第1話 虹色の竜
夏が近づく、その日――帝都クスタンティニーヤは、とある噂で賑わっていた。
干した葡萄、酢に葡萄蜜、葡萄関連商品の不足に、来たる小麦の収穫と入荷についても不安が囁かれる中、行幸に出た皇帝に見捨てられたかのような不満も澱のように溜まる中で、その噂は珍しくも久方ぶりに好奇と興味を持って民に受け入れられた。
すなわち――母后が、後宮の女たちを引き連れて行楽を行う、と。
「でも、出かけるのは宮殿の奥からだろう。市街は通らないんじゃないか?」
「いや、親衛隊が露店に立ち退きを命じていたと――だから、正門から出るようだ」
「といっても、母后行列でもこの前の行幸でも、女はどうせ輿の中だしなあ」
「宦官に固められた輿だけ見て何になる」
皇帝の女たちが主以外の男に姿を見せてはならないことは、誰もが承知している。半ば公然の秘密となっている、皇帝の飲酒の悪徳よりもなお、女の慎みのなさは罪深い。
だから、後宮の美姫の姿を垣間見ることができるなど、誰も期待してはいない。けれどいっぽうで、常は隠されている女たちの影だけでも窺うことができれば、と思えば知らぬ顔で日常を営むこともできなくて――宮殿から市街へと通じる大通りは、物見高い野次馬で埋まっていた。
「来るぞ」
白亜の正門が開いた時、誰かが囁き、ごくりと唾を呑む音が、いつもは荘厳な静寂に包まれる宮殿の前庭に響いた。
そして、現れたのは――虹色の蛇、あるいは竜だった。
宦官が捧げ持つ柱から、絹の垂れ幕が下がる。一定の間隔で並んだ柱に支えられて、さらに上部では針金を通して固定されて、光輝く艶やかな絹が切れ目なくどこまでも続く――その様が、通りをゆっくりと進む蛇か竜のように見えるのだ。
竜の胎内には、何台もの輿や馬車が呑まれている。外側の絹の幕と同じ速さで進むそれらに乗るのは、もちろん、母后を始めとした後宮の女たちだろう。
彼女たちの笑い声の響き方、しゃらしゃらと鳴る装飾品の音、強くはっきりと漂って野次馬を酔わせる、甘い香や白粉の匂いが教えている。
女たちの輿は紗に閉ざされていないし、馬車の窓も開け放たれている。きっと、ヴェールを身に着けてもいない。宦官たちが支える絹の幕で、市井の民と隔てられているだけだ。
美姫たちと同じ空気を堪能しようと野次馬はしきりに深呼吸し、空気を揺らした。同時に、感嘆の溜息と歓声がそこここで響く。
「すごい……」
「さすが、母后!」
裕福な庶民も、奥庭の女たちを外出させる際に、門から馬車までの間に絹を垂らした隧道を仮に作ることはある。とはいえ、それはほんの短い距離をごまかすためのものだ。
このように、長い行列のすべてを覆い隠すだけの幅と長さの絹、それも、色も織も刺繍も様々に贅を凝らして取り揃えるために、どれだけの金貨を使ったのだろう。
金糸銀糸を織り込んだセラーセル。柔らかな風合いの天鵞絨。木目状のモアレ模様を持つゲズィ織。
緋色、青、緑、黄、色もとりどりに濃淡も鮮やかに。刺繍を施したものもあれば、異なる生地を縫い付けて模様を描いたものもある。帝国風の様式化された文様に、中には西方から伝わったより細かで写実的な草花を表したものも。名高いペルスの織物も、当然のように合間合間に挟まれて。
世界の織と刺繍の技法の粋を集めたかのような絹の竜が通り過ぎた後も、さらなる絢爛な輝きが続く。行楽で赴いた先で女たちが使う道具を盆に載せた、宦官たちの行列だ。
皇帝の行幸の列が、外廷と内廷の縮図を見せるためのものなら、これは後宮の奢侈を庶民に垣間見せていた。
東方から渡った、空と同じ色の青磁の壺。もっとも緻密な装飾模様よりもなお細かな模様を描き入れた染付の皿。金や銀、水晶でできた水差しや杯は、さらに宝石や真珠を嵌め込まれて輝いている。ほんの小さなスプーンでさえ、宝石を嵌め込まれていないものはない。
象牙や螺鈿細工の香炉は高価な麝香や白檀の香りを立ち上らせ、宦官が手にする孔雀の羽根の扇は、その香りを野次馬のほうへと漂わせる。
皿に山と積まれた果物に見えるのは、実は目を瞠るほど大粒の宝石だ。
葡萄のような紫水晶、林檎のような紅玉。剥きたての茘枝を思わせる蛋白石に、丸く磨かれた珊瑚は桜桃にも見える。
もちろん、宦官たちも、披露する宝物に負けず劣らず絢爛な衣装を与えられている。そのあまりの眩さに、たとえ武装した親衛隊の護衛がなくとも、誰も手を出そうとは思えないだろう。
だから――帝都の民の視線を一身に集めながら、虹色の竜は堂々と通り過ぎていった。
* * *
(好評のようで、良かった……!)
