霊鏡の朝、出会いと沙霧村へ
――夜は、すべてを奪う。
けれど同時に、何かを始める場所でもある。
これは、炎に居場所を奪われた一人の少女が、
人ならざるものの棲む森へと迷い込み、
“生き延びる理由”を拾い上げるまでの物語。
名も知らぬ世界、霊鏡。
人と妖の境が曖昧なその森で、
少女はまだ、自分が何者になるのかを知らない。
これは――
運命が静かに動き出した、第一夜の記録である。
スズメの鳴き声が、木々の間をすり抜けて耳に届いた。
「………っ!……あれ?……」
亜由はふいに目を開けた。
そこで感じた温かい光と、どこか柔らかい空気。昨夜とは明らかに違う世界だった。
「……あ、そうだ……あの妖怪さんに……」
目を細め、横を探る。
しかし、昨夜自分を助けてくれた――あの ナチカ の姿は、どこにもなかった。
「……あの妖怪さん、ナチカさんは……?」
うっすらと胸の奥にあった安堵は、消えかけた不安へと取って代わられた。
「……夢……?」
そう呟いたその時、山小屋の古い扉がガラガラと音を立てて開いた。
「……起きたか……」
大きな木の枝をたくさん抱えて、ナチカが入ってきた。
大きな尻尾を揺らし、風を纏いながら。
「ナチカさん……それは?」
亜由の視線が、ナチカの抱えた枝を見る。
「ナチカでいい……薪を集めてた……」
ナチカは無表情のまま、淡々と答える。
「……夜は冷えるから……たくさん必要……」
薪を脇に置き、ナチカは亜由の方へ視線を移した。
「……今日は……あの方に亜由を見てもらうから……それ、食べて準備してて」
「え、あ……はい……」
置かれた小さな器に、昨日拾った山菜と穀物の煮込みが温かく盛られていた。
その匂いは、亜由の長い間忘れていた “安心” を呼び起こした。
一口、二口と噛みしめる。
噛むたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……美味しい……ご飯なんて久しぶり……」
涙が出そうになるのを、亜由は必死で堪えた。
食事を終えた亜由とナチカは、山小屋の外へ出た。
「ん……」
ナチカが一度肩に背負うような素振りを見せた。
「え?……」
亜由が首を傾げる。
「……背中に背負ってあげる……そのほうが早い」
「えっ?あ、はい……」
不思議な申し出だったが、亜由は素直に頷いた。
ナチカの身に不安はない――そんな妙な信頼が、亜由の胸に芽生えていた。
――そして。
「わっ!?」
驚く間もなく、足元から風が駆け上がる。
まるで空を滑るような速度で、二人は森を抜けていく。
「……これならすぐに沙霧村に着く……」
ナチカは背中に安定した歩みを保ちながら、淡々と告げる。
「す、すごいです……ナチカさ……ナチカ……」
息が追いつかないほどの速さなのに、揺れは感じなかった。
まるで風そのものが、二人を運んでいるようだった。
「でしょ?……もうすぐ……山の麓」
「わぁ〜……っ!」
視界が一気に開け、強い日差しが亜由の瞳を包んだ。
あまりの光に、思わず目を閉じてしまう。
「……麓についたよ。」
ナチカの声が、柔らかく告げた。
「っ……はい……あの……あのお方って、誰なんですか?」
亜由は立ち止まり、ナチカを見つめる。
「……あのお方は」
その時、どこからともなく声がした。
「……あら〜?珍しいわね〜、あなたが他の人といるのは」
二人の前に、腰まで伸びた茶色い髪を揺らす女性が現れた。
「何しに来た?土転び」
ナチカは軽く会釈し、ナチカが土転びと言った女性は言う。
「もぅ、私のことを種族名で言わないでちょうだい?私はツツジよ!それで?その子は」
亜由は一瞬きょとんとしながらも、答えた。
「……亜由です。」
「亜由ちゃんね……ここらじゃ見ない顔だけど、孤児院の子?」
「違う……この子は迷い人」
ナチカが静かに教える。
「まぁ、あ、それであの方のところに見せに行くのね?」
ツツジは軽く頷いた。
「……あの方って、偉い人なんですか?」
亜由の問いに、ツツジはくすっと笑った。
「そうねぇ、そういう解釈もできるわねぇ」
ナチカが補足する。
「……あの方、源梓様は源家の分家の末裔で……妖怪と人間の共存を願う一族」
「人と妖怪の……」
亜由の声がこぼれる。
「えぇ、ここも、その梓様が鏡様に願って作ってもらったのよ」
ツツジは柔らかく説明した。
「……そうなんですね。すごい方です……」
亜由は目を輝かせる。
「うん、すごい人だよ。」
ナチカも頷いた。
「沙霧村に行くのよね?邪魔してごめんなさいね。」
「別に構わない。それじゃあ。」
ツツジは笑顔で手を振り、去っていった。
「えぇ、たまには遊びに来てよね。」
「……考えとく。」
ナチカは少しだけ笑みを見せた。
そして、ナチカは再び亜由を背負うと、風のような速度で走り出した。
「っ!……」
風が二人を包み、山道を駆け抜ける。
やがて、木々の間から開けた場所が現れた。
「……着いた………ここが沙霧村。」
亜由の目に、大きな村の風景が広がった。
人と妖怪が、肩を並べ、笑い声を交わしながら行き交っている。
「わぁ〜……人と妖怪が一緒に暮らしてます!」
亜由の声は、驚きと嬉しさに満ちていた。
「そう……そういう場所だから。」
ナチカは静かに微笑んだ。
その背には、次の物語への光が射していた。
この夜では、
恐怖の中にあった亜由が、初めて「朝」を迎えます。
それはただ夜が明けたというだけでなく、
彼女の心に、ほんのわずかな余白が生まれた瞬間でもあります。
ナチカは多くを語りません。
けれど、薪を集め、食事を用意し、背中を貸す――
その一つ一つが、
「ここにいていい」という無言の肯定になっています。
沙霧村は、人と妖が共に生きる場所です。
それは理想であり、同時にこの世界が抱える矛盾の象徴でもあります。
亜由がこの光景をどう受け止め、
どんな選択をしていくのかは、まだ誰にも分かりません。
けれど確かなのは、
彼女はもう一人ではないということ。
この出会いが、
この朝の光が、
やがて彼女の中で“強さ”へと変わっていく――
その過程を、これからも見届けていただけたら幸いです。
次の夜では、
霊鏡という世界の奥深さと、
亜由自身の「在り方」が、少しずつ明らかになっていきます。
また次の夜で、お会いしましょう。




