第1話 悩み多き新婚生活
母后に女商人との結婚を命じられた、と報告したところ、イストリア本国はたいそう喜んだ。
父である元首の直筆によるお褒めの手紙を受け取って、バルトロは苦笑する。コンタリーニ家が帝都クスタンティニーヤに構えた別荘の二階、書斎として使っている部屋でのことだ。
(まあ、予想通りだな)
イストリアは、狭く資源の乏しい国土と少ない民で、広い交易圏の利権と拠点をどうにか維持している。だから人脈と情報の力を熟知し、かつ重視しているし、平民の商人たちも、旅先で見聞きした情報をせっせと本国に送るのが常だ。
そんな国風だから、カザール帝国との同盟のためなら、元首の息子が奴隷の娘と結婚したとしても醜聞とさえ思わないだろう。むしろ、受け継ぐ財産を持たない三男坊に良い使い道ができたと、国も父も兄たちも、誰もが考えるはずだ。……バルトロ自身を除いては。
(私は、商人でいたいんだが……)
書類から目を上げて、背後にある窓の外に目をやれば、空も海も、陰鬱かつ寒々しい冬の色から、柔らかく明るい春のそれへと変わりつつある。
この時期の風向きや波の高さ。各地で求められる品に、その仕入れ先に、その地の人々の言葉や風俗、港ごとに異なる酒や食──室内にいてもなお、潮の香りや太陽の光、波の音に誘われる気がする。
陸に上げられ、ひとつところに留まって、本国のお偉方と帝国の貴顕の顔色を窺うのは、彼の気性に合わない。だから、あるていどの成果を上げたところで解放して欲しかったのだが──
「空中刺繍の大量発注だけでは、満足しないか……」
父からの手紙の続きには、さらに帝国における権益を確保するための指令が連ねられていた。
書類仕事のため、軽く括っていた髪を指先で弄びながら、バルトロは溜息を吐いた。潮風と陽光によって赤金色に脱色した髪は、今の彼のとって海との絆のようなものだった。だが、この調子だと、また海に出られるころにはもっと暗い色に戻ってしまっているかもしれない。
「当分、外交官の真似事をしろということか……それとも、間諜かな?」
焦りと自嘲を混ぜた呟きを漏らした時──書斎の扉を控えめに叩く音がした。次いで、柔らかい女の声が。
「バルトロ? 入ってもよろしいでしょうか」
「あ、ああ。もちろん」
バルトロに、祖国からの手紙を裏返すだけの時間を与えてからゆっくりと入室してきたのは、彼の妻ということになっているスィーラーンだった。印象的な緑の目が、窓から入る陽光によっていっそう輝いている。
「スィーラーン……いつでも入って良いと言っているのに」
「嬉しいお言葉です。でも、お国の方々はそうは仰らないでしょうから」
立ち上がって迎えると、彼の妻はふわり、と微笑んだ。
今日は西方風の衣装を纏って、イストリアの裕福な商家の夫人といった出で立ちだ。髪も編んだ上で頭に巻きつけて、白い項を晒している。それに、頬に広がる柘榴のような火傷の痕も。
(堂々としていると、薔薇のようだな……)
最初に会った時に、ヤシュマクというらしいヴェールをしていたのはアダムの命令ゆえたったいうことで、特に顔を見せることを嫌ってはいないらしい。これは、この三か月ほどの間に、バルトロが彼女について知った数少ないことのひとつだった。
そう、夫婦といっても、甘い語らいをするわけでもないし、当然のように寝室は別だ。書類の上ではスィーラーンはもはや自由人で、バルトロの妻ではあるのだが、その距離はまだ遠く、友人よりも他人に近い。
例えば──夫を気遣う妻なら、書斎には珈琲と菓子とか、果物水割の葡萄酒とかを携えているものだろう。だが、スィーラーンが笑顔でバルトロに差し出したのは、分厚い紙の束だった。
「各地の代理人からの報告を帳簿にまとめました。マルコに見てもらったので間違いはないと思いますが、ご確認くださいませ」
スィーラーンが振り返った先には、栗色の髪と目の若者──マルコがいた。バルトロの乳母の子で、つまりはほとんど生まれた時からの付き合いの従者だ。
「奥様がなさったんだから間違いがあるはずがないですよ。ご結婚以来、何もかもが楽になって……俺までありがたいくらいで」
マルコは最初、傷物の元奴隷が元首の息子の妻だなんて、と眉を顰めていたものだ。なのに、晴れやかな顔で請け合ったあたり、共に事務仕事をするうちにずいぶんスィーラーンのことが気に入ったらしい。
(まあ、無理もないが)
祖国と父からの無理難題を前に、バルトロが苦笑で済ませている理由もまた、彼女だった。
(クスタンティニーヤにいる間だけでなく、後宮のことに限らず、共に長く交易に携われることができたら)
そのために、妻のことをもっとよく知りたい。もっと近づきたい。彼女との関係を深めるためなら、海から離れて陸に縫い留められても良いと思う。
だが、スィーラーンは彼が知る貴婦人や社交界の女たちとはまるで違う。衣装や宝石を見る目は確かでも、自らが身に纏うのではなく誰にいくらで売るかを気にかける。甘味は嗜むていど、酒はいける口のようだが、さして親しくもないのに誘うのはどうか、と思う理性はある。
(そもそも、口説きたいわけじゃないんだ。夫婦というより、共同経営者として――)
いずれにしても、バルトロの勝手な願いには違いないから、打つ手を決めかねているところだった。
「若様が帰国される時は、奥様もイストリアにいらっしゃるんでしょう? 何も、クスタンティニーヤが故郷というわけじゃないんですから」
と、マルコがまるで主の心を読んだかのように軽い口調で踏み込んできた。バルトロは思わず紙の束を取り落としてしまう。
「マルコ。気が早い。……し、私たちは母后の命令で結婚しただけだ」
帳簿と手紙が混ざらないよう、慌てて机上に身を乗り出しながら、バルトロはマルコを軽く睨んだ。
(主に対して、不敬ではないか?)
