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後宮《ハレム》の女商人は謀略を売る  作者: 悠井すみれ
第二章 夫婦の距離感と皇帝の行幸の行方
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第8話 奴隷ではない

 言われたことの意味を測りかねて、瞬きすること数度。スィーラーンは、ようやく答えを捻り出した。相手の不興を解けるような、恐らくは無難な相槌を。


「そうですね……後宮の女商人キラです。バルトロ、貴方のお陰で」

「そういうことではなく……」


 けれど、バルトロは呻いて目を瞑った。その間も彼の手はスィーラーンのそれを握りしめたままで、振り解いて良いのかどうかも分からない。


 相変わらず、書斎に入室してくれる者もいないから、スィーラーンは居心地悪くバルトロが考えを纏めるのを待った。知っているようでよく知らない青年の、匂いや温もりや息遣いが、やけに近い。


 やがて――目を開けたバルトロは、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「貴女は、強く賢く勇敢だ。皇帝スルタンが手に入れ損ねた至宝と呼ぶに相応しい。……それだけの、価値がある」

「ありがとう、ございます……?」


 間近に、そして一語一語を噛んで含めるような丁寧さで言い聞かされれば、聞き間違いのしようはない。それでもなお、彼の意図は測りがたくて、スィーラーンは曖昧に相槌を打った。


「イストリアの商人も、奴隷を扱うことはある。容姿も知性も能力も、値段がつけられることがあるのも、分かる。優れた奴隷は、平凡な自由人よりも尊ばれる場合があることも」

「ええ……」

「商人は、商品だけでなく自らをも飾り立てる必要があることも、分かるし――だから、埒もないことを言おうとしているとは思うのだが」


 手は離さず、視線も逸らさず、バルトロはやはりよく分からないことを続けた。


(気安く触れたのを怒っているわけでは、ないの……?)


 勝手にマッサージ(マセール)を始めたことが、気に障ったのかと思ったのだけれど。でも、怒っていないのだとしたら、濃い赤金色の眉がきつく寄せられているのが不可解だ。


 スィーラーンの顔には、疑問と戸惑いが色濃く浮かんでいたことだろう。バルトロが小さく零した溜息に篭っていたのは、呆れなのか――あるいは、哀れみだったかもしれない。


「貴女は誇り高い人間であって、商品ではない。私は、貴女の価値をよく知り、感謝し、信頼している。奴隷が主に仕えるようにしてまで、価値を示す必要は……ない」


 言われたことを呑み込むまでに、スィーラーンは何度か深呼吸しなければならなかった。その間に、かつて自ら口にしたことを胸の内で繰り返し、噛み締める。


 自ら美貌を損ねて、後宮ハレムから逃れた賢く勇敢な娘。そう、皇帝スルタンが手に入れ損ねた至宝。


 エステルが与えてくれたその逸話は、ずっとスィーラーンの誇りであり支えだった。その肩書に相応しい価値を持つべく、知識も話術も磨いてきた。バルトロと出会い、彼に認められることができたのは、報われた、と言えるだろう。


(……あれ?)


 でも。今、ようやく気付いた。自らに高値がつくことを誇るのは、奴隷の発想ではなかったか。


「私は、奴隷ではない……?」


 恐る恐る、確かめるように言い直すと、バルトロは大きく頷いた。彼の意を汲むことができたことに安堵したのも一瞬のこと、すぐに嫌悪がスィーラーンの胸を黒く染める。人の顔色を見て一喜一憂するのも、まさに奴隷がすることだ。


 そして――さらに次の瞬間には、スィーラーンは左頬を押さえて俯いていた。恐ろしいことに気付いてしまったのだ。


 エステルは、の値を上げるためにこそ逸話をこしらえてくれた。自分が奴隷ではな《・》い《・》と認めるなら、その逸話に拠って立つことはもはやできない――かもしれない。


(私は強くも賢くもない。シェフターリにしてやられた、弱く愚かな娘に過ぎない……)


 バルトロは、国の機密をスィーラーンに明かしてくれた。彼の誠実さに応えるなら、彼女のほうでもすべてを打ち明けなくては。たとえそれで失望されるとしても、せめて勇気を振るわなければ。


「――この、傷は」


 続けようと息を吸っても、スィーラーンの唇は震えるだけだった。否、吸った息を吐くことさえできなくて、頬に添えていた指が苦しさに曲がる。傷痕も無事な皮膚も、もろともに爪が掻き抉ろうとする――その前に、バルトロが鋭く叫んだ。


「言わなくて良い!」


 雷に打たれたように、びくりと震えて竦み上がったスィーラーンを、温かいものが包んだ。自らを傷つけようとしていた手ごと、抱き締められたのだ。


「その、辛いことなら。事実でなくても、良い。商人の売り文句に、野暮は言わない」


 耳に注がれるバルトロの声が、かつてなく近い。身体に伝わる響きが、スィーラーンの心臓にまで届いて、震わせるかのよう。


「私たちは――夫婦かどうかは、分からないが。対等な関係では、あるはずだ。何もかも世話を焼かなければならぬような相手を、貴女は選んだのか、スィーラーン」

「はい……いいえ」


 バルトロの胸に額を押し付けながら、スィーラーンは頷き、次いで首を振った。


(この人は、対等な取引相手。買ってもらったのではなく、私が自ら選んだ……!)


 皇帝スルタンが手に入れ損ねた至宝。長く縋ってきた足場が崩れそうになったところを、バルトロの言葉は支えてくれた。呼吸の乱れも収まって、顔を上げた時には、笑みを浮かべる余裕も取り戻している。


「私にとっても、十分利益の出る()()()と、見込んだのです。互いに利害が合致する――共に利益を得る関係を築ける、と。大きな商談を任せていただけたのは、嬉しく張り合いのあることですわ」


 バルトロは、少し目を細めてスィーラーンの笑顔を見下ろした。無理をしているのではないか、これもまた話術ではないかと疑うかのように。あるいは、皇帝スルタンの行幸を発端に始まった今回の商談についての懸念と不安ゆえだろうか。


「貴女には、危険な役割を頼むことになるが――」

「必要なことですから、構いません」


 抱き締められる腕に力が篭ったのが心地好くて、スィーラーンはバルトロに身体を寄せた。()()()()()()をするような夫婦ではないのだけれど――秘密を共有し、同じ計画に携わる者同士、甘えることだってあっても良いはずだ。たぶん。


(秘密というなら……すべてはまだ、言えないけれど――)


 彼女が受け持つ役割について、バルトロが抱いているかもしれない後ろめたさを減じるため、スィーラーンは声を低めた。


寵姫イクバルシェフターリもゼーナも、エステル・キラの死に関与していると見るべきでしょう。あの者たちの企みを挫くのは、私にとっては復讐です」

「そうか……」


 心の奥底を開いて見せた時、スィーラーンの深緑の目は、もはや揺らいではいなかったはず。むしろ、激しい怒りの炎が宿っていることだろう。その思いの激しさを読み取ってか、バルトロも静かに頷いた。


「イストリアにくみするのは、利益だけでなく復讐のためでもあります。だから、毒蛇の巣にも喜んで忍び込みましょう」

「……頼もしく思う。ならば私も、貴女のために為すべきことをやり遂げる」


 そう言って、ますます強くスィーラーンを強くかき抱くバルトロこそ、頼もしかった。この力強さ、熱の篭り方は、やはりよく分からなかったけれど――同盟者の絆と、思っておけば良いだろうか。

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