第5話 祝杯
行楽が終わってから数日経った、ある夜のこと。バルトロの書斎には、書簡と菓子が山のように積み上がっていた。
「ルカッティ商会にダンドロ家……大使からも礼状が届いている。結果的には、高級生地の見本市として非常に有用だった、と」
夫婦ふたりして、長椅子に並んで座って。バルトロが、イストリアの大商人や名家の紋章入りの書簡を広げるいっぽうで、スィーラーンは蜜やバターやクリームの甘く濃い香りを漂わせる菓子を、ひとつひとつ指し示す。
「これは、クムカプ区の導師夫人の蜜漬けパイ。アッタール通りのヒュリヤの粉菓子に、アイシェの練り菓子も絶品ですわね。――皆、思う存分干し葡萄や葡萄蜜を使えるようになったようで、良かった」
スィーラーンの計画は、成功したと言って良いだろう。
母后カハラマーン以下、後宮の女たちは開放的な一日を心から楽しんだようだし、豪華絢爛な行列の噂は、奢侈品の需要を一気に高めている。行列に携わった商人たちは、急に増えた注文に応えるのに忙しそうだ。
(バルトロも、ガレー船送りにならなくて済みそうね?)
市井の女たちも、葡萄関連商品が潤沢に出回ったことで安堵しているようだ。
母后の慈悲云々の評判が広まったことで、その歓心を買うべく、干し葡萄ほかの農作物を帝都に送れ、という機運も高まっているらしい。
(あとは、皇帝がどんな反応をするか、だけど――)
まあ、シェフターリとゼーナは危機感を持ってくれるだろう。不在の間に母后が名を上げ、イストリアと強く結びつくのは、彼女たちにとっては一大事だ。
「もう遅い時間ですが、珈琲を淹れましょうか?」
当面はエドレネからの報せを待つだけ、スィーラーンもバルトロも、この間に溜まった心身の疲れを、甘味で癒しても良いはずだ。そう思って、スィーラーンは厨房に向かおうとしたのだけれど――
「いや。飲み物は用意してあるんだ。――マルコ」
「はい、若様」
バルトロの呼びかけに応じて、やけに素早くマルコが入室した。まるで、扉のすぐ外で待ち構えていたかのように。
「どうぞ、ごゆっくり」
にこやかな、そして意味ありげな笑みを浮かべて、片目を瞑って。マルコはさっさと退出していった。彼が残していったのは、硝子の杯がふたつと、瓶がひとつ。色付きの硝子に透ける色からして、瓶を満たしているのは――
(葡萄酒?)
首を傾げるスィーラーンの前で、バルトロは鬢を傾けて杯を満たし、彼女の予想が正しいと示してくれた。
「エドレネの葡萄酒――一樽だけでもこっそり残しておけないか、と大使が言っていたが、断った。こういうのは、後でバレると怖いから」
「それは、そうでしょうね……とても、もったいないですけれど」
せっかくの美酒を酢にしてしまうのは、スィーラーンも辛かった。イストリア大使館では酒を供する晩餐会なども催されるのだろうし、一樽だけでも、という大使の無念はよく分かる。いっぽうで、帝都市民の手前、不正を疑われる余地があってはならないのも当然のことだ。
「だが、一瓶だけなら問題ないだろうと思って、確保しておいた」
「……え?」
だから、バルトロが悪い笑顔で囁いた時、スィーラーンは思わず目を瞠った。すると、彼はとたんに不安そうに眉を下げる。
「蒸留酒を嗜むくらいだから、飲める、んだろう? 祝杯といこうと、思ったんだが」
「ありがとう、ございます」
渡された杯から漂う芳香は、確かに極上の美酒のものに間違いなかった。いまだ呆然と呟いてから――気付く。
バルトロは、祖国の大使にも認めなかったズルを、彼女のために犯してくれたのだ。
「本当に。とても、嬉しいです」
「そうか、良かった」
喜びが込み上げるまま、微笑んで声を弾ませると、バルトロも安堵したように頬を緩めた。
軽く杯を掲げ合ってから、口をつける。舌から口中に広がる香りも味も芳醇で、慎みも忘れて飲み干してしまう。杯を下ろしてスィーラーンが息を吐くと、バルトロはすかさずまたなみなみと葡萄酒を注いでくれた。
「貴女を喜ばせるにはどうすれば良いか、ずっと悩んでいたんだ。贈るまでもなく、何でも手に入れてしまいそうだから」
