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後宮《ハレム》の女商人は謀略を売る  作者: 悠井すみれ
第一章 女奴隷と異国の貴公子の出会い
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第2話 柘榴石の娘

 そして向かった厨房では、奴隷のサルマがやけに楽しそうにスィーラーンに話しかけてきた。


「あんまりご主人様を怒らせないほうが良いんじゃない?」


 アダムの怒鳴り声は、厨房にまで届いていたらしい。客人の耳に入ったら、家内の統制を疑われるだろうに、迂闊なことだ。


「そう?」


 珈琲カフヴェを淹れるための銅のポット(ジェズベ)を出しながら、スィーラーンは冷たく相槌を打った。火にかけるのではなく、熱した砂で湯を沸かすのがカザール式だ。屋敷の外観は西方風でも、各国から訪れる客をもてなすため、厨房には様々な様式の器具が揃っている。


『火は使えないままでも良い。でも、あんたの腕は良いんだから珈琲カフヴェは淹れておくれ。酒を呑まない国教徒との商談では、珈琲カフヴェの味が大事だからね』


 エステルの声を思い出せば、ヴェール(ヤシュマク)越しに伝わる熱は、スィーラーンの胸に恐怖よりも温もりをもたらした。……懐かしく愛しい記憶は、すぐにサルマの不躾な声で踏み躙られたけれど。


「だって、傷もの(チャトラク)でも良いって男はよほどの物好きか貧乏人よ。男の奴隷が買えない代わりに力仕事もさせるとか、穴があれば何でも良いとか――」


 品のないことを嬉々として語るこの女は、スィーラーンが厨房の下働きに落ちたのが嬉しくて仕方ないのだ。傷ものふぜいが、女主人の隣に部屋を与えられ、絹の服を纏い商売の場にも連れられて、家族同然の扱いをされていたのを、ずっと妬み羨み、憎んでいたに違いない。


「あんたはもう後宮ハレムとは無縁のただの奴隷。エステル・キラはもういないんだから、新しいご主人様に必死に媚びを売らないと……!」


 案じて忠告する振りで、サルマは生意気な小娘の心を抉ろうとしていた。自分と同じように奴隷の身に甘んじて、俯いて主人の顔色を窺い、雑用に心身をすり減らす生涯を送らすのだと、つきつけることで。


 かつてのスィーラーンなら、サルマの思惑通りにその未来図に絶望していたかもしれない。でも――


「媚びる必要なんてないわ。乞うてでも私を求める買い手――そろそろ現れると思うから」


 泡立ち始めた珈琲カフヴェから目を上げて、スィーラーンは笑った、ヴェール(ヤシュマク)越しでも分かるくらいに、はっきりと。


「エステル・キラが何も考えてなかったはずがないもの。手塩にかけた商品を売る相手は、時間をかけて見極めるものよ。私は、彼女が遺した機会を見逃さなければ良いだけ」


 彼女が慕ったエステル・キラなら、自身の死をも視野に入れることができるはず。ならば、手は打ってくれただろう。油断できない弔問客の中に、彼女を妥当な値段で()()()くれる者が必ずいるはずだ。


 その証拠に、客間のほうからは人が言い争う気配が伝わってくる。アダムが歓迎しない客は、スィーラーンには良い知らせをもたらしてくれるだろうか。


      * * *


 スィーラーンは、珈琲カフヴェを淹れた磁器を螺鈿の盆に載せて客間に入った。


 エステルが集めた東西の調度や敷物や照明に彩られた空間は、女主人の趣味と財力と人脈を誇示するもの。スィーラーンが記憶する限り、初めて足を踏み入れたはずのその青年は、けれど物珍しげに視線を動かすこともなく、端然と席を占めている。贅にも異国の品にも慣れた風情は、恐らく――


(イストリアの商人。それも、裕福な貴族の出ね)


 イストリアも、ゼーナと同じく商人の国だ。国政に携わる貴族も、特に若いころは自ら海に出て交易に携わることで名高い。

 青年の赤金色の髪は、生来のものではなく、太陽と潮風によって脱色したものに見えた。黒貂の毛皮をあしらった上着の仕立てからして、名家の子息が異国で知見を広げている途上、といったところだろうか。


(イストリアとゼーナは犬猿の仲。アクデニズ海交易の主導権を巡って争う宿敵同士……)


