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後宮《ハレム》の女商人は謀略を売る  作者: 悠井すみれ
第二章 夫婦の距離感と皇帝の行幸の行方
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第5話 行楽《ハルヴェト》

 数日後──案の定というべきか、スィーラーンは後宮ハレムに召されていた。


 母后ヴァリデ・スルタンの居室の輝かしいしつらえも、噴水のせせらぎの清らかさも、奴隷が奏でる調べの美しさも変わらない。最初に参上した時よりも季節が進んだ分、中庭の花々の彩はより豊かになってさえいただろう。


 ただ、すらりとした脚を組んで長椅子を占める部屋の主の機嫌が、悪い。

 琥珀色の目は、怒りの炎を宿したまま凍り付いたよう。豪奢な金の髪や張りのある白い肌を飾る宝石の煌めきも、どこか寒々しく見えてならない。細い指が水煙管ナルギーレを苛々と弄ぶ仕草も、爪を研ぐ虎を思わせて不穏だった。


 母后カハラマーンの御前にひれ伏しながら、スィーラーンは季節が逆戻りしたかのような肌寒さを覚えていた。この御方をこれ以上怒らせてはならない、という緊張が、冷気として感じられているのだろう。


「──聞いておるか」


 無駄な前置きを挟むことなく、カハラマーンは端的に下問した。

 ここで何の話か反問するようでは、後宮の女商人は務まらない。恭しく目を伏せたまま、スィーラーンは答えた。


「はい。ちょうど、行幸の行列(アラユ)が発つ時に居合わせましたので」


 事情は承知している、と暗に伝えると、吹雪のような冷気がほんの少しだけ和らいだ。

 水煙管の長い影が動き、きつめの香りがスィーラーンの鼻を刺激する。たぶん、母后は憤懣をぶつける、あるていど話の分かる相手を求めていたのだろう。


「息子の教育を間違えたかもしれぬ、と考え始めたところだ。聞き分けが良すぎるのも考えものだな。ああも容易く、寵姫イクバルの甘言に惑わされるとは」


 皇帝スルタンを酒色に溺れさせたこと、それ自体については、特に反省も罪悪感もないらしい。母后の怒りは、我が子が耳を傾ける相手を()()()()ことだけに向いているようだった。


(自ら前線に立って遠征を導く皇帝なんて、もう時代遅れだものね……)


 カザール帝国は、代を重ねるごとに法と統治機構を洗練させてきた。結果、今では大宰相をはじめとする官僚たちと、各地を統治する軍人たちがいれば、つつがなく国が回るようになっている。


(皇帝は、宮殿の飾りでいてくれいたほうが何かと都合が良い。……帝国にとっては、ね)


 不敬で微妙な問題には踏み込まず、スィーラーンはひたすら相槌を打つのに徹する。


「ゼーナの大使が、わざわざ()に当て擦ってきました。寵姫の我が儘に忙殺されている、と──かの国が、陛下を惑わす様々な趣向を入れ知恵しているようでございます」


 実のところ、発案したのはシェフターリだろうな、とスィーラーンは考えている。


 エステルを始末したのに母后の権勢は衰えず、しかも新しい女商人は因縁ある相手だという疑い──確信したのは行列の紗幕越しに対峙した時のはずだ──がある。


(焦りと不安から、祖国(ゼーナ)に泣きついた、ってところじゃない?)


 とはいえ、カハラマーンにはゼーナの暗躍を強く印象付ける必要がある。そうすれば、かの国の宿敵であるイストリアとの同盟をいっそう頼もしく思うだろうから。

 妻としても商人としても、旦那様バルトロの利益を最大化できるように配慮しなくては。


「寵姫がただひとりしかいないというのは、危ういと思っていたのだ。そなたの顔が無事であったなら、良い牽制役になったであろうに」

「恐れ入ります」


 母后は、苛立ち紛れの質の悪い冗談で傷物の女を嬲っただけだ。そうと分かっていたから、実際そうなる可能性がそこそこあったことなどおくびにも出さず、スィーラーンは控えめに微笑んだ。


(さあ、そろそろ本題かしら)


 ころ合いを見計らってか、スィーラーンの前に珈琲カフヴェと菓子が供される。けれどもちろん口にすることなど思いもよらないまま、彼女は母后の表情と声の調子を窺うことに意識を集中させた。


「此度のこと──()()()()()なる、と言えばなる。だが、後々にまったく憂いを残さないかどうか、となると話は別だ」


 そう──皇帝を強引にエドレネから連れ戻すことは、一応可能だ。

 年長の皇族や導師イマームなど、皇帝でもその意を容れざるを得ない相手もいる。より乱暴な手段を視野に入れるなら、親衛隊イェニチェリのいくらかは帝都に残っているだろうし、私兵を擁する諸侯や高官も頼れるかもしれない。


