第2話 鳥籠の中の獅子
今日の後宮は閑散としている。
日ごろは生活の気配とお喋りの声に満ちた女奴隷の中庭も、廃墟のように人気がなく、スィーラーンの足音だけがやけに高く響く。音を立てにくいなめし皮底の靴を吐いているのに、不思議なことだ。
とはいえ、人の姿がないこと自体は何の不思議でもない。
皇帝に置き去りにされた女奴隷は、一番下っ端の新入りでさえ、残らず行楽に伴われるという慈悲に浴している。宦官たちも、行列を隠す幕を支えたり宝物を披露したりと、役割を与えられている者が多い。
そんな中で、あえて留守番を命じられた者は、貧乏くじを引いた、と言えるのだろう。あるいは――目的があってあえてその役を引き受けたか、だ。
女奴隷の宿舎を過ぎたところで、スィーラーンの視界に影が落ちた。声どころか足音も立てずに現れたのは、例の沈黙の者だ。
双方、軽く目を伏せるだけの挨拶をした後、彼はある方向に首を巡らせながら顎をしゃくった。宮廷手話を使うまでもない、ついて来い、の意味だ。
通い慣れた母后の居室を通り過ぎ、スィーラーンと沈黙の者はさらに後宮の奥へと向かう。
壁を彩るタイルの、釉薬の艶やかさも繊細な模様も、後宮のほかの区域とまったく遜色ないか、それ以上に美しく鮮やかだった。けれど、なぜかゆるゆると真綿で首を絞められるような心地がしてくるのは――通路の先に待つのが、後宮の中でももっとも秘され閉ざされ、外界から隔てられた場所だと知っているから、だろう。
通路の果てにその建物が見えた時、スィーラーンは深く息を吸って、吐いた。その場の空気さえ重苦しく淀んで鉛のように思えて、意識しないと肺に入ってくれないのではないか、と錯覚してしまったのだ。
(あれが、鳥籠)
後宮の一画に相応しく、その建物も外壁は色鮮やかなタイルで彩られている。けれど、住人が見ることがない装飾に、何の意味があるのだろう。
タイルの華麗な模様は、建物の一階に窓が一切ないからこそ、壁一面にのびやかに広がっている。釉薬の輝く壁面は、けれど、美しさよりも無情さ冷酷さを感じさせる。侵入も逃亡も固く拒む、薔薇の咲き乱れる茨の檻といったところだ。
二階の窓も、堅牢な鉄格子で封印されている。後宮のほかの建物なら、優美な透かし模様の格子が、景色に興を添えてくれるのだろうに、住人が外を眺める楽しみさえ禁じているかのようだった。
その建物――鳥籠は、本来は罪を犯したり心を病んだりした皇族を幽閉するための場所だった。
それが、ここ数年は、そのいずれでもない者が、たったひとりだけ閉じ込められている。彼自身には何の非もなくても、生きて外に出る見込みが――今のところ――ない身の上は、実質的には囚人と変わらないだろう。
(絹で首を絞められるのと、どちらがマシかしら。分からないけれど……)
季節に合わない肌寒さを感じながら、スィーラーンは後宮の、ひいてはカザール帝国の歴史の暗部に想いを馳せた。
カザール帝国には、西方の諸国が眉を顰める残酷な習慣があった。新しい皇帝が即位する際、それ以外の先帝の皇子たち、すなわち、新帝のきょうだいたちは、ことごとく死を賜る、というものだ。
あった、と過去形で語るのは、今上の皇帝ジャフェルの即位に対しては、その悪習はとりあえずは行われなかったからだ。
国教徒の裁判なしでの処刑は、本来は預言者の教えに反する。皇帝その人が尊い教えに背くのはいかがなものか――と、母后カハラマーンが主張したのだ。
(禁酒の戒律は躊躇いなく破らせた御方なのに、おかしなこと……)
もちろん、母后の言行の矛盾を面と向かって指摘する蛮勇の持主はいない。それに、カハラマーンの主張の理由を察することができない者も。
ジャフェルが即位した時、生き残っていた皇子はたったひとりしかいなかった。
その名はアスラン皇子。生母は、ほかならぬカハラマーン。ひとりの女に寵と権力が集中し過ぎるのを防ぐため、ひとりの皇子しか儲けさせないという慣例を押し切って生まれた、ふたり目の皇子。
その御方こそが、鳥籠の現在の唯一の囚人。生母の愛情によってというよりは、兄に不測の事態が起きた時の予備として、辛うじて生きることを許されているのだ。
(母后様は、皇帝の教育を間違えたかも、と仰っていた……だから、すぐに用済みと切り捨てられることはないと思うけど――)
でも、適当な女奴隷に孫を生ませるほうが話が早いと考えるかもしれない。そうでなくても、皇帝ジャフェルが酩酊の狭間にふと不安に駆られるかもしれない。血を分けた弟が自身の地位を脅かすかも、と。
母と兄の気まぐれによって、いつ命を奪われるか知れない身のアスラン皇子は、さぞ不安な日々を送っていることだろう。
(その御方に、庇護を申し出れば。帝位に就けて差し上げれば。深く感謝してくださるでしょう。たとえ異教徒の国だとしても、いかなる便宜も図ってくれるはず……!)
