走る男
市街地を抜け出して、やがて開けた空間に飛び出した。あたりには薄い緑が蔓延している。公園だろうか、しかし見える範囲に人影はない。
男は走っていた。もう少し細かく言うと、先ほどからずっと走り続けていた。今朝目を覚ましたときから、なにか嫌な気配を背中に感じていた。顔を洗って、いつも通りにコーヒーを入れようとしたその時、背後の気配が一層近く迫ってきたのを感じて、走り出した。
安アパートの一室を飛び出し、まだシャッターの閉まった商店街を駆け抜け、通学中の小学生たちを追い抜き、ひたすら、ひたすら走った。どこまで行こうと気配はついてくる。男はいい加減走り疲れて、いっそ立ち止まってしまおうか、もしかしたら働き詰めでおかしくなっていただけかもしれないという思いが頭をかすめた。しかし、もし立ち止まったときポンと肩を叩かれたら、あるいはもっと乱暴に、腕をグッと引っ張られでもしたら、その一手で、自分の心臓は動くのをやめてしまうのではないか。根拠のない恐怖が男の足を前に進ませた。
緑の空間はずっと長く続いていた。日はだんだん高く昇っていき、紫外線の容赦の無さに、男はどうやら走り始めてからずいぶんな時間が経過したことを悟った。思えばいつからこの緑の中を走っていた?近所にこんな広大な公園などあった覚えがない。まっすぐ走っていたつもりが、いつの間にか同じ場所をぐるぐると回っていたのだろうか?
背中の隣人はもはや離れてくれそうにない。この調子ではいずれ自分の体力が尽き果て、足の動かなくなったところを押さえられるだろう。長いこと恐怖に曝され続けた男の心に、なにか妙なものが芽生えてきた。それで?何が目的なんだ?こうもしつこく一人の人間に付きまとうやつだ。どうせ碌なやつじゃないんだろう。ちょうど2年前、会社のビルの屋上から飛び降りて死んだあいつみたいに。
男はハッとした。どうして今あいつのことを思い浮かべた?そうだ、この背後のやつも、あいつみたいに、女を取られた恨みだとかで俺に喧嘩を吹っ掛けてきているのだろう。だったらいっそのこと買ってやろうか。一発好きに殴らせたところで会社に報告、俺もあいつも会社からは相応の処置を食らって、なんとか再雇用先を見つけた俺と、解雇を告げられたその日に自殺したあいつ。今度もそうやって明暗分かれるに違いない。
なんだか急に自身が湧いてきた。どっちみち今の仕事はつまらないと思っていたところだ。さあ殴るなら殴れ。それでお前は終いになるだろうが。男はついに足を止めた。そして、数日のうちにそれなりの社会的制裁を受けるであろう間抜けの顔を、一目拝んでやろうと、初めて後ろを振り返った。そのとき男の眼前に現れたのは、紛れもなく、2年前自分の顔を殴ったあいつだった。振り上げられた拳が迫ってくるのが、嫌にゆっくりに感じられた。
警察が目撃者への聴取を終えたのは、まだ昼食には早いくらいの時間帯だった。
現場に居合わせた人間が言うには、半狂乱の男が信号を無視して森林公園前の交差点に突っ込んでいき、乗用車にはねられたそうだ。男は病院に搬送されたが、程なくして死亡が確認された。警察は、身寄りもない男が貧しく淋しい暮らしに耐えかね発狂したとみて、悲運な事故だったとして捜査を続けていた。
「この男、2年間も職につかずに貯金を切り崩して生活していたそうじゃないか。」
「ええ、しかしここのところは酒を買う金がなくなっていたようで、それもあっての今度のことかと。」
「ああ、アル中ね。かわいそうなやつだ。病院でなにか言ったりはしなかったのか?」
「それが、ある人物の名前を繰り返し口にしたそうで、それが2年前まで勤めていた会社の元同僚の名前だと。しかもこの男、その元同僚との女性トラブルが原因で暴力沙汰になって解雇されたんだとか。」
「何?それなら事件の線もあるじゃないか。そいつは今どこにいるんだ。」
「いえ、実はその元同僚は2年前に男と一緒に解雇されて、そのまま自殺したと。」
「そうか、そういうことならまあ事故ってことになるか。」
「そんなところですね。」
警察官は、面倒事にならなさそうだとわかると一度大きく伸びをし、また後輩に話しかけた。
「いやあ、それにしてもどこか嫌な感じのする事故だった。俺も女関係にはルーズな方だったし、他人事にも思われんような気がしてな。」
「あれ、憂いと見せかけてモテ自慢ですか?」
後輩が冗談交じりに答える。
「いやいやまったく。まあ若い頃は揉め事と言うか、喧嘩になったこともあったかな。この男みたいに落ちぶれて死んじまうかもと思うと、なんだかな、背中に嫌な気配を感じるような気が...」