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後宮《ハレム》の女商人は謀略を売る  作者: 悠井すみれ
第三章 二重三重の企みの底に
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第3話 勝利の美酒

 賛成しかねる、と。言葉より雄弁に目で語る静寂の者(ディルシズ)を見張りに残して、スィーラーンは鳥籠カフェスに足を踏み入れた。


ヴェール(ヤシュマク)をしていなくて良かった、のかしら)


 表向きは、宴席の準備。その裏での、幽閉された皇子との接触。

 いずれの任務も身軽なほうが良いから、今日は素顔を晒していた。宴席に侍るため、雲母と金粉を使った化粧をしてはいても、火傷の痕はどうしようもなく目立つ。


 アスラン皇子が言うまともな女、というのは、母君や寵姫たちのように美しく着飾り、機知に富んだ語らいができる者たち、ということだろう。

 鳥籠カフェスに仕える奴隷は、囚人の逃亡や陰謀を防ぐため、しばしば薬や手術によって声や思考力を奪われているというから。生来声を持たない静寂の者(ディルシズ)は、稀な例外なのだ。


 だから、皇子が他者との会話や――女との接触に飢えていたとしても、まあ無理はない。とはいえ、それこそ母后ヴァリデ・スルタンカハラマーンをはじめとした美姫に囲まれて育った御方なのだから、スィーラーンの顔を見れば良からぬ期待も霧散するだろう。


(顔を合わせて話すのは、誠意の証にもなるはず。それで信頼を得られるなら悪くないわ)


 そして、あわよくばあの紅玉ヤクートを見せてもらえると良い。わざわざ見せつけてきたということは、皇子はエステルの話を承知の上で指輪を受け継いだのかもしれないから。


 あえて楽観的に考えることで、スィーラーンは鳥籠カフェスに淀んだ空気の重さを意識しないように務めた。アスラン皇子の前にも、ここで朽ち果てた皇族は多い。彼らの怨念は、美しいタイルや壁紙でも隠しきれず、亡霊としていつまでもさ迷っているかのようだ。


 足音を吸収する絨毯が敷かれた階段を上り、窓の位置から見当をつけた部屋に近付くと、果たして人の気配がした。


皇子殿下シェフザーデ。参上いたしました」

「ああ、待っていた」


 声をかけると、スィーラーンが手を伸ばす前に扉が開いた。すると室内から眩しい光が射した。あるいは、そのように感じられる覇気が、鳥籠カフェスの陰鬱さを一掃する。


 獅子を思わせる琥珀色の目が、スィーラーンを見下ろして笑っていた。


「会いたかったぞ、柘榴石スィーラーン皇帝スルタンが手に入れ損ねた至宝の娘」


 アスラン皇子は、見目麗しい長身の青年だった。

 精悍な顔立ちを縁取る髪の色は、母后よりもなお暗い濃い褐色。それだけに、輝く色の目に宿る光がいっそう強調される。

 肌は、さすがに日光を浴びないために白いけれど、それでも不健康さはまったく感じさせない。むしろ、雪花石膏アラバスタのように染みひとつなく滑らかな肌は、彫刻めいた美しさと神々しさを醸している。

 アスラン皇子の足もとに跪き、その長衣カフタンの裾に口づけながら、スィーラーンは心中で呻いた。


(本当に、母君様によく似ておいでで……)


 目の色や、顔かたちの美しさだけの話ではない。


 アスラン皇子の堂々たる立ち姿は、明日をも知れぬ命の囚人のものでは決してなかった。幽閉の憂き目に遭っても腐らず諦めず、閉ざされた環境で出来る限り、自らを鍛えているのだろう。

 イストリアが手を差し伸べるまでもなく、この御方は鳥籠カフェスで朽ち果てる気は欠片もなかった。顧みられないのを逆手に取って、静かに闘志を燃やし牙を研いでいた。カハラマーンも、きっと同じことをしていただろう。


 皇子にとって、スィーラーンは待ち望んでいた救い手ではなく、獅子の檻に迷い込んだ子鼠こねずみだった。立ち上がった彼女を見るアスラン皇子は、母君と同じく手駒を吟味する支配者の目をしていた。


