第6話 見えざるもの
朝の陽が差し始めた境内では、白砂が淡い光を返していた。
空はまだ眠たげな色をしており、神社の裏手にある古い石段には、前夜の露がまだ残っている。
木々の隙間からこぼれる光が、細い金の糸のように揺れていた。
美琴は、祭具を運び終えたところだった。
白装束の裾を片手で押さえながら社務所の裏を通り抜け、神楽殿へと向かう途中でふと足を止める。
静けさのなかにある、ただの朝の風景。それなのに、何かが違っていた。
空気の流れがどこか妙に澱んでいる。
微かに鼻をつく香の名残、風に乗る鈴の音の幻聴。
まるでこの境内だけが、他の世界と接続しているような錯覚。
──その瞬間、気配が生まれた。
「――おはよう」
ふいに背後から声がして、美琴は驚きもせず振り返った。
そこには朝倉悠馬が立っていた。
軍帽を手に持ち、やや無造作な髪が風に揺れている。
昨夜よりも幾分か疲れたような顔をしていたが、その眼差しは澄んでいた。
「――お早うございます、朝倉様」
礼を交わすと、朝倉はひとつ深呼吸しながら歩み寄った。
彼の目が、美琴の立つ位置を、あるいは彼女自身の内側を見透かすように向けられていた。
「静かですね、この神社は」
「ええ。朝は特に、音がないほどに……」
「なのに、不思議と落ち着かない……まるで何かが見ているような……そんな気配がする」
その言葉に、美琴のまなざしが微かに揺れた。
「それは……ここが『境目』だからかもしれません」
「『境目』?」
「こちら側と、あちら側。その両方に足をかけている者が、この社には多くいます」
朝倉はしばし黙り、境内の奥を見つめた。やがて、呟くように言葉を落とす。
「――君の中に……誰か、いるのか?」
その一言に、美琴の動きが止まった。
薄明の境内に立つ朝倉は、静かに彼女を見つめている。
問いかけたつもりはなかったのかもしれない。
しかし、ふと漏れたその言葉に、確かな実感が宿っていた。
「……どういう意味でしょうか」
美琴は祭具の拭き取りを中断し、顔を上げる。
目元は穏やかに整っているが、内心には小さなざわめきが広がっていた。
「昨晩、また夢を見たんだ」
朝倉は低く呟いた。『夢』と呼ぶにはあまりに生々しいそれは、夜ごと彼を侵す。
「また、声がした。『戻ってきた』……『今度こそ』……そして……『神子を、渡せ』と」
「神子……」
美琴は静かに繰り返した。まるで、その言葉に心当たりがあるように。
そのまま朝倉はゆっくりと前を見つめた。
「境内の奥、あの祠の扉。あの前に立つたび、不思議と胸が苦しくなる。何かが俺を引っ張っているように感じる……そして、どうしてなのか君を……美琴さんを見るたび、それが少しだけ、和らぐ」
美琴は何も答えなかった。ただ、微かに拳を握る。冷たい風が一筋、舞い散る落ち葉を運んでいく。
「君と話していると、懐かしいというか……違うな。もっと深い、既視感があるんだ。俺は君を、どこかで……」
「やめてください」
美琴の声が、そっと空気を切った。
朝倉は目を見開いた。
美琴は、苦しげに微笑していた。
「それ以上、言わないでください。もし『誰か』が私の中にいるのだとしたら……それは、私ではない誰かの声が、私を喰らおうとしているのかもしれないから」
しばしの沈黙。
その沈黙の中に、鳥の声さえ入る余地はなかった。
「それでも、俺は君と話したいと思ってしまう……もしかしたら、嫌なのかもしれないが……」
朝倉はそう言い、ほんのわずか距離を詰めた。
彼の言葉に、美琴の視線がわずかに揺れる。
自分ではなかった『声』に支配されてしまいそうになる恐怖。
それでも、この人の前では自分でいたいと思える不思議な安堵。
その瞬間──社の奥、祠の方から、かすかに木のきしむ音が響いた。
美琴と朝倉は同時にそちらを振り向いた。
誰もいない。
しかし、確かに。
何かがそこにいた。
(……何かが、変わり始めている?)
静かに美琴はそのように考えながら、目を静かに細めたのだった。
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