寵姫の反撃
帝都クスタンティニーヤよりはかなりエドレネに近づいた草原にて、皇帝の行幸の一行が、野営の準備を進めていた。
行列の中央、とりわけ豪奢な天幕が並ぶ一角に、女の甲高い怒声が響いた。
「だから言ったじゃない!」
叫ぶと同時に、シェフターリは、熱い珈琲を満たした銅の杯を天幕の緞帳に投げつけた。
杯自体は幕のこちら側に転がったものの、中身のいくらかは金銀の刺繍を越えて、向こう側にいるダンテ・スピノラにかかったらしい。不満そうな呻き声が聞こえてきたけれど――もちろん、シェフターリの憤懣が収まることなどあり得ない。
皇帝が砂糖菓子の鈴を転がすようだと讃える甘く可憐な声で、寵姫は罵る。
「皇帝を繋ぎ止めるには酒が何より大事だって! 言われたこともできない無能者、女奴隷以下の怠け者! どう始末をつけるつもり……!?」
エドレネの葡萄酒が、イストリアによって買い占められていた、という報せが届いたのは数日前のことだ。
離宮での酒池肉林をこよなく楽しみにしている皇帝は、まだ知らない。けれど、隠し続けておくことは不可能だ。
数多の廷臣と兵と宦官と奴隷、カザール帝国の宮殿そのものおよそ半分の移動にも等しい大行列で、どこを目指すのか。進むのか引き返すのか――その指針が、今、ゼーナ出身の寵姫と大使の密談で決定されようとしていた。
「アダム――エステル・キラの息子は追放しました。母親の人脈を使うこともできなかった、あの者の手際の悪さが原因かと。イストリアにも背を向けたことで、この先あの者がクスタンティニーヤで商売をすることは――」
日ごろは爽やかで自信に満ちたダンテの声も、さすがに焦りが滲んでいる。もちろん、分かり切った言い訳など、シェフターリが望むものではなかったけれど。
「そんなことはどうでも良いの。この先どうするかを聞いているのよ」
ぴしゃりと言い放つと、緞帳の向こうでダンテの影が揺れ、その衣装を彩る刺繍や宝石が煌びやかな輝きを振り撒いた。
(まったく、孔雀のような男……!)
豪奢なだけの羽根を毟って丸焼きにしてやりたい、という思いは伝わったのかどうか。ダンテが次に続けた言葉は、もう少し具体的な提案を伴っていた。
「……母后の催した行楽は、後宮の女たちにも帝都の民にも好評だったとか。反面、皇帝の放蕩は批判を集めていると――ここは急ぎ引き返すべきかと存じます。皇帝の権威を帝都に示すためにも――」
「そして、私に殺されろというのね? 母后が私を許すはずがない……!」
それでもまだ、宮殿の表側しか知らない大使の考えには危機感が足りない。
後宮の本当の意味での主は、皇帝ではなく母后だということ。どれだけ寵愛と権勢を誇っても、寵姫は女奴隷に過ぎないこと。
(こちらに連れてきた女たちも宦官も、もう当てにならない……形勢不利と見れば、掌を返すに決まってる!)
皇帝に取り入ることを期待してシェフターリに擦り寄ってきた者たちは、次は、母后に泣きつくのだろう。寵姫の我が儘に振り回されて云々、と。想像しただけで腸が煮えくり返る。
「ですが――」
絶句したダンテは、何も分かっていないとしか思えなかった。あるいは、危険を承知の上で、しょせんは小娘と侮って言い包めようとしてるのか。……それなら、許せない。
(ゼーナは私に賭けたのでしょう。そう簡単に下りられないと、思い知りなさい……!)