マルコもイストリア人だから、値踏みも駆け引きもお手のものだ。あえて不躾な軽口を叩くことで、スィーラーンの反応を窺ったのだろう。バルトロへの感情を量り、今後について探るために。──それも、彼に対して気障に片目を瞑ったところからして、良い仕事をした気満々のようだ。
スィーラーンがどんな顔をしているか、当の主は顔を上げるのも怖いくらいだというのに。
「ええ。それに、イストリアの国益のため、ですね?」
だが、スィーラーンは穏やかな笑顔のままさらりと躱した。……それが良いのか悪いのか、バルトロには判断ができなかった。
書類の上で結婚して早々に、新妻は夫に融資を求めてきた。彼に、金貨十枚を借りたままにはさせない、と。
そして、半信半疑でいくらかの原資を渡したところ、何やら小物を仕入れて市井で売り捌いて、彼女自身の値以上の利益を上乗せしてきっちりバルトロに返済したのだ。
(夫婦の間でも貸し借りはなし、か。そのていどの関係ということだよな……)
流れるような口上と、鋭い観察眼。それに、非常に頼れる後宮の知識と事務処理能力。さらには、対面での物売りにも才があるらしい。
そんな、表面的な能力のほかには、彼は妻のことをほとんど知らない。形ばかりの夫のことを、どう思っているのかも。
思い悩むバルトロは、傍目には紙の整理に手間取っているように見えたのかもしれない。スィーラーンが、見かねたように白い手を伸ばし──そして、イストリアの紋章に気付いたのか引っ込める。
「何か、新しい指令でも来たのでしょうか」
「いや。後宮との橋渡し役を得たこと、空中刺繍の大規模な卸し先が見つかりそうなことを喜んでいるだけだった。高価すぎる品は、売り手を見つけるのに苦労することがあるからな」
機密に触れるのを憚る気遣いに感謝しつつ、バルトロは嘘を吐いた。今のところ、彼は出来過ぎた妻の世話になってばかり。祖国の賞賛も、本来は彼女だけが受け取るべきなのに。
(この上、また厄介ごとを命じられただなんて言えるか……!)
後宮の女商人の鮮やかな手腕をまた見たいという思いが半分、男として夫として商人として見得を張っていたいというのが半分。そんなしょうもない葛藤に気付いたのかどうか、スィーラーンは嬉しそうに声を弾ませた。
「良かった。後宮の女商人たるもの、顧客のすべてを満足させたいと思っておりますから。母后様もイストリアも──バルトロ、貴方も」
「とても満足している。貴女に会えて良かった、スィーラーン」
機会を逃さず伝えるべきことを伝えられたのは、交易で培った度胸の賜物だっただろう。
(よし、言った)
視界の端で、よくやった、と言いたげにマルコが大きく頷いているのは、知らないことにする。それよりも、気になるのはスィーラーンの反応だったが──幸か不幸か、彼女には何らの動揺も見えなかった。
「ありがとうございます。……あの、でも、難しいお顔をなさっていたようですが」
「それは──当分、海に出られなさそうだな、と思っていたから」
彼女との今後に思いを馳せていた、などとは、祖国からの難題以上に口が裂けても言えなかった。決して嘘でもない言い訳は、けれどスィーラーンの表情を翳らせてしまう。
「……私ばかり商いを楽しんでいるようで、申し訳ないですわね……?」
「いや、そんなことは……!」
慌てて取り繕おうとするバルトロに、スィーラーンは不思議そうに首を傾げた。しばし、考え込むように頬に手を当ててから、ゆっくりと口を開く。
「海を越えての交易とはまったく別でしょうが──ちょうど、街に行商に出るところなのでご一緒なさいますか? 居留区の外の暮らしを見るのも、何かの参考になるかもしれません」
帝都の民の日常も、行商で扱われる品も、庶民とのやり取りも、それぞれ興味深いに違いなかった。だが、何よりもスィーラーンについて知ることができる、という一事にバルトロは飛びついた。
「喜んで! その、貴女の邪魔にならなければ、だが」
「邪魔だなんて。旦那様の気晴らしになれば何より、ですわ」
やけに前のめりなバルトロは、餌のない釣り針に食いついた鯉にでも見えたのかもしれない。スィーラーンは、おかしそうに声を立てて笑った。




