第6話 後宮の外へ
母后カハラマーンの、その名と同じ琥珀色の目が剣呑に光った。
同時に、豪奢を極めた絢爛な居室の空気が、ぴりり、と張り詰める。雌獅子が、ゆったりと喉を鳴らしていたのを止めたよう、とも言えるだろうか。
「宮殿の、外?」
「夫が大きな船を用意いたします。海から帝都と宮殿を望むのは、さぞ爽快な心地でございましょう」
冷ややかな問いかけに込められた疑念と苛立ちには気付かぬ振りで、スィーラーンは歌い続けた。
壮麗な尖塔や円蓋が空に映える、由緒ある礼拝堂の威容に、小高い丘陵にひしめく建物が装飾模様を描くかのような宮殿の精妙な美。後宮にいては見ることのできない眺望を語ろうと。
でも──
「後宮の女を、庶民であろうと異教徒であろうと男の目に晒すことはできぬ。妾に恥をかかせる気か」
息を継いだ彼女を、母后は水煙管を乱暴に振って遮った。金細工を施した水晶製の水瓶が、危うく硬い音を立てる。
(お怒りは、ごもっとも……)
市井の女でも、同じ女の行商が相手でも、やすやすと戸外に出るのを躊躇うくらいなのだ。皇帝の生母や寵姫が戒律にそぐわぬ振る舞いをすれば、醜聞どころか失脚の切っ掛けにもなりかねない。
(海に放り込んでやろうか、とでも思っていらっしゃいそう……!)
一介の女奴隷なら、母后を不快にさせたというだけで十分に死を賜る理由になるだろう。快適に保たれた室温にもかかわらず、スィーラーンの背を冷や汗が濡らした。
「もちろんでございます」
けれど、表に見せるのは晴れやかな笑みだけ。
彼女は後宮の女商人だ。仕えた時間は短くとも、母后に機転を印象付けることに成功している。エステルが築いてくれた信頼と併せれば、細かに説明するまでの間、どうにか忍耐を保ってくださる見込みは十分にあった。
そして実際、スィーラーンが計画を語り終えるころには、母后の機嫌はだいぶ上向いていた。
「実現は可能であろうし、華やかな催しでもあろうが……」
「ええ、それはもう。イストリアにとっても名誉ですから、夫が奔走してくれるでしょう」
一度難色を示した手前、すぐに頷くことを母后の矜持が許さないのは織り込み済みだ。
(バルトロは、もう動き始めているもの。彼の準備を無駄にさせない)
ダンテ・スピノラ──ゼーナ大使以上に忙殺されるだろうと見越して、バルトロはすでに方々に手を回し始めている。だからスィーラーンは何としても母后を頷かせなければならないし、そのための手札も考えてある。
「それに──母后様のご慈悲とご権勢を、下々にも見せる好機かと存じます」
さも重大な秘密を打ち明けるかのように声を潜めれば、母后といえども身を乗り出してくれる。
今回のような行幸に加えて、諸々の式典や視察などで臣下や民に姿を見せる機会がある皇帝と違って、母后や皇女や寵姫にはそれが許されない。
寄進で自らの名を冠した礼拝堂や公衆浴場を建てさせることはできるけれど、どうせなら美や財や権力をも見せつけたくなるのが人の性というものだろう。
(実際、シェフターリは上手くやったものね)
ひどい傷を負った女に哀れみを見せる、豪奢な輿の奥の美姫──麗しく分かりやすく、そして安っぽい芝居の役者に仕立てられた怒りと屈辱は、呑み込んで。スィーラーンは大げさに眉を寄せて囁いた。
「ご不興を承知で申し上げますが──行幸の行列を見た民が漏らしておりました。母后行列もかくや、と」
瞬間、母后の琥珀色の目が見開かれた。そこに閃いた怒りは、炎と言うより雷を思わせて剣呑だった。
(カハラマーン様は、母后行列をやっていないものね……)
帝国の慣例では、仕えた皇帝に先立たれた寵姫たちは嘆きの館と呼ばれる離宮にて余生を過ごす。宮殿に戻れるのは、我が子が即位した者だけ。
母后行列とは、我が子でない皇帝が死ぬか退位するまで待った女の勝利の宴。新皇帝の即位を寿ぐ意味も込めて、それは華やかで盛大な行列を組んで宮殿に凱旋するものだ。
先帝の死後、特に混乱もなく実子が即位したカハラマーンは、一貫して後宮の主だった。その点では、過去の多くの母后よりも輝かしい、圧倒的な勝者だとも言える。