自国出身の女が皇帝の心を掴むなど、千載一遇の好機。逃がせばゼーナが帝国の中枢に食い込む手段はごく限られてしまうだろう。否、そもそも完全に失われてしまうかもしれない。
「皇帝だって無事に済むとは限らないわ。母后の腹の皇子はもうひとりいるのよ。そちらを帝位に就けたほうが話が早いと思われたら――」
母后は、皇帝に失望し始めている。傀儡に仕立てた息子は、糸の操り手が変わったことにさえ気付かぬことを知ってしまったから。
不出来な長子は始末して、鳥籠にしまっておいた予備と取り換えよう、と思いついても不思議ではない。
(アスラン皇子……いかにも才気煥発で、母后の好みではなさそうだけど――)
数年前に遠目に見た少年は、確かに母后と同じ、金色に輝く琥珀の目をしていた。シェフターリにとっては、決して解き放ってはならない存在だ、と思う。
皇帝を取り込むために弄した策、かけた手間暇が無に帰しかねないと悟ったのだろう、ダンテの影が揺らぎ、身を乗り出したのを伝えてくる。
「……では、何としても皇帝を引き止めなければなりませんね。策はおありなのですか?」
「まあね。少なくとも、邪魔ものは始末して――皇帝にも、母親への不信を持っていただかないと」
そうでなければ、安心して帝都に――後宮に戻ることはできない。
軽やかかつしなやかな衣擦れの音と共に、シェフターリは緞帳の間際に膝をついた。天幕越しに、ダンテの耳元に囁くつもりで策を授ける。彼がこれからどう立ち回るべきか、彼女のほうではどう振る舞うか――語り終えたところで、付け加える。
「母后が武力に訴えた時のために、兵を集めていたのでしょう。それを使いなさい」
帝国を乱す内戦になろうと、知ったことではない。どうせ彼女の祖国ではない国で、見ることも足を踏み入れることもない地なのだから。
それよりも、何よりも。シェフターリ自身の安全と安楽のほうが、ずっとずっと大事だった。
* * *
ほどなくして、シェフターリは皇帝の天幕に召された。
金そのもので織ったと見える豪奢かつ重厚な緞帳は、実はびっしりと金糸の刺繍を施したもの。気が遠くなるほどの精緻な手仕事は、カザール帝国の皇帝だけに許されたものだ。
天幕だけでなく、ターバン留めに長衣に、全身を飾る指輪に――使われた金銀と宝石の重さと輝きに釣り合わないふわふわとした笑顔で、カザール帝国の皇帝、ジャフェルは寵姫に告げた。
「シェフターリ。先ほど、スピノラ大使から聞いたのだが。今、エドレネには葡萄酒がないのだとか。明日にでも引き返して帝都に戻ることにしよう」
代々、諸国の美姫を後宮に集めただけあって、ジャフェルも見た目は整っている。憂いのない美しい笑みからは、大規模な行列を方向転換させる労苦はまったく考えていないのは明らかだった。
(ああ、なんて素直なの……!)
あまりにも聞き分けの良い態度によって覚えた目眩も借りて、シェフターリは長椅子にかけたジャフェルの膝元に大げさに頽れた。
「そんな。いけませんわ、ジャフェル様。御身が危のうございます……!」
「え?」
きょとんとした顔の皇帝を見上げる淡い青の目は、涙の幕に曇っていることだろう。自由自在に涙を操るのは、後宮の女の手管としては初歩の初歩だ。
「母后様は、葡萄酒を酢と葡萄蜜に変える命令を下されたとか。禁酒の戒律の厳守を求める民に屈したのです……!」
朝露の重さにさえ耐えかねて震える花のつぼみのように、シェフターリが弱々しく訴えるのは、表面的には嘘ではない。
実のところは、葡萄酒の買い占めを正当化するためにイストリアが――ひいてはスィーラーンが弄した策だろうとは、分かっている。けれど、それはジャフェルに明かさずとも好いことだ。
「いや……母上は、余の評判のために――」
「そもそも、皇帝陛下にはこの世のすべてが許されると仰ったのは母君様ではございませんか? 母后様は、それを民に知られるのを恐れられたのですわ。すべて、ご自身の保身のためになさったのです。外国人居留区では、暴動寸前の騒ぎだったとも聞きました……!」
これもまた、スィーラーンの手の内だったのだろう。ダンテの報告によると、怒った民を宥めたのはイストリアの元首の息子、つまりはスィーラーンの夫だというのだから。
(上手くやったわね、スィーラーン。でも、私は貴女の策をも利用するわ……!)
あの女は、シェフターリが慌てて帝都に戻るとでも思っていたのだろうか。簡単に負けを認めるとでも? ……そんなことは、あり得ないのに。
「帝都に戻ってはなりません。シェフターリは心配で、恐ろしいのです。母后様は、不遜な民に尊い御身を投げ渡されるおつもりなのではないかと……」
「まさか、母上が……」
曖昧な笑みで首を振ったジャフェルは、母親を疑うということを知らない。でも、あの恐ろしい金の目の届かないところなら、この男の脆い心は簡単に揺らぐ。シェフターリの揺れる眼差しも震える声も、心からの不安と恐れによるものとしか思えないだろうから。
「だって、鳥籠には弟君がいらっしゃいますもの。帝国の伝統を破って、あえてあの御方を永らえさせたのは、本当に母后様のご慈悲なのでしょうか。皇室の継承争いの熾烈なこと、カハラマーン様もよくご存知のはずなのに!」
ほら、戦いも苦労も知らない、ジャフェルの柔らかい頬が、強張った。何年振りかに、血を分けた弟のことを思い出したのだろう。
胸に芽生えた疑いを揺さぶるように、心の隙に忍び込むように、シェフターリは細い手をジャフェルの身体に這わせた。
「もちろん、シェフターリも母后様を信じとうございます。きっと、ジャフェル様のことを第一に思っていらっしゃると」
「あ、ああ、そうだ……母上は慈悲深い御方で――」
シェフターリにほとんど押し倒されるような格好で、ジャフェルは寵姫の声や肉体よりなお甘いうわ言を吐いた。
(あの女のどこが慈悲深いのよ!)
悪態は、心の中だけに留めて――シェフターリはひと際甘く、微笑んだ。
「ええ。だから――帝都に詔書を送りなさいませ。母后様なら、その通りにしてくださいます。皇帝の御心を安らげたいと、本当に思っていてくださるなら」
そして、絡みつく寵姫の指に導かれるまま、皇帝は母后に宛てる手紙を認めた。




