第2話 女たちの市場
行商に出る時は、スィーラーンは帝国風の装いをすることにしている。
すなわち。ゆったりとしたズボンにブラウス、上衣の上からさらにローブを纏う。
もちろん、後宮の女たちのように金糸の刺繍や宝石を縫い取った絹、というわけにはいかない。季節によって服の素材は麻だったり綿だったり、冬にはリスの毛皮の縁取りがあったりする。
庶民向けの素材の中、色や柄の組み合わせで趣味を見せるのは、客の女たちも常に興味があることだから、毎度気を遣わなければならない。
ヴェールをつけるのは、真夏の太陽か真冬の雪を避ける時だけだ。
白い肌に緑の目の異教徒の女が戒律に沿わない出で立ちでも。寛容な帝都の民の大方は咎めないでいてくれる。目立つ火傷の痕は覚えてもらいやすい、という狙いもあるし。
ただ、髪は隠したほうが良い。女の髪の美しく輝かしく艶めかしいこと、遠ざけなくては悪心を起こすもとだ、という考えが、預言者の教えの信徒には深く根付いている。
「──では、参りましょうか」
結い上げた髪を縞模様のターバンで巻いて隠して、スィーラーンはバルトロに呼び掛けた。
「ああ。今日の私は貴女の従者だ。よろしく頼む」
旦那様がやや緊張した面持ちで応じたのは、彼もまた帝国の民のように長衣を被っているからだ。動きやすい長衣は、帝国の庶民に男女を問わず好まれる。
上質な衣装を着こなすイストリアの貴公子にして裕福な商人は、クスタンティニーヤの市街ではどうしようもなく目立つから、荷物持ちに扮してもらったのだけれど──
(元が良いと、何を着ても似合うわね……)
体型を隠す長衣も、長身も、育ちの良さゆえの姿勢と体格の良さを覆い切ることはできていない。手入れされた赤金色の髪の輝きからも、無理がある変装だったかもしれない。
(まあ、帝都には色々な人間がいるし)
多少、怪しまれたり目立ったりしても問題ないだろう、と結論付けて、スィーラーンは微笑んだ。
「恐縮ですわ。楽しんでいただけるよう、精一杯、案内役を務めさせていただきます」
* * *
スィーラーンが行商の縄張りにしているのは、ハリチュ湾の南岸、宮殿を間近に仰ぎ見る界隈だ。
賑やかな市場や、高官や富豪の邸宅の華やかな正門、人々が集まる礼拝堂や公衆浴場の賑わいを遠くに聞きながら、細い路地が蟻の巣のように巡る裏通りに入り込んでいく。
「狭いな」
スィーラーンの背後で、バルトロが呟いた。勝手口に並べられた水瓶や桶、食材の樽やら箱のどれかに躓きかけたらしい。細身を活かして舞うようにくるりと回ると、彼が背負った籠が壁を擦らないように手を添えてやる。
「商品の量によっては、驢馬を使うこともあります。今日はまだ通りやすいほうですわね」
「そうなのか……」
裏通りの装飾の少ない壁を、物珍しげに眺める彼は、気付いているだろうか。家や屋敷の裏側こそが女たちの住まいだということ。外からは固く閉ざされたように見える格子窓の向こうには、それぞれの家の奥に隠された妻たちや娘たちが、刺激を求めて目を光らせていることに。
(女の世界を覗き見るのは、異国の者にはなかなか難しいこと……面白いと思ってくれると良いんだけど)
バルトロが、自ら海に出ての交易を恋しがっていることに気付かなかったのは、不覚だった。イストリアは商人の国、たとえ国益のためでも、ひとつの港に留まり続けるのは苦痛なのだろう。
何しろ彼は、彼女を宮殿への後宮に導き、母后の目に適う品を卸してくれる、またとない旦那様だ。
(退屈なんてさせちゃいけない。楽しんでもらないと……!)