けれど、だからこそそれを見せびらかす機会がなかったのは悔しいだろうし、自身を差し置いて寵姫が目立ったと聞けば捨て置けないだろう。
「そなたの案を採る。イストリアの御曹司の手腕と人脈に期待しよう」
「恐れ入ります」
期待通りの答えを引き出して、スィーラーンは恭しく顔を伏せた陰で会心の笑みを浮かべた。
「ゼーナの大使は、物資の調達にエステルの遺児を頼るのであろうな。そなたにとっても負けられぬ理由があるというわけだ」
……美しいのにどこかざらついた母后の猫なで声に、その笑みもすぐに強張ったけれど。養母の仇を取るためにも後れを取るな、せいぜい励め、という激励というか扇動だった。
「……はい」
世間的にはエステルの後を継いだことになっているアダムは、母后の信任はなくとも貴人や富商との人脈のいくらかは保っているはず。皇帝と寵姫を満足させるために行幸先のエドレネに届けるべく、帝都の奢侈品は買い占められつつあるのだろう。
エステル・キラの後継を自認するなら、確かに出し抜かれるわけにはいかなかった。
(人の心の機微が分かる御方ね。だからこそ話が通じるけれど、恐ろしい……そして、策の練り甲斐があること……!)
まんまと焚きつけられた闘争心と復讐心を、浅く数度呼吸して宥めてから、スィーラーンはなるべくさりげなく口にした。
「──それと」
後ろ暗い企みなど何もなく、本当に念のためで付け加えたかのように。
「行楽にあたっては、宦官にも何かと手間をかけることになりましょう。根回しとして些少ながら贈り物をしたいと存じます。ご承知おきくださいますでしょうか」
実際、願ったのは当然のことだ。
派閥の維持のため、女たちに娯楽を提供することの大事さを理解できる母后なら、否とは言うはずがないこと。そもそも、通行料ていどの金品での挨拶は、スィーラーンも日常的に行っている。気が回らないほうが失態だろう。
「必要なことであろうな。せいぜい、あれらの機嫌を取っておくが良い」
「仰せのままに」
怪しまれる恐れがほとんどないのは、分かっていた。それでも、母后の快諾を得られたことへの安堵は格別で、スィーラーンは息を吐きながら床にひれ伏した。
* * *
その後、スィーラーンは言った通りに高位の宦官たちに賄賂を贈り、近く催される後宮の外での行楽について理解と協力を求めた。
快諾する者もいれば、難色を示して賄賂の値を上げようという者もいた。彼らの中の何人かは母后に報告して、協力的であることを誇示しようとするかもしれないし、スィーラーンの振る舞いに何かしらの難癖をつけて足を引っ張ろうとするかもしれない。
(どちらでも良いわ。怪しい動きをしていないと、母后様に伝われば)
バルトロに用立ててもらった贈り物を携えて、最後に尋ねたのは例の沈黙の者だった。道化として皇帝や母后の近辺に侍り、後宮の最奥を音もなく影のように行き来する者。エステルの商売も、長く近くで見聞きしてきたことだろう。
「──ということなので、どうぞよろしくお願いいたします」
スィーラーンが、すでに何度か繰り返した説明を滑らかに終えると、声を持たない宦官は静かに頷いた。聞き耳を立てる者がいたとしても、不審なやり取りではなかっただろう。
ただし、それは聴覚で判断する限りにおいて、のこと。スィーラーンは舌と同時に手指をも動かしていたし、沈黙の者が頷いたのも彼女が声に出して言ったことに対してだけではなかった。
──これは、あの御方へのご挨拶の品です。どうぞよしなに。
──承知した。
ふたりが身体の陰で躱したやり取りを盗み見る者はいない。手紙と違って、後々証拠が残ることもない。
(宮廷手話は本当に便利ね)
恐らくは、過去の皇帝や后妃や寵姫たちと同じことを考える不遜と光栄に、スィーラーンが感慨に耽ったのは一瞬だけのことだった。
「それではまた、恐らくは行楽の時に」
いるかもしれない間諜にも聞こえるように、無邪気な別れの挨拶を述べてから、スィーラーンは今度こそ後宮を辞した。
さしあたっての任務をすべて全うした、満足感と達成感を抱きながら。