 試されている、という緊張感をぴりぴりと味わいながら、スィーラーンは慎重に口を開いた。


「私のことは――エステル・キラからお聞き及びでしたか」

「ああ。商人は投資先を分散させるものだそうだな。時に手紙で、時に宮廷手話イシャレト・ディリで、稀には直に――母上と兄上の目を盗んで、()()()、差し入れてもらった」


 母后の代理人キラであるエステルは――今のスィーラーン自身もだけど――母后の不興を買うわけにはいかない。だから、長く語らったり手紙などの証拠を残したりすることは極力控えただろう。

 にもかかわらず、アスラン皇子の口振りからは、明確に見聞きしたこと以上の情報をエステルの言動から得たのだろうと窺えた。


(この方は、イストリアにとって都合の良い皇帝スルタンになるかしら……?)


 母后ヴァリデ・スルタンカハラマーンが、次子を幽閉した()()()理由が、ようやく分かった。


 獅子の目と気質を受け継いだ皇子を殺してしまうのは、惜しい。けれどいっぽうで、飼い馴らすのが難しいのも明らかだから、下手に地位や領地や側近を与えるのも怖い。


 実の母君でさえも持て余す手強い若獅子を、恩義の鎖で縛ることができるのかどうか――胸に落ちた懸念の影は無視して、スィーラーンはにこやかに笑んだ。


「頼もしい御方と知って、まことに心強く思います。エステルに代わって、お望みの品をご用意いたします。何でもすぐに、とは参りませんが。そしてゆくゆくは、きっと貴方様に自由と帝位を――」

「何でも? 例えばそなた自身でも、か?」


 自らと、そしてイストリアの厚意を売るための口上は、揶揄うような言葉で遮られた。徒に微笑む口元とは裏腹に、金色の目に浮かぶ表情は鋭く真剣なもの――かも、しれない。


「お戯れを」


 苦笑して、スィーラーンは目を伏せて横を向こうとした。貫くような眼差しから逃れようと――でも、左頬を捕えられて、また強引に目を合わせさせられる。


「父上と兄上の手を逃れた宝石を、我がものとしてみたかった。この紅玉と同じだ、傷もの(チャトラク)もかえって縁起が良さそうだからな」


 スィーラーンの頬に掌を添えて、アスラン皇子が歌うように囁く。彼の指に輝く罅割れた紅玉の指輪は、ちょうど火傷の痕と重なるあたりに来ていた。


「私は――」


 先ほどまでは懐かしく慕わしかった紅玉の輝きが、今は()()()の白熱する炭のようで厭わしかった。


『貴女は誇り高い人間であって、商品ではない』


 バルトロの声を思い出しながら、スィーラーンは激しく首を振って皇子の手から逃れた。数歩退いて、十分な距離を取ってから、金色の目を睨みつける。


「結婚しております。母后様のご命令で、イストリアの元首ドージェの息子と!」

「イストリア人ならば、損得勘定は得意だろうに」


 擁立しようとしている皇子の歓心を買うためなら、妻を差し出すくらいするだろう。言外に告げて首を傾げたアスラン皇子は、純粋に不思議がっているようだった。

 まったく悪気なく、かつ傲慢に、またも手を伸ばしてくるのを見て、スィーラーンは目の奥で怒りの火花が散るのを見た気がした。


(彼は、そんなことはしない……!)


 大きく息を吸って一喝しようとした時――鳥籠カフェスの外から、人の声が聞こえた。宦官特有の高い声が、どうやらスィーラーンを呼んでいるらしい。


 怒りを込めた大声になるはずだった息を、素早く囁き声にまで落として。ついでに、不快も露に歪んでいたであろう顔には笑みを浮かべ直して、スィーラーンは皇子に深く礼をした。


「今日のところは、これにて失礼いたします。母后ヴァリデ・スルタン様がたもそろそろお戻りかと――すぐにまた、ご連絡を差し上げますので」

「あ、ああ……」


 母后と皇帝の不在の時とはいえ、あるいはだからこそ、女商人キラとの密会が危ういのは皇子も承知しているのだろう。戸惑うような不満げな相槌を、退出の許しと判断して、スィーラーンは身体を翻して元来た道を走り抜けた。

 鳥籠カフェスの入口では、静寂の者(ディルシズ)が焦りと怒りも露に手指をひらめかせる。


 ――宦官長に気付かれた。早く!

