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空の下、天幕の内と外で

 緑豊かな平原に、夕日が沈んでいく。色づき始めた麦の穂が落日に染まり、燃える海のようだった。

 帝都クスタンティニーヤを発ってもう十日ほど、皇帝スルタンの行幸の行列アラユは、今日はこの平原のただ中で野営する。繋がれた馬がそこここで飼い葉をみ、煮炊きの煙が細く高く空に上がっていた。


 カザール帝国の領土の広大な広がりは、ダンテの目には新鮮に映った。彼の祖国のゼーナは、海のきわまで山が迫る狭隘きょうあいな立地だし、彼は人生の多くの時間を各国の宮廷で過ごして来たから。

 とはいえ、ゼーナも平地の植民地を領有しているし、何より、より雄大な海の眺めを知っているから、羨ましいとは思わない。

 ただ、海上と同じくらいに代わり映えのない光景を日がな一日見せられ続ける、ごくのんびりとした行列の歩み方は、多少、苦痛ではあった。


 ダンテは、立ち並ぶ天幕の群れの間を進む。

 兵士たちの簡素なもの、刺繍を施した高官や将軍のもの――行列の中心に近づくにつれて、天幕の素材はより上質に、刺繍は金糸銀糸を使ったより豪奢で緻密なものになっていく。中でも、珊瑚色の緞帳に、真珠まで使って細やかな花模様を描いた天幕の前で、彼は足を止めた。


 赤から深い藍色に染まり始めた空の下、天幕の中に点された灯りが、中にいる佳人の影を仄かに浮かび上がらせる。日ごろは後宮ハレムの奥深くに隠されている皇帝スルタン寵姫イクバル――シェフターリが、緞帳一枚を隔てたところにいるのだ。


 天幕の入り口に、女奴隷が用意した腰掛に座りながら、ダンテは西方語で皇帝の寵姫に語りかけた。


「アダムはエドレネに到着したそうです。こちらがゆっくりと進む間に、離宮を整えておくように命じました」

「そう」


 天幕の中から聞こえた可憐な声は、あからさまに不機嫌さを漂わせていた。


(鳥籠育ちに、長旅は辛いのか。それとも、媚びを売るのに飽いたのか……?)


 皇帝の行列の歩みが蟻のように遅いのは、外廷ビールーン内廷エンデルンの半分を引き連れての大所帯だからだけではない。皇帝に甘え倒して何かと休憩を挟み村ごとに見物をさせ、出来る限り足止めするよう、シェフターリに依頼しているからだ。

 皇帝を迎える離宮が荒れ果てていては、すぐに帰ると言い出しかねない。準備をするための時間稼ぎというわけだった。


「お疲れのご様子ですね。おいたわしいことです」


 カザール帝国の皇帝スルタンに絶大な影響力を持つに至ったこの女は、今のゼーナにとっては下手な貴族よりも重要な存在だ。機嫌良くをしてもらうため、ダンテは甘い声で追従の言葉を並べる。


「エドレネでは、帝都の宮殿サライにもまったく遜色のない調度と美食を用意させております。母后ヴァリデ・スルタンの目がない分、シェフターリ様にも羽を伸ばしていただけるかと。滞在中に懐妊に至れば、寵愛もますます――」

「美食だけでは駄目。エドレネに名高い葡萄酒を買い占めて」


 けれど、彼の長広舌は、素っ気なく遮られた。


 シェフターリの声はその名の通り甘く、滴る果汁が舌を蕩かすように、聞く者の耳を酔わせる響きがあった。姿を見ずとも、声と同じく可憐で甘く柔らかく、なのだろうと容易に想像がつく。書簡だけでやり取りをしていたころから、したたかで狡猾な女だと重々察していたから、ダンテはしたいとは思わなかったが。


「――失礼いたしました。葡萄酒も、必ず。皇帝ともなると、預言者の教えの戒律からは自由なのでしたね……?」

「ええ。ゼーナの大使ともあろう者が、常識に囚われないでちょうだい。酔わせたほうが何かとやりやすいに決まっているでしょ」


 小夜啼鳥ナイチンゲールの囀りのような悪態を、ダンテは黙ってやり過ごした。 顔を合わせていないから、傾聴した振りをするのは容易いことだ。

 食事の準備や馬車の整備などで行き来する奴隷や宦官の中には、不思議そうに流し目をくれる者もいるが、構わない。西方語を解する者は多くないし、寵姫が何かと母国に頼っているのは周知の事実だ。


