――八岐の巫女――
――夜は、すべてを奪う。
けれど同時に、何かを始める場所でもある。
これは、炎に居場所を奪われた一人の少女が、
人ならざるものの棲む森へと迷い込み、
“生き延びる理由”を拾い上げるまでの物語。
名も知らぬ世界、霊鏡。
人と妖の境が曖昧なその森で、
少女はまだ、自分が何者になるのかを知らない。
これは――
運命が静かに動き出した、第一夜の記録である。
八岐神社の境内。
石畳の上に立つ亜由は、目の前に現れた女性を見つめていた。
長く流れる黒髪。
白と朱の巫女装束。
柔らかく微笑むその姿は、まるで神話の中から現れた存在のようだった。
亜由は思わず呟いた。
「……とてもきれいな方ですね」
「巫女さん、ですか?」
隣にいるナチカに尋ねる。
しかし返事はない。
「ナチカ?」
亜由が振り向くと――
ナチカは深く頭を垂れていた。
まるで主君に対する礼のように。
その様子に亜由は戸惑う。
「え……?」
巫女の女性はくすりと笑った。
「ふふっ」
「そこまでかしこまらなくていいのよ?」
優しい声だった。
だがナチカはすぐには顔を上げない。
やがて小さく言った。
「……この方は」
「梓様と同格の方……」
一度言葉を切る。
そして静かに続けた。
「日本最古の妖怪――」
「ヤマタノオロチの娘」
「オロチ様」
亜由の目が大きく開いた。
「え!?」
「最古……!?」
目の前の女性は柔らかく微笑んでいる。
とても恐ろしい存在には見えない。
だが、空気の奥に確かな威厳があった。
オロチは小さく頷いた。
「えぇ、そうですよ」
「そんなに驚かなくても大丈夫」
「ここで立ち話もなんですから」
彼女は社殿の方へと手を向けた。
「中へどうぞ」
「ナチカさんも、そろそろ頭を上げてください」
「私が恥ずかしいですから」
亜由は慌てて頭を下げた。
「は、はい……!」
ナチカもゆっくりと顔を上げる。
「……」
神社の内部。
居間のような部屋だった。
畳の香りが落ち着く。
窓の外では風鈴が静かに揺れていた。
オロチは座布団を並べながら言った。
「どうぞ、お座りください」
亜由はぺこりと頭を下げて座る。
「はい!」
ナチカは少し離れた場所に静かに座った。
オロチは亜由を見つめる。
その視線はとても穏やかだった。
「迷い人……亜由さん?」
「何があったのかは、梓から一部は聞いています」
少しだけ真剣な表情になる。
「ですが、よければ」
「詳しく話してもらえますか?」
亜由はうなずいた。
「……はい」
そして亜由は語った。
自分が暮らしていた集落のこと。
半妖たちの村だったこと。
そして――
突然現れた陰陽師の軍勢。
燃え上がる家。
叫び声。
逃げる人々。
父と母の姿。
気づいたときには、
森の中を一人で逃げていたこと。
倒れたところをナチカに助けられたこと。
すべてを。
話し終えるころには、部屋は静まり返っていた。
オロチはしばらく目を閉じていた。
やがてゆっくりと口を開く。
「まあまあまあ……」
「それは大変でしたね」
優しい声だった。
「さぞ辛かったことでしょう」
亜由は少しだけ目を伏せる。
だが次の言葉で、胸の奥が温かくなった。
「でも――」
「ここはすべてを受け入れる場所」
オロチは柔らかく微笑んだ。
「いつでも、いていいんですよ」
亜由は顔を上げた。
「……はい!」
オロチは続ける。
「ここにはね」
「別の場所から来た妖怪も」
「別の時代から流れ着いたものも」
「たくさんいます」
少し楽しそうに言った。
「だから」
「これ以上増えたところで困りません」
そして小さく笑う。
「むしろ――」
「楽しくなりそうですから」
亜由も思わず笑った。
それから三人は、
しばらく色々な話をした。
霊鏡のこと。
村のこと。
妖怪たちのこと。
気がつけば――
外はすっかり夕暮れになっていた。
神社の庭。
空は茜色に染まっている。
亜由は深くお辞儀した。
「ありがとうございました!」
ナチカも小さく頭を下げる。
「……ん」
オロチは優しく手を振った。
「また来てくださいね」
「いつでも歓迎します」
亜由は元気よく答える。
「はい!」
二人は神社を後にした。
長い石階段を降りる。
向日葵平原は夕日に染まっていた。
風が吹くたび、
花がゆっくり揺れる。
ナチカがぽつりと言った。
「……会えてよかったね」
亜由は笑う。
「うん!」
「すごく優しい人でした!」
やがて二人は沙霧村へ戻ってきた。
夜の村には灯りがともり始めている。
店じまいをする商人。
帰路につく人々。
その横を二人は歩いていく。
――そのころ。
村の奥。
人気のない路地裏。
暗闇の中で、
何かが蠢いた。
黒く歪んだ影。
細く長い腕。
濁った声が漏れる。
「……髪……」
「髪……髪……」
「食わせろ……」
闇の奥で、
赤い目が光った。
「……黒髪」
「見つけた」
影はゆっくりと、
路地の外へ這い出した。
その視線の先には――
まだ何も知らずに歩く、
亜由とナチカの姿があった。
ここまで読んでくれてありがとうございます。
次回もお楽しみに




