ーー天狗の山と修行の予兆ーー
――夜は、すべてを奪う。
けれど同時に、何かを始める場所でもある。
これは、炎に居場所を奪われた一人の少女が、
人ならざるものの棲む森へと迷い込み、
“生き延びる理由”を拾い上げるまでの物語。
名も知らぬ世界、霊鏡。
人と妖の境が曖昧なその森で、
少女はまだ、自分が何者になるのかを知らない。
これは――
運命が静かに動き出した、第一夜の記録である。
山の空気は、麓とはまるで違っていた。
鞍馬第二山の登山道を、亜由たちはゆっくりと登っていく。
山の斜面には巨大な杉が立ち並び、風が吹くたびに葉がざわめく。
先頭を歩く六花は、相変わらず元気いっぱいだった。
「もうちょっとだよ~!」
くるりと振り返って笑う。
その後ろで、亜由は少し息を整えながら歩いていた。
「はぁ……」
山道を見上げる。
「……この山には」
ふと疑問が浮かぶ。
「天狗以外の妖怪はいないんですか?」
六花がすぐ答えた。
「ん?」
にこっと笑う。
「いるよ~」
亜由は少し驚いた。
「そうなんですか?」
六花は頷く。
「みんなの山でもあるからね!」
雷が後ろから補足する。
「……天狗軍の本拠地があるだけの大きい山」
低い声で続ける。
「だから、いろんな妖怪が住んでる」
亜由は感心した。
「そうなんですね」
ナチカが少し考える。
「たしか」
顎に手を当てる。
「この山にいる有名なのは……」
少し間を置いた。
「河童くらいかな」
亜由は首をかしげた。
「河童……ですか?」
ナチカは説明する。
「ん」
「相撲と子供ときゅうりが好きな妖怪」
亜由は思わず笑った。
「きゅうり?」
ナチカは頷く。
「人間に魚のとり方を教えてくれたりする」
亜由は目を輝かせた。
「そうなんですね」
そのとき。
足元の石が転がった。
「わ、わわっ!」
亜由の足が滑る。
体が斜面へ傾いた。
その先には――
小さな池。
「きゃっ!」
体が落ちていく。
「亜由!」
ナチカが叫ぶ。
その瞬間。
池の水面が揺れた。
声が響く。
「危ないぞぉ~」
水面から長い腕が伸びる。
「池の中に引き込むぞぉ」
その腕が、亜由の体を掴んだ。
ぐいっと引き戻す。
亜由は地面に着地した。
「はっ……!」
息を整える。
六花が駆け寄る。
「亜由、大丈夫?」
亜由は慌てて頷いた。
「あ、はい……」
そして池を見る。
「この腕の妖怪さんは……?」
雷がぽつりと言う。
「おばば……」
亜由はきょとんとした。
「おばば?」
ナチカが説明する。
「手長婆」
池を指す。
「池や井戸のそばで遊んでたりする子をおどして戒める妖怪」
池の水面から、ゆらゆらと長い腕が揺れる。
「気をつけてねぇ」
優しい声だった。
亜由は深く頭を下げる。
「あ、ありがとうございます」
そのとき。
池の向こうから声がした。
「危ないところでしたね」
白い影が近づいてくる。
足先まで伸びた長い白髪。
少女の姿をした妖怪だった。
六花が手を振る。
「あ!」
「幽奈ちゃん!」
ナチカが亜由に言う。
「妖怪」
「しらみゆうれんの幽奈」
池を指す。
「この池に住んでる」
亜由は改めて頭を下げた。
「はい、助けてもらいました」
幽奈はにこにこしている。
「うんうん!」
手を振る。
「おばばは子供好きだから!」
そして首をかしげる。
「それで、君たちは登山?」
雷が答えた。
「ううん」
亜由を見る。
「鞍馬天狗に亜由の妖力の使い方を教えてもらいに来た」
幽奈の目が輝く。
「あぁ!」
嬉しそうに言う。
「修行!だね!」
拳を握る。
「頑張って!」
亜由も元気に答えた。
「はい!」
手長婆の腕が水面から揺れる。
「頑張るんだよぉ~」
亜由はふと疑問を口にした。
