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後宮《ハレム》の女商人は謀略を売る  作者: 悠井すみれ
第二章 夫婦の距離感と皇帝の行幸の行方
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第7話 マセール《マッサージ》

 スィーラーンが屋敷に戻った時、バルトロは書斎に設えられた来客用の長椅子に、だらしなく背を預けていた。辛うじて寝転がってはいないものの、長い脚は床に投げ出されているし、全身が脱力していることで首が反って、顔は天井を向いている。


 疲労困憊、を体現するような()()()の姿に苦笑しつつ、スィーラーンはそっと彼の足元に忍び寄る。後宮ハレムに参上するために帝国風の装いをしていたから、なめし皮底の靴が足音を殺してくれるのが好都合だった。


「――お疲れなのですか?」


 驚かせないていどの声量で囁くと、閉ざされていた目蓋が開いて、金茶の目がゆっくりと瞬いた。次いで、かなり傾いでいた姿勢が正されて、長い指が乱れていた赤金色の髪を梳く。


 だらけたところを見せたのを恥じているのか、少し頬に朱を上らせて、バルトロは長椅子の空いたところを軽く掌で叩いた。無言のお招きに応じてスィーラーンが腰を下ろすと、ようやく問いかけへの答えが返ってくる。


「……ああ。イストリア大使館に出向いて、重鎮がたに協力を取り付けたところだ」


 溜息交ざりの声の調子からも、気の重い任務だったことは明らかだった。イストリアは実力主義の商人の国、元首ドージェの息子だからと手加減されることはなかったらしい。


(お気の毒だけど、必要なことだものね?)


 安易な慰めは不要、と考えて、スィーラーンはただ微笑んで首を傾げた。首尾は、との無言の問いかけに、バルトロも心得たもので、軽く頷く。


大使バイロはじめ、クスタンティニーヤに滞在中の貴族に豪商に――錚々たる顔ぶれに囲まれて詰められた。博打と投資の違いが分かっているか、損害が出たらどう責任を取るのか、と」

「まあ」


 彼女たちは、決して仲睦まじい夫婦ではない。今も、ひたすら商売に関するやり取りに終始している。ただ――長椅子に隣り合って語らう格好だけ取れば、それらしく親密な距離の近さかもしれなかった。


(そういえば。この顔を、躊躇いなく直視してくれるのよね)


 爆ぜた柘榴のような凄惨な傷痕を間近に見ても、バルトロの金茶の目に、嫌悪はおろか哀れみさえも浮かんでいないのは――皇帝スルタンを帝都に呼び戻すための大規模な()()に、夢中になっているからだろうか。それとも、スィーラーンの価値を認めてくれているから?


傷もの(チャトラク)ではなく至宝だと思ってくれているなら、嬉しいけど……)


 深緑の双眸だけは、スィーラーンもいまだ自信をもって美しいと誇れる。その色を見てもらえるように、()()()を覗き込む。


「どうお答えになりました?」

「成算については十分説明した。貴女の策は投資に値すると。そもそも、無理難題を言ってきたのは本国だし――損害については、何年かガレー船の漕ぎ手として務める、と」


 外洋の航海に耐える大帆船が開発されても、風や潮の流れにかかわらず一定の速度を出せるガレー船は、内海ではいまだ重宝されている。

 特にイストリアは、国民から高給で募ることで漕ぎ手の質を確保しているそうだ。有事の際は櫂を武器に持ち替えて戦うのが役目だから、奴隷や犯罪者には任せられない、という思想だ。やる気を金で買う発想は、やはり商人の国らしい。


(いくら漕ぎ手が高給でも、一生かかっても弁済できる額ではないと思うけど……)


 本当にガレー船に乗せるかどうかはともかくとして、イストリアの重鎮たちは、元首ドージェ子息の覚悟を見て良しとした、という辺りだろうか。いざとなれば高い利子――金の意味でもそれ以外でも――をつけて貸しを作る計算もしただろう。


(まあ、そんな事態にならなければ良いだけだし)


 今度はスィーラーンが首尾を報告する番だ。さすがにやや強張った表情のバルトロを、早く安心させてあげなければ。


母后ヴァリデ・スルタンカハラマーン様は、船を使っての行楽ハルヴェトに乗り気になってくださいました。それに――()()()の品も、無事に託せました」


 マルコもほかの使用人も、何をどう気を回したのか入室して来ない。だから誰の耳を憚る必要もないのだけれど、それでも最後のくだりは囁くように声を落とした。


(バルトロに宮廷手話イシャレト・ディリを教えようかしら?)


