第3話 商人の領分ではない
いくつかの区画を回って商品をあらかた捌き、手紙も届け終えた後──スィーラーンとバルトロは、帝都に数多ある泉亭にて、胡麻入りパンを齧っていた。客の女奴隷のひとりから差し入れされたものだ。
泉亭とは、清浄な水を供する公共の休憩所だ。彼女たちと同様に、備えられた腰掛に陣取って腹ごしらえをしている行商人もいれば、足を洗う旅人もいる。行き交う者の髪や目や肌の色、装いも様々で、しかも自らの生業に忙しく、スィーラーンの頬の傷に目を留める者もほとんどいない。
輝かしい帝都の賑やかな営みを眺めながら、スィーラーンはもそもそとパンを呑み込んだ。焼きたての温もりが残るパンは香ばしく、挟んだ塩漬け肉の塩と香辛料の加減も絶妙だった。心置きなく、その美味を堪能できたら良かったのに。
「いつもは、蜜漬けパイをもらえるのですが。思った味ではないものを人には出せない、ということなのでしょうね」
「料理人の矜持、ということか。それはまあ、分かるが」
バルトロの相槌も、端切れが悪い。
最初の広場だけでなく、次の区画でも、女奴隷やその主たちは同じ悩みを抱えていた。そして、口を揃えてスィーラーンたちに訴えてきたのだ。すなわち──
『葡萄が市場にないの。酢も葡萄蜜も、干したのも』
『皇帝がみんな葡萄酒にさせたっていうのは本当なの?』
『料理も菓子作りも、何かと困ってるのよ……!』
家庭によって好みや配合は違うけれど、蜜漬けパイを始めとした菓子には木の実と並んで干し葡萄や葡萄蜜──葡萄の果汁を煮詰めた甘味料──が欠かせない。葡萄酢ももちろん、様々な料理に使われる。
台所を預かる奴隷としても、家内を采配する女主人としても、切実かつ重要な問題に違いない。
亡き養母、エステル・キラなら助けてやろうとしただろうし、スィーラーンとしても、力になりたいのは山々だけれど──ではどうやって、となると、なかなか難しい。
「葡萄酢や葡萄蜜は重く、干し葡萄はかさばる──魅力的な商品ではありませんね?」
「ああ。正直言って、あえて帝国で手を出すには利益が薄い。というか、商品不足そのものよりも、問題はありそうだが……」
バルトロが言葉を濁した理由は、よく分かる。帝都の往来で、皇帝への批判を口にすることを憚ったのだ。女たちの口振りは、葡萄関連商品の不足は皇帝の放蕩のせいだ、と言わんばかりだった。
(葡萄酒造りを優先しているとして……たぶん、より高値で売れる商品にしているだけ。でも、帝都の庶民は皇帝の噂を知ってしまっているから……)
シミットを食べ終えて、パン屑を丁寧に払ってから、スィーラーンは指先で額を押さえた。
これは、商売ではなく政治の領分だ。皇帝の命令によって、葡萄農家の卸し先や葡萄酒業者の製造量を制御するのが筋というものだろう。
問題は──エステルから聞いた話によると、噂通りに酒色に溺れる今上の皇帝に、そのような判断力は期待できないということだ。母后の意向があれば話は別だろうけれど、スィーラーンは諫言できる立場にはない。
(元奴隷の商人風情が調子に乗るな、と言われそうね……)
あの金色の琥珀の目が怒りに燃えるのが見えた気がして、スィーラーンは密かに震えた。
とはいえ、放っておけば皇帝の権威が揺らぐ。それもまた、あの御方の望むところではないだろう。つまりは、あの母后カハラマーンをして、どうにか進んで民の苦境に目を向けてもらわなければならないのだけれど──エステルなら、いったいどうしただろう。
考え込むスィーラーンに、バルトロが気遣うような声をかけた。
「──とりあえず、帰ろうか。貴女も疲れただろうし、色々と解説して欲しいこともある」
「……そうですね、バルトロ」
行商で見た女たちとのやり取りや、届けた手紙の意味合いについては、確かに聞いているだけでは分からなかっただろう。
(やっぱり、真面目で勤勉な商人ね)
旦那様への評価をまた一段階上げたところで、スィーラーンは立ち上がった。そして、外国人居留区に向けて、帰途に就こうとしたのだけれど──
「皇帝陛下の行列だ!」