 シェフターリのほうも鬱憤をぶつけただけだったのだろう、小さな溜息が天幕の中の灯りを揺らしたかと思うと、矛先は別のところに向けられた。


「アダムって、スィーラーンをイストリアの元首ドージェの息子に渡してしまった男でしょう? 本当に大丈夫なの?」

「エステル・キラが目にかけていた女奴隷のことですね。それは――正直言って、失態だとは存じますが。ですが、今回は外交も後宮ハレムの派閥も絡まない、単純な物資の調達なのですから、さすがに務まるかと」


 エステル・キラの息子に、母親ほどの商才がないようなのは誤算ではあった。

 ゼーナの動きを察知し、後宮ハレムの勢力の均衡のために素早くイストリアと接触しようとしていたあの女商人は手強かった。だから始末せざるを得なかったし、その息子も早々に取り込まなければ、と考えたのだが。


(だがまあ、エステル・キラが遺した財産と人脈で協力してもらえるなら、それはそれで)


 扱いやすいなら無能でも良し、というのがダンテの結論だった。


「そう。……スィーラーンがエステル・キラのすべてを受け継ぐよりはまだマシだったとは思うけど、ね」


 とりあえずは頷きつつ、シェフターリの相槌はやけに苦々しげだった。


「あの女性のこと――やけにお気に懸けられますね」


 エステル・キラの商売を近くで見聞きした者が、今はイストリアと通じているのだから、懸念材料であることは間違いない。だが、帝都を発つ際の一幕からは、あの傷物の元奴隷と皇帝の寵姫の間には、何らかの経緯いきさつがあるように見えた。


 要らぬ詮索と叱責されるかも、とも思ったのだが――女らしく、他者に不安や愚痴をこぼしたい気分だったのか、シェフターリはあっさりと口を割った。


「メフメト・アーアスの屋敷で一緒だったわ。私と彼女で対にして、後宮ハレムに献上する予定だったそうよ」


 メフメト・アーアスは、シェフターリを後宮ハレムに献上した高官だ。なお、今は失脚している。たまたま寵姫候補を奴隷として買い上げたからといって、いつまでも恩人面されていては困る、というのがシェフターリ本人とゼーナの一致した見解だった。


 それは、ともかく――


この御方(シェフターリ)と同等の教育を受けた女奴隷……元は、容姿も同等だったのだろうな)


 それが今はあの火傷で、しかも、寵姫の輿こしを睨め上げる目の、あの鋭さ険しさだった。色々と察して、ダンテは呟いた。


「さすがのお手並みですね」

「宦官が火鉢を倒したところに、彼女が勝手に転んだのよ」

「そうでしょうとも」


 建前の説明が、まったく信じられていないのを悟ったのだろう、シェフターリの甘い声は苛立ちに尖った。


「……だって、スィーラーンってば綺麗な上に頭も良いんだもの。皇帝スルタンにも母后ヴァリデ・スルタンにも、簡単に取り入ったに決まってる……!」


 軽やかな衣擦れの音がして、中の寵姫が天幕の入り口に寄ったのを伝えてきた。あの火傷の女は、シェフターリをして居ても立っても居られなくさせるほどの強者らしい。


「スィーラーンは、後宮ハレムのことを()分かってる。母后ヴァリデ・スルタンにあの子がつけば、後宮に残った女奴隷と宦官は掌握されるものと思いなさい。だから、決して失敗できないと」

「無論、承知しております」

「本当かしらね」


 疑わしげに苛立たしげに吐き捨てたシェフターリは、いったいどんな顔をしていたのだろう。見たこともない女ではあるが――剣呑に目を細め、唇を尖らせた表情は、甘く微笑んでいるよりも可愛げがあるのではないか、という気がした。


 不躾な想像は気取らせぬよう、ダンテも相手には見えない笑みを浮かべた。


「とはいえ、母后がどう足掻こうとも皇帝スルタンはこちらにおりますから。ことを荒立てれば反逆になるのはあちらのほう、たとえ親衛隊イェニチェリを動かしたとしても、かえってゼーナにとっては好機になるでしょう」


 武力をもって皇帝スルタンを従わせようとするなど、紛う方なき内乱だ。()()()()ゼーナとしては、信仰の違いを越えて正統な君主の側に立って戦うこと、やぶさかではない。

 無論、危機を乗り越えた暁には、助力の見返りとして様々な恩恵を要求できるだろう。関税上での優遇に、帝国内の各都市での居留区の確保。交易の拠点となる港の割譲に、宿敵イストリアの商船の締め出しに。――夢が、広がる。


「そうね。そうだと良いけど」

「そうなるように、引き続きご協力を賜りますよう。今宵も、皇帝スルタンが満足して眠りに就くように」


 言い終えて立ち上がるころには、頭上には満天の星が広がっていた。


 間もなく、皇帝スルタンは寵姫を彼の天幕に召すのだろう。そうして、歓楽を尽くした後は深い眠りに落ちて――朝になれば、行列はまた進み始める。

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