 ――すみません。


 スィーラーンも手の一閃で謝罪して、後宮ハレムの廊下をさらに駆ける。ほとんどの者が出払っている今日でなければ許されない無作法だった。


 そして、息を切らせて後宮ハレムの入り口近く、黒人宦官の宿舎にまで戻ると、煌びやかな盛装に身を包んだ宦官長が渋面で待っていた。


「どこへ行っていた」

「せっかくの機会ですので、散策を。……不敬はご容赦くださいませ」


 あくまでも、後宮の建物や調度を見ていたのだ、という体で、スィーラーンは目を伏せた。


「ふん……」


 呆れたような溜息を吐く宦官長の周りには、幾つもの樽が積み上がっている。母后たちが戻った後の宴席に供するための葡萄酒だ。仕入れの手配をした責任者として、スィーラーンも数量の確認に立ち会うはずだったのだ。


 黒檀の色の手で樽のひとつを撫でて、宦官長はゆっくりと言った。


「母后様がたにお出しするのに、申し分のない質なのだろうな」

「ええ、それはもう――」


 名高い美酒の味や香りや色について長々と述べようとして――スィーラーンは、宦官長の目に微かに揺れた苛立ちを読み取った。それに、そうではない、と言いたげなもどかしさも。


(ああ、そういうこと……)


 怪しい動きに目を瞑る見返りに一杯飲ませろ、という仄めかしだったのだ。すぐに気付かなかったのは迂闊なこと、アスラン皇子の突然の狼藉に、動揺してしまっていたらしい。


「いえ。くどくどと並べるよりは、ご賞味いただいたほうが早いですわね。()()()、どうぞ――」

「うむ」


 スィーラーンの目配せで、控えていた見習い宦官が素早く杯を差し出した。樽の栓を抜き、溢れんばかりになみなみと葡萄酒を注いだそれを受け取ると、宦官長はようやく満足そうに頷いた。


 宦官長は、喉を鳴らして実に美味そうに葡萄酒を飲み干した。見習い宦官も、物欲しげな目で杯を注視しているのに気付いて、スィーラーンは密かに苦笑する。


(飲酒の悪徳は、ずいぶん広く深く蔓延っているようね……?)


 あるいは、母后や皇帝を差し置いて味わう、という背徳感が、いっそう美酒の味と香りを際立たせたのかもしれないけれど。


 なぜなら、空になった杯を見習いに渡しながら、宦官長は珍しいほどの上機嫌でスィーラーンに笑いかけたから。


「皇帝陛下が楽しみにされていた味に違いない。()()()()()()()()()()()()()()()後宮ハレムにあるとはまったく不思議なこと」

「まことに。……きっと、慌てて引き返していらっしゃることでしょう」


 そう――この場に積み上がった樽には、いずれもエドレネ産の葡萄酒が詰まっている。

 外廷ビールーンが抱える飛脚ペイクと、イストリアが誇る高速のガレー船を駆使して、大至急で買い占めたものだ。


(大所帯の皇帝の行列だもの、陸路で速度を出せるはずはない。――追い抜ける成算はあると思っていたのよ)


 しかも、伝え聞いたところによると、エドレネの離宮を整備するため、行列はわざとゆっくりと進んでいるということだから話にならない。


「皇帝陛下も、反省なされば良いのです。母后様や忠実な宦官、奴隷たちを置き去りにするからこうなるのだ、と……!」


 勝ち誇るスィーラーンの笑い声は、閑散とした後宮ハレムによく響いた。

 間もなく、海での遊覧を存分に楽しんだ母后たちが後宮ハレムに凱旋する。皇帝を出し抜いてやった、という共犯意識は、女だけの華やかな宴にいっそうの興趣を添えることだろう。

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