第4話 葡萄酒の行方
帝都クスタンティニーヤが臨むハリチュ湾に、楽園から舞い降りたような美しい船が浮かんでいる。甲板に煌びやかな絹の天幕を設えて、行楽用に飾り立て、菓子も美食もふんだんに載せた船だ。
この日のために、バルトロが方々走り回って仕立てたその船は、先導する二隻の船に鎖で牽引され、さらに、後ろにももう一隻の船が護衛兼万一の時の救助要員としてつき従っている。
(母后一行は無事に海の上、か。あとは楽しんでくだされば良いが……!)
ひとまず安堵の息を吐いた彼の左右は、後宮の行列を追いかけて通りを下ってきた野次馬たちが押し合いへし合いしている。天幕が潮風を孕んで膨らむたびに、指をさしては大きな歓声を上げる彼らは、もしや寵姫の衣装の裾なりと見えないかと期待しているのだろう。
(幕の裾は留めてあるし、端は重なるようにしているから、まずあり得ないのだが……)
皇帝の所有物である女たちを見ることは誰にも許されないから、そこは慎重かつ念入りに準備した。わざわざ別の船で牽引するのも、水夫が女たちを覗き見る可能性を絶つためだ。
それでも、中の佳人の姿は見えなくても、帝都の通りを練り歩いた絹の隧道と同様、陽光を浴びて輝く絹の美しさや艶やかさ、微かに届く女たちの笑い声や楽の調べ、芳しい香りは、岸辺に鈴なりになった野次馬たちに教えるだろう。
あの天幕の中では、世にも美しく楽しく華やかな宴が繰り広げられている。日ごろは後宮の最奥に秘されているその美が、今はすぐ目の前にいるのだ、と。
「ここまでは順調で何より。……ご子息がガレー船の漕ぎ手となれば、我らが元首は悲しまれようから」
と、品の良い西方語を操る低い声が、バルトロに語りかけた。軽やかな紗の生地で仕立てた上衣を纏った声の主は、イストリアの大使だった。元首子息の提案した計画に乗った、出資者のひとりでもある。
(元首に貸しを作る機会を失って残念、の間違いでは……?)
バルトロの実家であるコンタリーニ家は、交易への投資に加えて、莫大な額の国債と不動産からの収入によって巨財を成している。イストリアの元首が、我が子だからと債権の肩代わりをするなどあり得ないが――債務管理者としてなら、この上なく信用に値するだろう。
もちろん、バルトロはガレー船送りになるつもりはない。最悪の可能性として覚悟はしていても、十分に勝算のある賭けだと思っている。――あの柘榴石は、彼に富をもたらすと言い切ってくれたからだ。
「家名に傷をつけるつもりはありません。今ごろ、後宮では妻が上手くやってくれているでしょう」
豪語するバルトロの視線の先では、絹の煌めきで虹を纏ったように見える船はハリチュ湾を進み、遠ざかっていく。大陸に細長く食い込んだ湾の奥は、風光明媚で知られる名所だ。その辺りで船を止めて、母后たちは晴天の下で菓子や美食を楽しむ予定だ。
「なるほど? 若君ご自慢の奥方には、いずれご挨拶したいものですが」
興味深げに目を瞬かせた大使は、もちろん、計画の全容を知っている。
スィーラーンが後宮で携わっているのは宴の支度だけではない。行楽で母后を誘い出した隙に、幽閉された皇弟と接触する――成功すれば、彼女はイストリアの恩人になるだろう。
「近いうちに、ぜひ。大使閣下も彼女の辣腕には目を瞠ることでしょう」
「それは楽しみですな」
イストリア貴族の例に漏れず、若いころは商人としても活躍したという大使は、好々爺の笑みで相槌を打った。若い女の商人は珍しいから、心からの言葉なのだろう。
だが、孫を見る老人のような柔らかな眼差しをしたのも一瞬のこと、百戦錬磨の商人にして外交官は、すぐに厳しい教師の顔になった。声も、鋭く硬いものに改まっている。
「さて――そろそろ、イストリア大使館にて騒ぎが起きていることでしょうな。若君のお手並み拝見といきたいところですが……?」
「承知しております。お任せください」
バルトロも、従順かつ真剣な生徒の態度で応じた。夫婦たるもの、妻ばかりに危険な役目を押し付けるわけにはいかない。彼のほうでも、相応に重要な役を受け持つことになっているのだ。
* * *
イストリア大使館は、エステル・キラの屋敷やバルトロ自身のそれと同じく、ハリチュ湾の北岸の外国人居留区にある。日ごろは西方風の装いの者たちが行き来し、西方の各国の言葉で挨拶や商談が交わされる一画に、今は帝国語の怒声と罵声で溢れている。
「強欲な異教徒め――」
「罰当たりな酔っ払いども!」
「皇帝を惑わせたのはお前らだろう!」
大使館前に興奮した帝都の民が集っている。これも常とは違って、ターバンや長衣の装いの集団は、西方風の街並みにはたいそう不釣り合いだった。
(やるべきことは、分かっています)
大使の憂いと不安に満ちた眼差しに頷きながら、バルトロも緊張に喉が干上がるのを感じていた。不特定多数の大衆の怒りというのは、海賊との対峙や、拗れた商談での恫喝や脅迫とはまた違った恐ろしさがある。
この場に詰めかけているのは、預言者の教えの特に敬虔な信者だろう。
彼らが怒り猛る理由は、明らかだ。イストリアの商船が、大量の葡萄酒を買い付けたのを聞きつけた――というか、スィーラーンが行商の顧客の女性たちを介して噂を広めさせたのだ。
その噂が真実であると裏付けるかのように、大使館および周囲のイストリア人の商館には樽が山積みになっている。後宮の女たちの宴に供する分を遥かに超えて買い付けたから、とりあえずの保管場所が必要になったのだ。
