浮上する欲望
『もしも透明人間になったら何する?』
それなりの人生を歩んでいたら、どこかの雑談のタイミングで、そんな質問くらい耳にすることはあるだろう。
人間関係が極端に制限された環境に身を置いていた僕でさえ、あの人に訊かれた覚えがある。
しかし、誰しもその答えについて、真剣に考えたりなどはしなかったはずだ。
その場の思い付き、ただ何となく近くにあった物を拾うように答えるだけ。
『女風呂を覗く』
『テストの答えを盗む』
『嫌いな人間を殴りに行く』
そんな決して表層に出てくることのない、自らの醜い欲望を。
悪用の可能性を無限に秘めたその能力を口にした瞬間、僕は後悔する。
なるべく目立たない行動を取るつもりだったのに、余計な事に首を突っ込んでしまった。
思えば、原因はあの転移魔法にある。
あれのせいで、当初の想定が大幅に狂わされた。
まあ、そもそも初めから想定など意味はなかったくらいの遅刻をしてしまっていたわけだが。
「この話は、ここだけに留めておいてくれない」
思い詰めたような顔で、姉の方がそう口にした。
「何言ってんすか!すぐに学校に報告した方が良いに決まってるす。ここまでコソコソしてるという事は、何か悪い事を企んでいる証拠じゃないすか」
妹の言っていることくらい、頭の回る彼女なら理解しているに違いない。
それでも姉の方の重い表情は消えない。
「一人、心当たりがある」
浅茅が「え、」と小さく声を上げた。
僕も内心驚く。まさか関係者の犯行だったとは。
「その子は、水魔法の使い手だった。そこまで秀でた成績ではないけど、唯一魔法操作だけは周りより群抜いて優秀だったわ」
ーーそうか、水魔法。
頭の中で欠けていたパズルのピースがはまる感覚があった。
「その子に一度見せてもらったことがあるの。手に纏った水の中に入れた物が消える手品みたいな魔法」
人間は普段物を見ているようで、実際は物に当たった光を見て生活している。
しかしサラダ油とガラスのように、屈折率が等しい物質同士だと、その境界で光の屈折が起こらなくなり、まるでその物が消えたかのように視認出来なくなる。
犯人はその性質を利用し、自らを透明人間に仕立て上げた。
それにしたって液状の魔力を全身に纏い、その屈折率を調整するなんて芸当、高難度なんて言葉では言い表せない程の神業だ。
蒼天生のレベルの尋常じゃない高さが窺えると同時に、気持ちは昂る。
ーーこれなら、僕の目的もきっと・・・・・・。
「でも・・・・・・なんで・・・・・・」
姉は両手で顔を押さえて、座り込んでしまった。慌てて妹が駆け寄っていく。
流石姉妹の絆といったところか。羨ましいとは思わないが、素敵だなとは素直に思う。
そんな心情、あの人には「嘘つくな」と罵倒されるのだろうけど。
「僕はただの通りすがりですから」
面を外し、僕は浅茅の方を見る。
視線に気づいた彼女は、こちらにコクリと頷いた。
何となく彼女には.正義感や責任感の強そうな印象を抱いていたので、「見て見ぬ振りは出来ません」とか言い出したらどうしようかと思っていたのだが、良かった。
一件落着か、と腰でも下ろしたくなったが、自動ドアの開く音に気を取られる。
ーーあれは、誰だ?
偶然にもドアの方を向いて立っていたので、入店してくる妙齢の女性をすぐに視認出来た。
「朝からうるさい音がしたと思ったら、貴方が絡んでたのね」
彼女はこちら、というより、はっきりと僕の目を見てそう言った。
振り向いた姉の表情は分からない。
代わりに浅茅の方を見遣るが、彼女は驚きのあまり開いた口が塞がらなくなっていた。
「柚月・・・・・・理事長」
意外な事に、浅茅が口にしたその名前には聞き覚えがあった。
飛行機のチケットを受け取る際に、いつもの下らない会話の後、あの人が最後の言葉として言い残した内容を思い出す。
「ユヅキってのがそっちに居るから、後のことはそいつに訊きな。アタシの次くらいには優秀だから」
一体どこの高校生が、理事長相手に気軽に質問出来るというのだ。
僕は遠くの恩人を、心の中で激しくなじる。