 あるいは、後宮ハレムで確立しているものではなくて、ふたりだけの暗号を考えるとか。そうすれば、色々と安心してやり取りができるかもしれない。


 声と言葉を使わないと意思疎通できない今は、秘密を保とうとするなら声を潜めるのでなければ顔を寄せ合わなければならない。安堵したように微笑んだバルトロは、ぐいと身を乗り出してスィーラーンの耳元に口を寄せた。


「そうか。ありがとう、貴女の世話になってばかりだな」

「いいえ。今度こそ()()()()()を打ち明けていただいて、とても嬉しく思っております」


 バルトロは、イストリア本国が課してきた無理難題を、今度は正直に教えてくれたのだ。

 スィーラーンが提案した、危険を冒してでも狙いたい大きな利益、に当たるのがそれだ。薄々とは気付いていた、というか推測していたことではあったけれど――確信を得られたからこそ、大胆な策を講じることができた。


「貴方に隠し事はできない――すべきではないと、思い知ったからな」


 最初の時に、見え透いた作りごとを看破されたのを思い出したのか、バルトロはきまり悪げに苦笑した。顔を寄せ合う形になったのにはまだ気付いていないのか、軽い吐息がスィーラーンの髪をくすぐる。金茶の目も、髪よりも少し濃い赤金色の眉も、昨夏の日焼けを残す頬も、とても近い。


「存分に頼らせてもらうことに――っと」


 と、疲れが祟ったのか気が緩んだのか、バルトロが身体を傾がせた。華奢なスィーラーンでは逞しい長身を受け止めることができず、自然、長椅子に押し倒される格好になる。


「し、失礼」


 狼狽えた声が上がり、バルトロの手が泳いだ。支えにしたいけれど、うっかりスィーラーンの身体に触れてしまうのは怖い、ということだろうか。一応は妻と夫であるはずなのに、紳士的なことだ。


「いいえ、お構いなく」


 スィーラーンは軽く笑って、しなやかにバルトロの身体の下から抜け出した。とはいえ立ち上がることはしない。長椅子の端に腰掛けて、いまだ起き上がろうともがく()()()の頭を、腿に乗せる。


 ()()らしからぬ礼儀正しさに、悪戯心がむくむくと湧き上がったのだ。口元が緩むのを感じながら、子供を寝かしつけるように赤金色の髪に指を滑らせる。


「動かないでそのままで――マッサージ(マセール)をいたします」

「――マッサージ(マセール)?」


 バルトロは、知っているはずの簡単な帝国語の単語を、心許なげに繰り返した。彼女の腿を枕にするか、それともうつぶせになって腿に顔を埋めるか――どちらがマシか迷ったのか、半端な体勢で硬直する姿は、少年のような純情さだ。


(可愛いところもあるじゃない)


 頭皮を揉んだ後は、こめかみへ、そして次は首筋から肩へ。絶妙な力加減で刺激していくと、抵抗はすぐに止んだ。いまだ遠慮がちに強張る身体から、疲れと緊張を取り除くべく、スィーラーンは柔らかく語りかける。


女奴隷ジャーリエ浴場ハマームにも侍るものですから、当然教えられるのですよ。エステルにもよくこうしたものです」


 スィーラーンの手にかかると、エステルは帝都のあちこちで我が物顔で寝転がる猫のように寛いだものだ。そうして、目を閉じたままで機嫌良く商売の機微を教えてくれた――懐かしく心地好い思い出は、バルトロのひっくり返った声で破られた。


浴場ハマーム!?」

「お疲れでしょう。どうぞ、そのまま」


 何を想像したのか、起き上がろうとするバルトロをいなして、スィーラーンは今度は声を立てて笑う。指先に力を込めれば、大きな()が喉を鳴らすかのように、蕩けた溜息が聞こえてくる。


「ん……」

「汗を流しながらではないのが残念ですけれど。皇帝スルタンが味わうのと同じ快楽はいかが?」


 市井の公衆浴場ハマームなら、男の客には男の、女の客には女の奴隷が奉仕するものだ。

 けれど、後宮ハレムで、それも皇帝スルタンが相手となると話は変わる。

 熱気で火照った肌、蒸気で濡れて透けた衣装は女をより艶めかしく見せるもの、浴室係は寵姫イクバルへの第一歩として羨望の的だから、マッサージ(マセール)の技能は必修項目なのだ。


(これも、私の価値のひとつ、だものね)


 特技を堪能してもらうべく、スィーラーンはさらに手指を働かせようとした。でも――


「その。止めてもらえるか……?」

「……はい」


 バルトロの、意外なほどの強い拒絶に、動きを止める。


(馴れ馴れしくし過ぎた……? 調子に乗ってしまったのかしら)


 思えば、夫婦というのは形だけ、バルトロは何よりもまず彼女の客だったのだろうに。客の機嫌を読み間違えるとは、商人にあるまじき失態だった。


「申し訳ございませんでした。私――」

「いや、不快だったわけではなくて」


 慌てて引っ込めようとしたスィーラーンの手は、けれどバルトロの力強いそれによって引き止められた。背けようとした顔も、伏せようとした目も、真摯な声によって呼び戻される。


「貴女は、もう奴隷ではないのだから」


 いつの間にか起き上がっていたバルトロは、驚くほど間近にスィーラーンを見つめていた。

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