「手長婆は」
池を見る。
「腕だけなんですか?」
幽奈が笑う。
「ん?」
そして水面を指した。
「あぁ」
「子供が好きなくせに恥ずかしがりやなの」
くすっと笑う。
「本体は水中」
亜由は納得した。
「そうなんですね」
幽奈は頷く。
「うん!」
六花が手を叩いた。
「それじゃあ!」
元気いっぱいに言う。
「再開だよ~!」
そして走り出す。
亜由は慌てた。
「あ!」
「待って~!」
二人の背中が山道を駆け上がる。
幽奈はそれを見て笑った。
「楽しそうですね」
雷は肩をすくめる。
「騒がしい方だよ」
少し間を置く。
「ご主人は」
ナチカも小さく笑った。
「まぁ、そうだけど」
亜由の背中を見る。
「元気なのはいいこと」
軽く手を振る。
「それじゃ」
幽奈も手を振った。
「うん!」
手長婆の腕も揺れる。
「気をつけるんだよぉ」
ナチカと雷は山道を駆け上がった。
――――――
それからしばらく。
山道はどんどん険しくなっていく。
岩場を越え、橋を渡り、霧の道を抜け――
ついに。
視界が開けた。
亜由は息を呑む。
「ここが……」
巨大な鳥居。
石段。
その奥に広がる壮大な社。
六花が誇らしげに言った。
「うん!」
「天狗の住処!」
両手を広げる。
「鞍馬神社だよ!」
亜由は目を丸くした。
「おっきいですね」
ナチカも周囲を見渡す。
「ん」
静かに言う。
「霊鏡では最大」
雷がふと呟く。
「私とご主人が出会ったのは」
この山を見る。
「この山」
亜由は驚いた。
「そうなんですね」
六花が笑う。
「うん!」
雷を見る。
「怪我してたから助けたんだ」
雷は小さく頷いた。
「うん」
少し間を置く。
「助けられた……」
遠くを見る。
「優しくしてくれた人間は初めてで」
静かな声。
「いい人間もいるって知った」
そして亜由を見る。
「亜由」
少し照れくさそうに言う。
「ご主人の友達……」
「だからいい人」
亜由は笑った。
「……うん!」
そのとき。
低い声が響いた。
「来たか」
巨大な影が社の奥から現れる。
赤い顔。
長い鼻。
巨大な翼。
六花が嬉しそうに叫んだ。
「あ!」
「鞍馬天狗!」
鞍馬天狗はゆっくり頷いた。
「うむ」
腕を組む。
「お主らのこと」
「他の天狗から聞いている」
亜由を見る。
「その娘に妖力の使い方を教えたい」
少し間を置く。
「そうだな」
六花が元気に答える。
「はい!」
鞍馬天狗は亜由を見る。
鋭いが、優しい目だった。
「娘」
低い声。
「それでいいな?」
亜由は力強く頷いた。
「はい!」
鞍馬天狗は満足そうに頷いた。
「うむ」
「良かろう」
そして言った。
「まずはゆっくり休むといい」
空を見上げる。
「疲れていては修行に集中できんからな」
六花が笑顔になる。
「鞍馬天狗!」
「ありがと!」
鞍馬天狗は小さく笑った。
「なに」
「弟子の頼みだ」
そして亜由を見る。
ほんの一瞬、真剣な目になる。
「それにその娘……」
小さく呟いた。
「これは感だが……」
遠くを見る。
「やがて大きな妖術の使い手になるだろう」
亜由は驚いた。
「え?」
鞍馬天狗はさらに小さく呟く。
「もしかしたら……」
「あの安倍晴明をも超えるやも……」
六花が首をかしげた。
「なにか言った?」
「鞍馬天狗?」
鞍馬天狗はすぐに首を振る。
「いや」
「なんでもない」
そして天狗たちに命じた。
「お前たち」
翼を広げる。
「場所を用意せよ」
周囲の天狗たちが一斉に頭を下げた。
「はっ!!」
こうして――
亜由の天狗修行が始まろうとしていた。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




