寵姫と母后と皇帝と
冬の終わりが近づき、海に囲まれた帝都に立ち込める霧が晴れつつあった、その夜──宮殿の後宮にて催された宴で、もっとも大きな歓声と溜息を誘ったのは、母后カハラマーンの装いだった。
もちろん、母后の衣装は常に贅を凝らした豪奢極まりないものだ。
金糸を織り込んだ内衣、精緻な刺繍を施した上衣の見事さはもちろんのこと、幅広の飾り帯には隙間なく金剛石や真珠が縫い取られ、獅子の鬣を思わせる濃い金色の髪では、青玉や緑柱石、紅玉で造られた孔雀が堂々と羽を広げている。
けれど、何よりも珍しく美しく輝かしいのは、上衣の上からさらに肩にかけた織物だった。
単に経糸と横糸を組み合わせたものでは絶対にない、自由自在に絡み合う細い絹糸が、繊細な模様を織りなしている。
花や枝葉、そこに止まる鳥。ところどころに宝石が縫い留められ、金糸銀糸で煌めきを添えられたそれは、朝露の下りた蜘蛛の巣を生地にしたかのよう。あるいは、装飾模様を平面から掬い上げて形にしたかのよう。
手に取れば雪のように儚く消えるのでは、と見る者に思わせるほどに繊細で、糸の隙間から見える上衣の絢爛さをいっそう際立たせる。贅に慣れた後宮の女でさえも息を呑んで見蕩れるほどの逸品だった。
皇帝ジャフェル以下、並みいる寵姫や宦官、女官や奴隷の眼差しを一身に受けて、後宮の女主人は誇らかに笑った。
「空中刺繍と言うのだとか。イストリアが最近売り出し始めた技法とのこと、妾の新しい女商人を通じて取り寄せさせた」
母后が漏らした生地の出自を、女たちはしっかりと心に刻んだだろう。新たな珍品を求めて彼女たちは母后にひれ伏し、その女商人の懐はますます潤うことになる。
「まあ、なんて繊細で美しい──」
「豪奢なのに軽やか、こんな生地は見たことがございません」
「さすがは母后様……!」
後宮のもっとも奥の、皇帝のためのもっとも壮麗な広間は、高価な香と香辛料と、女たちの嬌声に満ちていた。笑いさざめく美姫たちで目と耳を愉しませているのだろう、寵姫の酌で杯を重ねる皇帝ジャフェルも上機嫌の様子だった。
広間で機嫌の悪い者がいるとしたらただひとり、皇帝の隣に侍る寵姫シェフターリだけだっただろう。
(イストリアの生地が、後宮の流行を主導するなんて……!)
イストリアの宿敵ゼーナの出身の美姫は、内心で密かに歯軋りをしていた。けれどもちろん、表に出すのは春の薔薇のような甘く美しい微笑みだけだ。
「そのように頼りない生地、シェフターリは心配ですわ。まだ朝晩は冷えますのに、母后様がお風邪を召されてはいけません」
シェフターリの囀るような声に応じて、彼女の女奴隷が生地を捧げ持って母后の前に進み出た。
「ゼーナから献上された毛織物です。どうぞお納めくださいませ」
上質の羊毛を緻密に織り上げたその献上品も、後宮に相応しい奢侈品だった。けれど、母后は熱のない一瞥だけで済ませた。薔薇の微笑の陰に潜んだ棘を見抜いたからだろう。
「感心な心掛けだ、寵姫シェフターリよ。老いた奴隷にはまたとない贈り物であろう」
年甲斐もなく無理をして薄着をするな、という当て擦りは、美しく傲慢な微笑で一蹴された。お前からの献上品など奴隷に使わせるていどのものでしかない、と。
(眼中にない、振りをしているのね? 驕り高ぶって油断してくれているはずはないもの)
いまだ子のない寵姫の身では、母后とは軽く打ち合っただけで引き下がるほかない。シェフターリが恭しく頭を垂れると、カハラマーンはにこやかに息子に語りかけた。
「無地では少々地味だったので、銀糸と宝石で飾らせたのだ。針を取ったのはそこの娘だ。──ジャフェル、褒美を与えてやりなさい」
母后に言われて皇帝の前に進み出たのは、黒い髪の美しい娘だった。シェフターリを牽制するために送り込もうというのだから、手先が器用なだけでなく賢くもあるのだろう。
(でも、目は緑じゃないのね)
広間の無数の輝きを吸い込むような、その娘の漆黒の目も、やはり美しかったのだけれど──シェフターリの心を騒がせはしない。かつて彼女の傍で煌めいていた、珍しい緑の柘榴石に比べれば、大したものではない。
「はい、母上。──これが欲しいのであろう。今宵、そなたの寝場所は余の寝台だ」
だから、ジャフェルが宝石を包んだ手巾を黒髪の娘に投げ渡し、寝所へ招く意思を示しても、彼女は何ら動揺しなかった。
母后を始め、女たちの目が素早く彼女を窺っても、怯むことなく朗らかに笑うことができる。
「今宵の陛下は貴女のものね、幸運な方……! ねえ、珈琲ではなく、葡萄酒の注ぎ方は知っていて? 私がお手本を見せてあげましょう」
葡萄酒を湛えた壺を抱えて、シェフターリはジャフェルの傍に擦り寄った。
「シェフターリ。皇帝に度を外させてはならぬ」
もちろん、出過ぎた真似にカハラマーンは眉を寄せるけれど──
「良い良い、参れ。シェフターリも、そこの者も。美姫の酌でますます酒も旨くなるであろう」
皇帝その人からの許しを得て、シェフターリは堂々とジャフェルにしなだれかかった。彼女の反対側では黒髪の娘がおずおずと真似をしたようだけれど、意に介さない。彼女の相手は、獰猛な雌獅子のような美しくも恐ろしい母后だけだ。
「預言者様が酒の害を戒められたこと、もちろん存じておりますわ。ですが、害あるものを神が地上にもたらすはずはございません。まして、カザール帝国の皇帝とあろう御方が、神の作りたもうたすべてを享受するのは当然のこと」
不遜と不敬を極めた詭弁を、けれど母后は喝破することはできない。なぜなら、同じ方便で息子を酒と女に溺れさせたからだ。
高官同士の力関係、諸外国の思惑、庶民が抱く不満や、統治下の諸民族の間の軋轢──そんな面倒なことには興味を持たないように。母の言葉を聞いていれば何も問題ないと言い聞かせて。
「そうだ、シェフターリ。余は皇帝である。──母上のお陰を持ちまして、な。忘れてはおりませんからご心配なく」
皇帝ジャフェルは、気付いていない。
何も問題ない、と言い聞かせるのが、近ごろは母よりも寵姫になってきていること。その寵姫の可憐な唇が、ゼーナら吹き込まれたねだりごとを囁いていること。大恩ある母と愛する寵姫が、美しい微笑の陰で敵意の刃を激しく切り結んでいること。
(貴女が暗愚に育ててくれたお陰ね? やりやすくて助かるわ?)
