第1話 女商人の死
エステルが掌に載せた紅玉を見て、スィーラーンはひどく傷ついた。
鶉の卵ほどの大きさに、血のように鮮烈な赤。中心に六条の星を抱いた見事な一粒――けれど、その星は大きな罅によって無残に割れている。
(まるで、私みたい)
皇帝の宮殿に納められるべき至宝だったもの。けれどもはや砕くしかない傷もの。
皇帝のターバンの中心や短剣の柄頭を飾ったり、長衣の釦に使われたりの栄誉ももはや遠い。
「これは、ジャンダルの古戦場で見つかった奇跡の宝玉だ」
紅玉と同じく傷ものの奴隷、十六の処女にはあり得ない安値で投げ売りされたスィーラーンを買ったもの好きな女商人――エステルは、けれど、褐色の目を朗らかに笑ませて歌うように言った。
「そう、かのバヤズィト帝が、矢のごとく降る雷の中で夜襲を成功させたあの戦場だ。この赤は敵の血で染まったのだろうし、この罅は征服帝を導いた雷に撃たれてできたものだろう。帝国の勝利を見届けた、まことにめでたい石じゃあないかね? 身に着けていれば、きっと持ち主に加護をもたらすことだろう」
女にしてはやや低く、少し掠れた声は、それでも抑揚に豊んで、スィーラーンはわけが分からないまま聞き入った。奴隷らしく俯いて、顔を伏せたまま。
やり手の女商人だというエステルの屋敷はどこもかしこも眩しくて、直視してしまうと惨めな身の上がいっそう身に染みそうだったから。
彼女が座らされているのは、クッションも柔らかい西方風の長椅子。供された珈琲を湛えるのは、遥か東方から割れずに届いた青磁の器。
足もとに敷かれるのは名高いペルスの織物、室内を照らすのはイストリアが誇る色硝子のシャンデリア。
四方の海と大陸の交易路の交差点に位置する交易の要衝、カザール帝国の中心にして歓喜と幸福に満たされた輝かしい皇帝の御座所、帝都クスタンティニーヤを象徴するような一室だった。
(なのに、どうして……?)
傷ものの奴隷も紅玉も、わざわざ扱う必要はないだろうに。
と、声に出さない疑いの念を読み取ったのか、エステルは息を継ぎがてら、スィーラーンの頬に軽く手を添えて上を向かせた。
「――と、申し上げたら皇帝はお気に召したご様子でね。指輪にするとの仰せだった。これから宮殿の工房に持ち込むところだよ」
顔を見られたことへの羞恥。それに、傷もののくせに宮殿に迎えられるという紅玉への嫉妬が、スィーラーンの胸を焼いた。
熱は、恐ろしくて怖くて嫌なもの。思い出したくもないもの。だから、慌てて首を振って、熱からもエステルの手からも逃れようとしたのだけれど――許されない。
「詐術だわ」
「商売だ。貴いお客に、喜んで金を使っていただくための、ね。それで下々も潤うんだから素敵なこと、戦艦や大砲に使われるよりはよほど良い話だろう」
奴隷の口答えに怒ることもなく、エステルの目も声も表情も、ひどく真剣なものだった。
「この紅玉に劣らぬ逸話をあげよう。あんたは強く賢く勇気ある娘だ。皇帝が手に入れ損ねたのを悔やむほどの至宝におなり」
「私、は――」
強くも賢くもないし、顔を人目に晒す勇気さえない。皇帝に惜しまれるどころか、その視界に入ることすら思いもよらない。
スィーラーンの弱々しい反論には構わず、女商人は自信たっぷりに笑った。
「後宮の女商人の手腕を見せてあげよう」
* * *
帝都クスタンティニーヤに名高い女商人、エステル・キラが死んだ。
冬の夜、酒も交えた商談の帰り道でのこと、深い霧と酔いによって足を踏み外して海に落ちた。朝になって見つかった時、その赤い髪は炎のように水中に揺らめいていたという。
エステルの肉体は、石の棺に納められてもはや冷たい土の中。表情豊かな目は永遠に閉ざされたし、スィーラーンの頬を筋ばった指で撫でてくれることも、もうない。
それは、悲しいことだけれど――あいにく、涙にくれる暇は彼女にはなかった。スィーラーン自身にもエステルの商売にも屋敷にも、あまりに多くの変化が起きたから。
例えば――かつては、後宮に出入りし、母后の覚えもめでたいエステルを頼って、屋敷には客が絶えないものだった。