後宮の奥に幽閉された皇子と接触する。今上の皇帝を廃位に追い込み、自国に深い恩義を負う新帝を擁立する。
それこそが、イストリアの本当の目的だ。母后と誼を通じるのは、その第一歩でしかない。
その本当の目的を叶えるためにこそ、スィーラーンは後宮ががら空きになる大がかりな行楽を提案したし、バルトロは危険を承知で乗ってくれた。
(まともな商人は、戦争を嫌うものよ。国であっても同じこと。帝国とイストリアの間に、束の間でも同盟が結ばれるのを、エステルも望んだはず)
夫が寄せてくれた信頼を思えば。そして、養母にして師の懐かしい眼差しを思い出せば、スィーラーンの呼吸も鼓動も収まった。
肚を括ったと、傍目にも見えたのだろうか、静寂の者が、今度こそ宮廷手話で言う。影の色の手指が舞う様は、鴉が羽ばたくようにも見えた。
――そこの窓辺にいらっしゃる。声は届くから手短にせよ。
静寂の者示した窓に、確かに人影らしきものが佇んでいるのを見て取って、スィーラーンは頷き、できるだけ壁際に寄った。
できるだけ、密やかに。そして同時に明瞭に。繰り返すことになっては時間を浪費し、危険を増大させることになるから。
ふたつの要求の両方を満たす、ぎりぎりの声量を見極めて、スィーラーンはそっと喉を震わせた。
「皇子殿下。アスラン様。先日の贈り物はご覧いただけたかと存じます。イストリアの遣いでございます」
宦官への賄賂の体で、スィーラーンは皇子への密書を静寂の者に託していた。
西方の草花を、偶像崇拝の罪を犯さぬように帝国の様式を模して描いた装飾本は、見た目に楽しく美しく物珍しい。仮に鳥籠の住人の手に渡ったのが知られたとしても、宦官がその身の上を哀れんで無聊を慰めるために差し入れたのだ、と言い訳できるだろう。……表紙の裏に糊付けされた、密書の存在さえ見つからなければ。
(喜ばれるか、怪しまれるか――とにかく、今後の伝言係として認めていただかなくては)
喜ぶあまりに騒がれたり、すぐに鳥籠から出せと迫ったりされても困る。かといって、異教徒の使いだから女だからと、侮られたり疑われたりも不毛なことだ。
アスラン皇子の反応をいくつか予想して、そのいずれにも対応すべく、スィーラーンは説得の言葉を用意していたのだけれど――
「確かに見た。よく参った」
窓から降ってきた声は意外にも穏やかで冷静で――そして威厳に満ちていた。
(そうだ。この方はカハラマーン様の御子……)
檻に閉じ込められてなお、矜持を失わない若獅子を思い浮かべて、スィーラーンは背筋を正した。この調子なら、話は早そうだ。
「……イストリアの元老院は、殿下のお立場にいたく心を痛めております。私は、母后様の女商人のスィーラーン。今後も後宮に出入りしますゆえ、イストリアと殿下の仲介を務めます。ですので――」
「入ってくれるか。女商人殿と直接会いたい。まともな女を見るのは久しぶりだ」
密書のやり取りには引き続き静寂の者を使う、と続けたかったのに。囚人には似つかわしくない、王者めいた覇気を漂わせる声が、スィーラーンの口上を遮った。
「殿下……」
突然に無理を命じるのも母君に似ている、と。どこか感心しながらも、宥める言葉を紡ごうとして――スィーラーンは息を呑んだ。
鉄格子の隙間から招く皇子の手の中指に、紅玉の指輪が光っていた。血のような鮮烈の赤に、星を抱いて――そして、無残に罅割れた。
エステルが与えた逸話によって、先帝に買い上げられた傷ものは、今はアスラン皇子に受け継がれていたのだ。