名ばかりとはいえ妻として、共に後宮での商売に当たるものとして、スィーラーンは固く決意していた。
幸い、それほど進む必要もなく、上階の窓の隙間から声がかかり始める。
「スィーラーン? 久しぶりね! 上がっていってよ」
主たちの命令を受けた奴隷が、招き入れようとしてくれているのだ。いつもなら、各家に上がってゆっくりと話をするところだけれど──
「そこの先の広場にしてくれる? 今日は男の人を連れてるの」
様子を窺っている家にも聞こえるよう、スィーラーンは声を張り上げた。外に出られるのは奴隷だけれど、夫人たちや令嬢たちには我慢してもらおう。今日の本題は、バルトロに女商人のやり方を見てもらうこと、なのだから。
間もなく、家々の隙間にぽっかりとできた広場は、仮の市場になった。
地面の上に布を敷き、籠に詰めていた装飾品や化粧品、布地などを並べるうちに、そこここの戸口からヴェールを纏った女奴隷が集まってくる。若い娘は、バルトロの姿に一瞬身構えたりもしたけれど、彼が礼儀正しく顔を背けたので安心したようだった。
(異教徒の習俗に理解があるのは、さすがイストリア商人ね)
帝国における社交は、西方におけるそれとはだいぶ様子が違うのだ。とはいえ、知識として知っているのと実感するのはまた別のことだろう。
旦那様の後学のためにも、スィーラーンは客の女たちといつも通りのやり取りを始めた。エステルの生前からの馴染みで、結婚についても承知している者たちだから、特に若い娘は、商品よりも噂話を求めて目を輝かせている。
「ねえ、母后様の命令で結婚したっていうイストリア人の旦那様とは、どう?」
「エステルみたいに後宮に入ってるの? 寵姫様がたの間では何が流行ってるの?」
「とても良くしてくださるわ。今日は、旦那様が護衛をつけてくれたのよ。母后様にもご贔屓いただけていて──ほら、これは後宮に収めた生地の端切れ」
バルトロにも聞こえるようにやや大きな声で、問われたことに答えていく。不意に自分の話題が出て、彼が肩を揺らすのが視界の端に見えるのが楽しかった。
(陰口なんて、言いませんからね……?)
スィーラーンに対する彼の態度が、時々妙にぎこちないのに、気付いてはいる。帝国とは文化を異にするイストリア人にとっては、元奴隷を妻にする、という状況はやはり不本意なのかもしれない。
(寝室に呼ばれるくらい、覚悟してたのに。この顔じゃ、その気になれなかっただけかもしれないけど)
妻が勝手に出歩いて商売をしても、文句を言うどころか感謝してくれる──バルトロは、本当に願ってもない旦那様なのだ。だから、より多くの利益をもたらしてあげたいと思うし、高価な空中刺繍の売り込みだってしてみせよう。
「素敵……! これは、イストリアの織り方なの?」
「ええ。ぜひ、奥様がたやお嬢様がたに伝えてちょうだい」
「どうやって縫えば良いのかしら。でも、縁飾りにも使えそうね……!?」
「そうね、母后様ほどの量をお買い上げいただくのは難しいかもしれないけど、色々使いどころはあるでしょうね」
主を着飾らせるのは、奴隷にとっては誇りであり喜びでもある。珍しい生地を扱ってみたいと、彼女たちのほうから主にねだってくれるかもしれない。帝都の流行の変遷に、女奴隷が関わることだってあるのだ。──それに、秘めごとにだって。
品物があるていど捌けたところで、ある娘がおずおずと畳んだ紙片を差し出した。
「スィーラーン、これ──」
「衛士長の屋敷の門番ね? 分かってる」
多くを言わせず、スィーラーンはその紙片──恋文を上衣を留める帯に挟んだ。それを切っ掛けに、待ち構えていたように次々と声が上がる。
「私も」
「うちの奥様からのも、お願い」
「はいはい、承りました、と」
息を呑んで驚いた表情を見せているバルトロは、もしかしたら誤解したかもしれないけれど。受け取った手紙の全部が全部、恋心を綴ったものではない。
女が外出する機会は限られるから、違う屋敷にいる友人や知人や親戚に、近況を伝えたり何かしらの頼みごとをしたり、ということもある。公衆浴場も女の社交場ではあるけれど、行商人に託すことができるならそのほうが早い、というわけだ。
(商談や密談にも使えそうよね、旦那様はご存じないかもしれないけど)
預言者の教えを奉じる帝国において、男女の壁は西方人が思う以上に厚く高い。たとえ奴隷でも、他家の女に触れることさえあり得ない、と考える者がほとんどだ。
だから、たとえ密書を持っていても捕えられて検められる恐れはほとんどない──なんて言ったら、バルトロはきっと驚くだろう。
(まあ、そんな話は帰ってから、ね)
まずは、残りの商品を捌きつつ、預かった手紙を届けなければ。
「さ、次の場所に行きましょうか」
それぞれの家に戻る女たちに手を振りながら、スィーラーンはバルトロに声をかけた。けれど、次の区画へと足を踏み出す前に、横から、ねえ、と呼びかける声があった。
「母后様でもイストリアの商人でも良いんだけど──お伝えしてもらいたいことがあるんだけどね」
振り向けば、女奴隷が何人か、深刻な面持ちで佇んでいた。




