帝の守りは手厚く、正当性のない皇子に与する勢力は期待できない。
シェフターリは正しく状況を読んだ上で、巧妙な手を打ってきた。しかも――
(シェフターリ。私になんてことを言わせるのよ……!)
この詔書を書かせるにあたって、シェフターリは皇帝に吹き込んだのだろう。母君は貴方を廃して弟君を帝位に就けるおつもりだ、と。
もちろん、状況によってはカハラマーンは平然とその手段を取れることに間違いない。けれど、生意気な寵姫に見透かされるのも、女商人ふぜいに、可能性としてだけでも指摘されるのも不愉快極まりないことだろう。
(母后様は慈悲深い御方。事実はどうであれ、そういうことでなければならない……!)
少しでも雌獅子の怒りを和らげる必要性をひしひしと感じて、スィーラーンは慌てて追従した。
「母后様はふたりの御子を等しく愛しんでいらっしゃいます。母の心を踏み躙る非道な企み、性根の捻じれたあの女の考えたことに間違いございません」
「無論。妾は我が子たちが争うのを望まない。ジャフェルは何か誤解をしているのかもしれぬし、アスランは長幼の序を乱すべきではない」
絶対に心にもないことを述べて、母后はほんのわずか、頬を緩めた。スィーラーンの気の回し方は、的外れではなかったようだった。お陰で、ようやく思考を巡らせる余裕もできる。
(まだ、皇帝の廃位まではお考えではないみたい……?)
葡萄酒の件で名を上げることができたから、だろうか。寵姫に溺れる皇帝を案じて諫めることができる賢母、の立ち位置は悪くない。もちろん、皇帝を帝都に呼び戻した後、シェフターリをどう罰するかについてはまた別の話になるのだろうけれど。
豪奢な王冠のような濃い金色の髪に、重たげに見えるほどの宝石を飾った頭の中で、どれほど残酷な想像を巡らせているのか――表には一切見せぬまま、カハラマーンは水煙管を咥え、紫煙と共に淡々と言葉を吐き出した。
「そもそも、コフチャズにさほどの不安の気配はない。帝都から遠く、エドレネに近いから選ばれただけであろう」
「かの地の領主も民も、迷惑なことでございますね……」
それなりに平穏な日々を送っていたところに、突然、皇帝の邪推によって弟皇子の兵を差し向けられることになるなんて。
眉を顰めたスィーラーンの感想は、けれど、母后にとっては蜜漬けパイよりも甘いものだったらしい。哀れむような眼差しと微笑と共に、煙草の煙が細く長く吹きかけられた。
「まあ、叩けばいくらかの埃は出るであろうから、それをもって皇帝の命を達成したことにすればよかろう」
つまりは、どこにでもあるような不正の摘発や盗賊の捕縛でごまかす、ということだ。獅子の覇気を持つ御方にしては、やや気弱な対応に思えるのは――アスラン皇子が手柄を立てすぎることを、懸念していたりするのだろうか。
(確かに、あの方なら反乱の芽がないところでも構わず燃やし尽くしそう……!)
母君譲りの鋭く強い金色の眼差しに、彼女の頬に触れた手の熱さを思い出して、スィーラーンは密かに震えた。もちろん、囚われの皇子と面識があることは悟られてはならないから、黙って母后の御言葉を拝聴する構えを崩さなかったけれど。
「帝都の守りは必要ゆえ、アスランにつけられる兵は多くはない。あの子が逸らぬよう、ゼーナめの魔手が届かぬよう――イストリアに傭兵の手配を依頼する」
イストリアの極秘の計画は、知られてはいないはずだった。もしそうなら、勝手な真似をしたスィーラーンは生きてはいられない。依頼の形を取った命令も、ゼーナと対立するイストリアなら引き受けるだろう、と考えただけのはず。
(……本当に? 泳がされているだけではなくて……?)
胸に過ぎる不安と怖れに心臓を掴まれたまま――それでも、スィーラーンは嫣然と微笑んだ。いつも通りに自信たっぷりと、母后の信任にたる女商人に相応しく。
「心得ました。先日の件ではイストリアの大使も大いに潤ったとのこと――母后様のご用命を、嬉しく光栄に思ってくださることでしょう」
功を求めて逸る皇子に、コフチャズが蹂躙される惨劇は防がなければ。
そして、アスラン皇子の死も失脚も、イストリアが望むところではない。多少の無理を押してでも、全力で依頼をまっとうしようとするだろう。何より――
(バルトロも喜ぶわ……!)
鳥籠に囚われた若獅子を、束の間でも解き放つ機会が、向こうからやってきてくれたのだ。それも、カハラマーンの目の届かないところで接触する時間もたっぷり取れる。
引き受けるのに躊躇う理由は、欠片もなかった。