けれど、今の屋敷に響くのは、女主人の朗らかな笑い声でも、客が紡ぐ異国の言葉でもない。良い年をして癇癪を起した男の、怒りに引き攣り裏返った聞き苦しい怒鳴り声だ。
「――スィーラーン! 見苦しい格好でうろつくなと言っただろう!」
その男は、喚くと同時に大きく腕を振り、スィーラーンの頬を張った。
「俺は奴隷を甘やかさないぞ。お袋が死んだ以上は調子に乗るのはもう終わりだ!」
屋敷の廊下、砂漠渡りの高価な絨毯が敷かれた床に倒れ伏した彼女を睨め下ろす男の名は、アダム。エステル・キラが早くに亡くなった夫との間に儲けたひとり息子だった。
(調子に乗っているのはお前のほうではないの? 食うに困らないだけの財産を遺されたのでしょうに)
エステルの屋敷は、帝都を南北に分ける細長いハリチュ湾の北岸の、外国人居留区に位置する。諸国が商館や大使館を置く石造りの街並みに馴染む、西方風の瀟洒な屋敷だ。
けれど、西方風なのは外観だけ。
宝石、香、磁器に陶器。新しい織りや刺繍の絹に、精緻を極めた細工物。時には珍奇な鳥獣の剥製まで――かつてスィーラーンの目を眩ませた通り、内部は四海四方の名品が、それぞれの美や由緒を誇って燦然と輝いている。……エステルの死後もその輝きが散逸しないかどうか、非常に疑わしいと彼女は思っているのだけれど。
「お言いつけの通り、ヴェールを纏っておりますが?」
痛みと怒りを噛み殺し、ゆっくりと立ち上がった彼女が外気に晒すのは、深い緑の双眸くらいだ。顔と髪は、薄布を巻きつけて隠し、さらにはゆったりとした外衣で全身を覆っている。
帝国の国教、預言者の教えの厳格な信徒でも、戒律に適うと頷くだろう。
(どこが見苦しいというの?)
引きも切らずに訪れる弔問客の対応で、奴隷も使用人も忙しい。スィーラーンだって、仕事を命じられたところだったのに。
言いがかりをつけるのか、という言外の非難は存分に伝わったのだろう、アダムはスィーラーンに指を突き付けてさらに声を張り上げた。
「そ、その目付きだ……主人に対するものじゃない!」
亡き主の子――新たな主を真っ直ぐに見返す態度は、確かに奴隷のものではないかもしれないけれど。でも、スィーラーンにはアダムを認めない十分な理由がある。
(エステル・キラともあろう者が、あんな死に方をするはずがない。弔問客の中に、母親を殺した相手がいるかもしれないのだって、気付いているでしょう……!?)
自身を通じて皇帝を操ろうと企む者の誘いを、エステルはことごとく断っていた。国の乱れは民の暮らしを困窮させ、まともな商売の妨げとなるから。
まともでない商売――戦乱に商機を見出す者が、邪魔ものさえいなければ、という発想に至ったとしても何の不思議もないのに、アダムが母の死について追及する気配はない。
それは、怯えているからではないだろう。
(たとえ下手人だとしても、ゼーナと組んだら美味しいとでも思ったんでしょう)
ゼーナは、利に聡く手段を選ばないことで悪名高い商人の国だ。その大使は、早くもこの屋敷を訪れて形見分けと称して宝飾品を持ち帰っていた。
(情より利を取ったつもり? だとしても、もったいぶって気を持たせて、貢がせれば良いのに。下手に出るなんて交渉下手にもほどがある……!)
スィーラーンに言わせれば、アダムは母に似ていない。エステル・キラの後継者には相応しくない。無言で睨みつける女奴隷に気圧されて、あっさり狼狽えて声を揺らがせるのがその証拠だ。
「傷もののくせに。もっとしおらしくしろ。そうすれば買い手を探してやるのに……!」
「買い手を探す?」
エステルに拾われてから、もう六年。あの教えは、スィーラーンの芯にまで染みついている。
常に強く賢く勇敢に、そして堂々と前を向いて。お前にはそれだけの価値がある。
そう言ってくれた女商人の眼力に、磨いてくれた手腕に、応えなければ。
「貴方様が? 目利きもできず伝手もないのに?」
「な――」
あろうことか奴隷に鼻で笑われて、アダムが絶句した隙に、スィーラーンは優雅に一礼して去った。