愛らしく小首を傾げて、にこりと笑んだ唇に浮かべた嘲りは、母后に正しく伝わったらしい。カハラマーンの威厳ある声が、微かな怒りと苛立ちで揺れた。
「……孝行な息子が至尊の位に上ったのは、妾の至上の喜びであり幸せである。末永く、そのままでいておくれ」
「もちろんです。母上もどうかいつまでもお美しく健やかで──」
ジャフェルは、母に杯を掲げてみせると、ひと息に飲み干した。そこへ、シェフターリはまたなみなみと葡萄酒を注ぐ。
母后の推したお針子が、今宵の伽を務めるのは避けられない。けれど、皇帝の関心は絶対に渡さない。
(さあ、どんどん飲みなさい。酔い潰れて、朝までぐっすり眠るのよ……!)
美しい女奴隷のしなやかな髪も柔らかい肌も熱い唇も、葡萄酒で洗い流すのだ。そうすれば、この男のことだから、一度見ただけの娘の顔など忘れるだろう。
そして、閨に呼ばれながら何もなかった惨めな娘は、哀れまれ蔑まれて無数の奴隷の中に沈んでいくのだ。
美姫ふたりに挟まれた皇帝は、その後も機嫌よく宴を楽しみ杯を重ねた。ようやく寝所に向かった時には、左右を宦官に支えられなければまともに歩けないような有り様だった。
* * *
皇帝の寝所を覗かせた宦官は、ジャフェルは着飾らせられた娘を置き去りにして高いびきだ、と報告してきた。
「そう。良かった」
褒美の金貨を放りながら、けれどシェフターリの声は硬かった。
皇帝の寵愛を一身に集める彼女におもねる者は多く、母后もその勢力を無視できないまでになった。祖国の女の栄達を知ったゼーナも、陰に日向に彼女を助けてくれている。
とはいえ、これで安泰、とはとうてい言えない。子がないうちは彼女はまだ夫人ではなく、けれど迂闊な時期に懐妊しようものなら、母后は本格的に目障りな寵姫を消しにかかるだろう。
エステル・キラを消したことで、母后は後宮の外と伝じる術をひとつ失った。その隙に、シェフターリの勢力を伸ばせると思っていたのに。こんなに早く、新しい女商人を見つけるなんて。しかも、その女商人がイストリアの後ろ盾を持っているなんて。
さらには、ヴェールで顔を隠して母后のもとに出入りするその女商人が、緑の目を持つ若い女だというのだから気に入らない。
(まさか。まさか、ね……。でも、その女は顔に傷があるとも言っていたとか……!)
奴隷たちに傅かれて髪や肌の手入れをされながら、シェフターリは必死に考えを巡らせた。首尾良く葬り去ったと思っていた競争相手が、再び彼女の前に姿を見せたのかどうか。あの女──スィーラーンは、彼女を怨んでいるかどうか。
(どうでも良い。私の邪魔をするなら誰でも、何度でもやってやる……!)
海賊に攫われて絶望したのは、ほんの一瞬だけだった。持参金を捻出する余裕のない貧乏貴族の娘は、どうせ修道院の厚く冷たい石壁の中で生涯を終えるのだから。同じ鳥籠なら、豪奢なもののほうが、良い。
最初に売られた高官の邸宅で味わった贅は、シェフターリを魅了した。皇帝に見初められればもっと、と聞かされて、寵姫、ひいては母后の座を目指して励もうと決意した。
そして今や、ゼーナの大使、名家の出のダンテ・スピノラでさえ彼女の下僕だ。
(エステル・キラを消しただけで油断するなんて。詰めが甘いのよ……!)
あの男と直に会って話がしたかった。彼女が抱く危機感を、一刻も早く伝え、不手際を叱ってやりたいのに。
とはいえ、後宮の女が外の男、それも、異国の外交官と会うのは非常に難しい。皇帝に対する不義か、外国との密通か──いずれにしても、母后に攻撃の隙を見せてはならない。
(それなら──)
策を練りながら目を閉じるシェフターリは、傍からは無防備に横たわる美姫としか見えなかっただろう。
桃は、齧ってみるまで虫が沸いているかは分からないもの。そして、腐り落ちる寸前にこそいっそう芳しく香るものだ。