美姫を呑み込んだ絹の竜――母后の行楽の行列を、人影のまばらな裏通りから見守りながら。バルトロはひとまず安堵の息を吐いた。
絹の隧道も、宝飾や磁器を見せる演出も、スィーラーンの発案だった。庶民は、後宮の贅を垣間見るだけで、勝手にその住人たちの姿を思い浮かべてくれるだろう、と。
『時に、実際に目にしたものよりも想像のほうが美しいこともあるでしょうから。帝国の男はヴェールの下に美姫を思い描くのに慣れていますし――民には美しい夢を見てもらいましょう』
彼女の狙い通り、帝都の民は羨望と憧憬の目で行列を見つめ、幕の向こうの美姫たちの気配に夢中になっているようだ。母后の矜持も寵姫への対抗心も、これで満たされただろうか。
(準備に奔走した甲斐があった……!)
何しろ、スィーラーンの発案を受けて動き始めてから、かれこれ一ヶ月経っている。
大量の高級生地や、磁器や宝石といった奢侈品は、イストリアの重鎮から借りたり買い受けたりしたものだ。すでに買い手が決まっていたものについて、特別に納品を待ってもらうこともあった。
当然のことながら、借りた品については保証金を求められたし、買ったものについてはバルトロが抱える在庫になる。母后の行列でお披露目したことで値が上がる可能性はそこそこ高いが、傷をつけて大幅に価値を損ねる可能性もあるから胃と心臓が痛い。
品を貸した者たちも、さぞ気が気ではないだろう。昨日、最後の打ち合わせをした段階では、弁済しきれない損害が出たらガレー船の漕ぎ手をして返す、の件について念を押された。
と、馬を連れて着き従っていたマルコが、そっと呼びかけてきた。
「若様。早く港へ」
「ああ。先回りしておかないとな」
軽く頷いて、バルトロは騎乗した。港には、隧道と同じ要領で幕を巡らせた船を用意してある。
女たちを乗せた後は、茶菓を供しつつハリチュ湾を回遊する予定だ。空と海の青、波の揺れと潮の香りを、楽しんでもらえると良い。
(ここまでは、上手くいっている……後は、スィーラーンのほうの首尾だが――)
馬を走らせ始める前に、バルトロは高台の宮殿を見上げた。行楽が終わった後は、後宮でも饗宴が催される。母后から女たちへの慰労という名目で贈られる料理、その材料の仕入れや相応しい食器の手配も女商人の仕事だから、スィーラーンは行列には同行せずに後宮に残って準備している。……ということになっている。
イストリア人としては、彼女の任務の成功を願うべきなのだろうが――バルトロが心に念じるのは、少し違うことだった。
(どうか無事で。貴女とはもっと話がしたいのだから)
形式上は妻である女性について、ほとんど何も知らないことには気付いている。エステル・キラと出会う前のこと、頬の傷痕の本当のところ。それらを打ち明けてもらうには、過ごした時間は短すぎ、築いた信頼は小さすぎることも。
(もっと一緒にいることができれば、あるいは……?)
取引相手の何もかもを知りたい、などと思うのは立ち入り過ぎたことだろう。
スィーラーンに限ってそのようなことを考えてしまうのは――頬の傷を押さえて硬直していた時の彼女の顔が、あまりにも心細く見えたからだろうか。だから、支えてあげたい、と――それもまた、勝手な思いでしかないのだろうが。
自分自身の感情の出所が分からないまま、バルトロは港を目指して馬を駆けさせた。