葡萄関連製品の不足は、相変わらず続いている。そんな中、異国人の異教徒が戒律に背く葡萄酒で後宮の風紀を乱した、と思われたら、まあこうなる。
(皇帝を惑わせたのは、母后と寵姫とゼーナなのだが……)
言ったところで通じないであろう弁解は胸に秘めて、バルトロは大きく息を吸った。
「何ごとだ、イストリア大使館に何の用だ!?」
とたん、殺気だった視線を一身に浴びて、頬が強張るのを感じる。年配の大使は、従者に守られてすでに安全な距離に退いた。計画の発案者かつ責任者として、この場は彼の立ち居振る舞いに委ねられた。
「その、樽だ! 酒なんかで儲けやがって!」
「海に流して――いや、皆燃やしてやる!」
西方風の建築群も、石だけで造られているわけではない。松明でも持ち出されれば普通に燃えるし、義憤は容易に略奪を正当化する。イストリアとカザール帝国が争う度に、帝都に住まう商人やその家族は命や財産を脅かされてきたものだ。
「この樽が、何だと? 開けて、呑んで見ると良い……!」
祖国の同胞の命運を預けられた、その重みを感じながら。バルトロはあえて強気に、朗らかに笑った。周囲から向けられる敵意など、気付いてもいないかのように。
あらかじめ言い含めていたマルコは、主ほどには平静ではなく、顔を引き攣らせ手を震わせていたが――それでも、ひとつの樽を開けて、中の液体を器に汲み取り、手近にいた男に押し付けた。
「や、止めろ!」
「なんてことを……!」
戒律に忠実な国教徒に酒を呑ませるのは、毒を呑ませるのと同じこと。紫色の液体を突きつけられた男は必死の形相で唇を結んだし、周囲からもひと際大きく、悲鳴と怒号が上がるが――
「酒……じゃ、ない?」
液体を、ほとんど顔面に浴びせるようにして呑ませられて、その男は呆然と呟いた。信じられない、と言いたげに、顔を拭って濡れた指先を舐める姿に、戸惑いと不審の騒めきが、怒りの声を覆っていく――それを見計らって、バルトロは再び声を上げた。
「これから酒に醸す、新鮮な葡萄の果汁だ。酢にもできるし、煮詰めれば葡萄蜜にもなる! 葡萄酒も、我らの快楽のために仕入れたのではない。すべて、酢醸造業者に卸すつもりだ!」
彼が叫ぶ間に、マルコは次々に器を取り出しては葡萄果汁で満たし、集まった者たちに渡していく。酒ではない、という理解が広まるにつれて怒号は鎮まり、バルトロの言い分にも耳が傾けられるようになっていく。
「我がイストリアも土からの実りに恵まれていない。食料品の供給の確保は死活問題――だから、帝都の苦境を見過ごせなかった。母后もご承知のこと、あの御方も民の生活を憂えていらっしゃる!」
もちろん、これは嘘寸前の誇張だ。
母后は、皇帝を呼び戻すために葡萄酒を買い占めることに同意しただけ。後宮で楽しんで余った分についてどうするかは、明確に命じられてはいなかった――だから、市井に卸しても構わないだろう、という詭弁に過ぎない。
「これは、すべて帝都の民の生活のため。そして、皇帝に反省していただくための策だ。不当に儲けようとは思っていない。酢や葡萄蜜以外にも、果実水でも、家庭で使うのでも――望む者には適正な価格で売る!」
ここまで聞いて、集まった者たちからはとうとう喜びの声が上がった。反面、バルトロの心中は深く重く悲しみに沈んでいく。断腸の思い、というやつだった。
(高く仕入れて安く売るとは……)
皇帝が求めるほどの美酒、あるいはその原料となる果汁を、酢に変えるとは。西方で広く信仰される聖霊教会では飲酒は特に禁じられていないこともあり、この策を聞いたイストリアの重鎮たちも慨嘆の溜息を漏らしたものだ。
(市場価格は……帝国側で上手く統制してくれ)
商人にあるまじき蛮行への心痛は深く、投げやりな考えも頭に過ぎる。そもそも、消費者ばかりの帝都に十分な食料を供給するのは、帝国政府の役目なのだから。それよりも――
「イストリア商人が人助けとは……」
「異教徒が何を企んでいる?」
「だが、母后のご命令だというなら――」
いまだ半信半疑といった調子の囁きは、赤字回収への微かな希望だった。
ことの次第が広まれば、民は慈悲深い母后に感謝する。自身の名声が高まれば、母后は気を良くしてイストリアに褒美をくれるだろう。
さらには、今後のイストリアの商売に良い影響が出ることも期待できる。異教徒だからと、詐欺師か盗賊に対するような警戒の目で見られることはなくなるかもしれない。
だろう、かもしれない、ばかりで確実性に欠ける、との苦言もあった。投資と投機の区別はついているのか、とはその流れで指摘されたことだ。
(母后に恩を売り、帝都の庶民から好意を買う――これはこれで、交易だろう……!)
開き直りのように考えて――バルトロは高く宣言した。
「我らのことはどうとでも。ただ、母后のご慈悲には感謝するのが良いだろう……!」
口には出さない本音は、もちろん別にある。これはすべて、彼の妻、賢く勇敢な女商人スィーラーンが描いたことだ。母后の体面、民の暮らし、イストリアの野心――すべてを叶える商談を整えた彼女にこそ、感謝と賞賛が捧げられるべきだろう。
母后に花を持たせるためにも、スィーラーンの関与を声高に喧伝することはできないのだが。だからこそ、バルトロだけでも彼女の手柄を称え、その苦労を篤くねぎらうつもりだった。