 心の中で唱えながら、スィーラーンはあえてゆっくりと珈琲を供した。青年も、対するアダムも、やはり表情が硬い。退出する前に、少しでも話を盗み聞きしておきたかった。


「頼んでいた柘榴石(グラナート)を引き取りに来た、と言っている。話が分かる者はいないのか」


 恐らくは身分の高さのゆえだろう、奴隷女スィーラーンには見向きもせずに、青年は苛立ちに尖った声を上げた。


「急に仰られましてもな。聞けば、数量も値段も決まっていないとか。何をどれだけ持っていくおつもりで?」


 対するアダムの態度も、硬い。客人を泥棒呼ばわりしたも同然のもの言いは、攻撃的ですらあるかもしれない。


(ゼーナの手前、イストリアとのやり取りは避けたいのかもしれないけど――)


 それなら、ことを荒立てるのは悪手だ。上手いこと丸め込んで接触は保ち、得た情報を横流しする、までやればゼーナも喜ぶだろうに。


「彼女の署名入りの書簡は、ここに。息子なら見分けがつくだろう」

「そう言われましても――」


 青年が突き出した書簡から目を背け、男の使用人を呼び出す機を窺っているらしいアダムは、やはり小物だし、目端も利かない。


(柘榴石と言われて、何も気付かないなんて……!)


 エステルの気性と商才を受け継いだのは、ほかならぬスィーラーンだ。だから、目の前に転がった商機を、躊躇いなく掴み取れる。


「その柘榴石とは、私のことですね」


 素早く、けれど音を立てずに盆を置くと、スィーラーンは青年の前に身を乗り出した。奴隷は影のように侍るのが常だかから、突然現れたように感じたのだろう、彼は軽く瞠目した。

 金を帯びた茶色――海を輝かせる太陽を思わせる彼の目と見つめ合う彼女のそれは、深い森の緑を湛えて彼の意識を吸い寄せるはず。本来は許されない非礼だとしても、商売に長けたイストリア人なら目が離せないと思ってくれないだろうか。


柘榴石スィーラーンと申します。奴隷の――エステル・キラには、とても良くしていただきました。あの方は、私を貴方様に譲ろうとお考えだったに違いありません」

「緑の柘榴石とは、珍しいな……?」


 虚を衝かれながらも、どうにか、といった様子で絞り出した青年に、スィーラーンはヴェール(ヤシュマク)の陰で微笑んだ。彼は、柘榴石を意味する古い雅語を知っているのだ。


(この人なら、まあ、良いわ……!)


 買い手を吟味する贅沢は、今の彼女には許されない。スィーラーンは、彼に自身を売りつけることを決めた。


「珍しいだけではありません。私は、この両目と同じ大きさの宝石よりも、ずっとずっと大きな富を貴方にもたらしましょう」


 目を逸らさぬまま、笑みを深める。青年が見ることができるのは彼女の双眸くらいだけれど、だからこそ意志の強さ、機知の煌めきに気付いてもらえると信じたい。否、彼に伝えなければ。


「私を手に入れなさいませ。私こそが、エステル・キラのもっとも価値ある遺産なのですから……!」


 乞うというよりは迫るように、スィーラーンは高らかに告げた。そして、顔と髪を覆っていたヴェール(ヤシュマク)を取り去る。


()()が……()()も、柘榴石スィーラーン? ……悪趣味だ」


 彼女の顔を間近に見て、青年は頬を引き攣らせて、整った眉を顰めて呻いた。無理もない。


 スィーラーンの左頬は、無残な火傷に覆われている。

 白い肌に映える赤く爛れた傷痕は、まさに爆ぜた柘榴だった。彼女の双眸の深い緑色が美しく、無事な右半面が整っているほど、その傷は痛々しく恐ろしく見えるはず。


「そうでしょうか? 私は気に入っております」


 金茶の目に宿った少しの嫌悪と哀れみを、けれどスィーラーンは笑って受け流す。左頬の傷痕のせいで、自然に見える笑みを浮かべるのは少し苦労するのだけれど――エステルの指導のもと、練習済みだ。


(あの紅玉ヤクートは、今も皇帝スルタンの指を飾っているのかしら? それとも、代替わりの時に墓所に収められた……?)


 エステルに買われた日に見せられた、ひび割れた紅玉の鮮烈な赤が思い出された。

 明らかな瑕疵も、隠さず披露した上で相応しい逸話を与えれば、かえって価値を高めることがある――今こそ、後宮の女商人の教えを実践する時だ。


「昔語りをいたしましょう。大それた野心を抱いた女奴隷ジャーリエの話です」


 彼女の声の響きは艶を増して、客間の空気の色も気配も変えただろう。珈琲カフヴェに取って代わって、にわかに麝香じゃこうの香りが漂い始めるかのような。


 客間を彩る古今東西の珍品さえも聴衆にして、スィーラーンは彼女自身の由来を語り始めた。

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