通りの先、宮殿の方角から聞こえた歓声に、足を止めた。同じく立ち止まったバルトロと顔を見合わせる間に、新たな声がいくつも続く。
「エドレネへの行幸だ」
「寵姫シェフターリもいるそうだ」
「なんと壮麗な──」
シェフターリの名を漏れ聞いて、スィーラーンの頬に傷を焼きつけられた時の熱と痛みが蘇る。思わず頬を押さえて硬直した彼女を、バルトロが抱えて支えてくれる。
「どうした? ……人が多いな。抜け出すのにも一苦労だ」
彼の言う通り、皇帝の出御の報は瞬く間に広がったらしく、大通りには野次馬が溢れつつある。過ぎた興奮が暴走するのを警戒してだろう、親衛隊の兵が野次馬を追い立て、行列の進む先を開けさせている。
これでは、迂闊に道を渡ることもできそうにない。
「大丈夫です。せっかくですから、皇帝の行列を見物してから帰りましょう」
「……ああ」
少し無理をして、スィーラーンは笑顔を浮かべた。心の乱れは傷痕をいっそう引き攣らせて、大丈夫そうな顔にはとても見えなかったかもしれないけれど──バルトロは、心配そうに眉を寄せつつ、頷いてくれた。
そして実際、すぐに姿を見せ始めた行列は、一見に値するものだった。
何しろ今の皇帝にはまだ子がいないから、皇族の誕生や結婚を祝う式典が帝都の民を楽しませる機会が、最近では少ないのだ。
先頭を務めるのは、煌びやかな衣装に身を包んだ将軍とその侍者たち。いずれも見事な馬具を纏わせた堂々たる馬に騎乗している。
さらに、高官たちがあるいは馬に、あるいは馬車に乗って続く。衣装や馬車の装飾は彼らの地位に相応し、見物人に外廷の縮図を見せつける。……そう、廷臣の多くを引き連れての行列は、皇帝の行幸は長期にわたるであろうことも示唆していた。
「エドレネでは避暑と狩り三昧か。羨ましいことだ」
「葡萄酒の名産地だからな。新酒を飲み尽くすおつもりなのだろうよ」
近くの野次馬が囁き交わすのを聞いて、スィーラーンは頭が痛くなりそうだった。
親衛隊を恐れて、ごく小さな声ではあったけれど──たとえ口に出さずとも、多くの者が同じことを考えているのだろう。
(なんて間が悪い。皇帝が帝都を見捨てたと思われかねない……!)
皇帝の侍従長に太刀持ち、衣装係──皇室の富と権威を見せつける内廷の高位の侍臣が続く中、母后の輿は見えない。囁かれる通り、皇帝が放蕩のために、それも、恐ろしい母を置いて帝都を離れるのだとしたら──
(皇帝がご自身で思いつくことじゃない──シェフターリに篭絡された? それとも、ゼーナに?)
考えを巡らせる間にも行列は進み、ふたつの輿がゆっくりと近づいてくる。門衛兵の頭を飾る白い羽飾りに囲まれて、雲の上に浮かぶ美しい船のようにも見えるそれらは、ひとつは言うまでもなく皇帝のもの。そしてもうひとつは──
「あれが寵姫の輿か。たいそうな美女だそうだが」
「母后行列もかくやの豪華さだ……!」
野次馬の好奇と羨望の眼差しを一身に浴びる輿は、豪奢であると同時に繊細を極めた金の装飾で彩られていた。
中の佳人を隠す紗は、淡い珊瑚色。あの女にはとても似合いの色だから、スィーラーンの口元は笑いに似た形に引き攣ってしまう。細かな意匠まで指定して皇帝に強請る様が、目に浮かぶようだった。
「あれが──」
バルトロが、思わず、と言ったふうに漏らした呟きが、やけに鋭く胸に刺さった。美しいと評判の寵姫のことを、彼も気にするのか、と思うとなぜか落ち着かなくて。
深呼吸して、ざわつく心を抑えようとした時だった。一騎の馬が行列から離れて、スィーラーンたちのほうへ近づいてきた。
その馬の乗り手は、輝く金の髪と碧い目をしていた。毛皮をあしらった長衣は、どの部門の廷臣の規定とも異なる、ひたすら豪奢で煌びやかなもの。
異国の貴人が、帝国風の装いをしているのだ。その証拠に、金髪の青年が馬上から発したのは、訛りのない西方語だった。
「これは、イストリアの若君。そのような格好で、どんな趣向のお忍びですか?」
美しくにこやかな笑みに、鮮やかに軽侮を滲ませたその男は、ゼーナの大使、ダンテ・スピノラだった。