「皇帝ではないのですし、酔っ払いのように仰らないでください」
豪快に飲み干したのは自分自身だけれど、スィーラーンは酔いによってではなく、頬が熱くなるのを感じた。
「すまない。酔わせて何かしようという魂胆ではないんだ、許して欲しい」
軽く笑いながら、バルトロも自らの杯を再び満たした。二杯目は、ふたりともが菓子を摘まみながら、じっくりと味わう。葡萄をふんだんに使った菓子は、原料を同じくする酒の肴にも合うようだった。
粉菓子を摘まみながら、バルトロの金茶の目が、ちらりとスィーラーンを窺った。
「ただ――その、貴女のことを何も知らないのはおかしいと思っていたから。一応は、夫婦なのだから」
「では……少しだけ、お話ししましょうか。私の――というか、昔のことを」
美酒と甘味によって、気が緩んだのだろうか。あるいは、そろそろ良いかもしれない、と思えたからか。杯を回し、紫水晶色の液体が渦を巻くのを見つめながら、スィーラーンは口を開いた。
「エステルのお相伴にあずかったものだと、言ったことがあるでしょう。あの人は、強い酒が好きで――男の商人と渡り合うためでもあったのでしょうが、それでも、酔うほどに舌も頭も回るし、ふらつくこともありませんでした」
こんなことを言い出すのは、だから自分も酒の味を覚えたのだ、という言い訳がひとつ。それに、ほかにもバルトロに言っておくべきことがある。
杯を握りしめるスィーラーンの指に、力が篭った。
「だから、酔って海に落ちるなんてあり得ない。ゼーナの……シェフターリの差し金だと、だからすぐに確信しました。シェフターリは、私と、あの、私にも――」
左頬を抑えると、赤く爛れた傷痕も、酒精によって熱くなっている。それはシェフターリにやられたのだ、と明かさなくては、と思うのに――まだ、できない。
「スィーラーン?」
怪訝そうな呼びかけに、軽く首を振って、スィーラーンは彼女の夫の目を間近に見つめた。今は、ごく大雑把な表現が精一杯のようだ。
「復讐心を煽れば使いやすい、と――母后様にも見透かされたものです。イストリアに与するのはエステルの遺志ですし、商人は顧客の利益と満足のために働くものですし――」
お気遣いいただかなくても、と。続けようとして、スィーラーンは気付いた。バルトロの顔が、寂しそうに翳ったことに。
(そうだ――この人はとても優しくて、甘い人……)
アスラン皇子に迫られたことも、まだ打ち明けられていない。幽閉された皇弟は、思いのほかに手強い御方だった、というだけで。
だから、皇子に触れられたくないと思ったこと、バルトロは決して妻を差し出したりしないと思ったことも、伝えられていないのだ。そう、強く思った意味と理由は――スィーラーン自身にも、よく分かっていないのだけれど。
(でも。できる限り、伝えないと……!)
杯に残っていた葡萄酒をひと息に飲み干して、スィーラーンは必死に舌を動かした。
「それでも。命じられた結婚でも、貴方で良かった、と思っている……そう言ったら、おこがましいでしょうか」
まとまらない考えの端を、どうにか捕えて言葉にする。順番も、意味が通るか、聞かされたバルトロがどう思うかも分からないまま。
「奴隷だった女、こんな傷ものが、イストリアの元首子息の妻を名乗るなんて。皇帝が手に入れ損ねた至宝、なんて――エステルが拵えた物語なのに」
自ら顔を焼いた勇気ある娘、なんていないのだ。きっと、バルトロもとうに気付いていただろう。でも、実際に口にすると彼の反応が怖くてスィーラーンは顔を伏せた――と、不意に温もりに包まれて目を瞬かせる。バルトロに、抱き寄せられたのだ。
「私にとっては、貴女はもうかけがえのない宝物だ。相手が皇帝だろうと、渡したくない。――いや、私のものでもないのだろうが……!」
大胆な振る舞いをしておいて、慌てて付け加える自信のなさが、嬉しくて――愛しくて。スィーラーンはバルトロの胸に苦笑を零した。
「……そう言ってくださる方だから、良かった、と思います」
何があったか――すべてを語らなくても、彼は思った通りの言葉をくれたのだから。