(でも、どれを選んでも、母后の権威に影が落ちる)


 母后に貸しを作った者は、相応の見返りを要求するだろうから。特に、戒律を重んじる導師が皇帝に禁酒や禁欲を申し渡したら、これまで通り操るのは難しくなる。

 そもそも、母子の間に不和が生じたと世間に思われれば、結局、シェフターリの思うつぼだ。


「このような時に、エステルならば何を売り込んできたであろう。養い子として後継者として、申してみよ」


 喉を鳴らす満腹の獅子の表情で促すカハラマーンは、おおよその懸念を天秤にかけ終えているのだろう。その上で、スィーラーンが何か面白いことを言うのではないか、と大雑把に期待している──あるいは、試そうとしているのだ。


「そう仰られると思い、考えて参りました」

「ほう?」


 的外れなことを口走れば、後宮から叩き出されかねない。それを承知でスィーラーンが自信たっぷりに微笑むと、琥珀色の目が興味深げに、そして獰猛に煌めいた。


 失望させるなよ、と。無言のうちに圧をかけられるのをひしひしと感じながら、スィーラーンは歌い上げる。


「カハラマーン様。行楽(ハルヴェト)はいかがでしょうか」


 ハルヴェトは、そもそもは人払い、という意味だ。それが転じて行楽を指すようになったのは、皇帝の寵姫たちが庭園や離宮で遊ぶ際、その姿を覗き見る者がいないよう、厳重に人払いされるから。

 狭苦しく息苦しい後宮から出ての束の間の息抜きは、ある意味では贅を凝らした衣装や食事、華やかな宴よりも女たちに歓迎される。母后でさえも、広い空を思い浮かべてかわずかに表情を和ませているくらいだ。


「エドレネは、確かに歴代の皇帝が好まれた地。離宮も狩猟場もございます。ですが、常の御座所ではありませんから手入れも必要でしょうし、帝都の賑わいと豊かさには叶いません。もちろん、ゼーナが手を回して美酒美食や遊興を用意するつもりなのでしょうが──」


 相手の興味を惹けたのを確かめて、スィーラーンはより高らかに滑らかに言葉を紡ぐ。宙に手を伸べて遥かなエドレネの風光明媚を表して、視線は時に彼方に流してゼーナのほうを睨めつけて。そして、悪戯な微笑を唇に浮かべて、企みごとを囁く。


「あちらが整う前に、皇帝陛下が羨むような大規模な祝宴を、母后の御名において催すのです。やはり帝都が一番と、恋しく思っていただけるように。仲間外れにされてはならぬと、悔しがっていただけるように」


 もちろん、これだけで皇帝が引き返すと期待するには少々迂遠な策だ。だから、もうひとつの狙いもちゃんと示して差し上げる。スィーラーンは、わざとらしいほど眉を寄せて、憤慨した()()()口調を装った。


「陛下もひどい御方です。数多の寵姫、仕えて長い女官ウスタがたを置いて行ってしまわれるなんて。きっと、気を落とされている方もいらっしゃいますでしょう。母后様のお気遣いがあればこそ、皇帝のご不在の間にも張り合いやお勤めのし甲斐が出るというものでしょう」


 シェフターリは、派閥の女たちだけを選んで行幸に付き従わせただろう。皇帝の傍に侍ることができる、という餌をぶら下げることで、派閥の結束と自身への忠誠を高めようという狙いだ。


(それなら、残された者たちは、何としても母后様の派閥に取り込んでおかなければ。そうでしょう?)


 後宮がまだ母后の牙城なのだと突きつけるのだ。皇帝はともかく、シェフターリはその脅威に気付くだろう。住み慣れた後宮が懐かしいと、早晩皇帝にねだってくれるはずだ。


「悪くないな。──で、具体的にはどのような趣向を考えておる?」


 後宮の女たちの心情をよく知るカハラマーンは、さすがに察しが早かった。奏でた曲、描いた絵をお気に召していただいたと知って、スィーラーンはいっそう声に熱を込めた。


「皇帝陛下はエドレネまでお出ましになって羽を伸ばしていらっしゃいます。ならば、母后様もほかの方々も、もっとのびのびと楽しまれなくては」


 安全を取るか、危険を承知でより大きな利益を狙うか──バルトロは、迷わず後者を選んでくれた。彼の信頼に応えるべく、母后をもっと()()なければならない。


宮殿サライの外へ、皆様でお出ましになればよろしいかと」

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