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ヒロトの過去

—ヒロトの視点—


 “買い物に行ってくれ”と、あの日、自分がほんの些細なお願いをしなければ――母さんは死なずに済んだかもしれない。



---



 まだ幼かった頃、碓氷(うすい)ヒロトはおとなしく、どちらかといえば家の中で本を読んだりゲームをするのが好きな子どもだった。外に出るよりも、部屋でじっとしている方が気が楽だったのだ。

 母親はいつも笑顔で、「外に遊びに行っておいで」と背中を押してくれる人だった。ヒロトの小さな手を引きながら、


「ヒロトは頭がいいから、もっと世界を見てみるといいのよ」


と優しく語りかけてくれた。


 だが、あの晩。



 「母さん、牛乳がもうないよ。ついでにジュースも買ってきてほしいんだけど……」



 寝る前に台所の棚を探していて、牛乳のストックが切れていることに気づいたヒロトは、母親に頼んでしまった。母親は困ったように笑いながら



「まったくヒロトは……もう遅いのに」



と言いつつも、冷蔵庫から空っぽの牛乳パックを取り出して、「少しだけ待ってなさい」と家を出た。


 ヒロトは何の疑いもなく、布団に入って母親の帰りを待っていた。もしかしたら、母親が買ってきたジュースを飲みながら一緒にゲームをする時間があるかもしれない――そんな、ごく普通の夜だった。


 ところが、その日の深夜、病院から父親に連絡が入り、ヒロトの母親が交通事故で帰らぬ人になったと告げられた。



---



 母の葬儀が終わった後、ヒロトの家の空気は一変した。父親は表面的には平然を装い、ヒロトに「お前は気にしなくていい」と優しい言葉をかけてくれる。

 けれども、夜中にふと目が覚めたヒロトが、居間の隅で小さな声を押し殺して泣いている父の姿を見てしまったとき――胸が締め付けられるように痛んだ。




 (母さんを失った悲しみは、父さんも同じどころか、もっと深いかもしれない……でも、それを僕の前では必死に隠してるんだ)



 父親は決してヒロトを責めることはしなかった。むしろ、普段以上に優しく振る舞ってくれる。だが、ヒロトには分かってしまう。あの夜、自分が「牛乳とジュースを買ってきてほしい」と言わなければ、母親は事故に遭わずに済んだのではないか――という思いは、ずっと心の奥底にこびりついていた。


 父の隠れた涙を知るたびに、ヒロトの胸には「もし、あの時」という後悔の念が強くなっていく。人に言えない罪悪感が、心を少しずつ蝕んでいった。



---




 時間が経ち、中学生になった頃だった。心のどこかで孤立感を抱えていたヒロトは、同じ学校へ通う一条白夜いちじょう びゃくやと親しくなる。白夜はふとしたときにノートに日記のようなものを書いており、その姿を見たヒロトが興味を示したのがきっかけだった。



 「お前、よくノートに何か書いてるけど……書くと、何か楽になったりするの?」



 その問いに、白夜は少し恥ずかしそうに笑って答えた。



 「うん……何でもいいんだけどさ。頭の中にあるモヤモヤしたものを紙に書くと、心が落ち着くんだよ。嫌なこととか、辛いこととか、嬉しかったことでもさ」



 それを聞いたとき、ヒロトの胸の奥で何かが小さく弾けた。“後悔の想い”は言葉にもできず、父親にも相談できない。でも、紙になら書けるかもしれない――。

 それ以来、ヒロトは小さなノートを買ってきて、もし母親が事故に遭わずに帰ってきたら、どんな生活が続いていたのか……“もしあの時、買い物に行かなかったら”という“もしもの物語”を書き始めた。


 ノートには、平穏な家庭の風景が綴られた。父親と母親が一緒にテレビを見て笑い合い、ヒロトが学校での出来事を話し、母親がおやつを作ってくれる。そんな“もう一つの世界”が、文字の中で広がっていく。

 書いている間だけは、ヒロトの心は少しだけ軽くなる気がした。現実がどうあれ、“もしも”の世界には母親も笑顔でそばにいて、父親だって泣いたりしない。



 (やっぱり母さんがいてくれると、すごく幸せだ……)



 ノートの中だけの幸せ。けれど、ヒロトにとっては、その疑似体験こそが大きな救いだった。



---




 高校生になってからも、ヒロトはときおり日常を書き留めたり、“もしもの世界”を綴ったりしていた。表面上は穏やかで真面目、成績も悪くない普通の高校生。でも、心の奥では“後悔”という名の傷が癒えないまま残っていた。


 そんなヒロトに、ある日突然、違和感が訪れる。ペンを握って文字を書いているとき、なぜか胸の奥が重苦しく痛み、頭の中でかすかな声が聞こえるような気がしたのだ。



 (書け、もっと書け……そうすれば、戻せるかもしれない……)



 母親を失わなかった世界を、本物の現実として“取り戻せる”――そんな根拠のない希望に煽られる一方、これはただの思い込みに過ぎないという冷静な自分もいる。二つの感情のあいだを、ヒロトは揺れ動いた。



---



 そして、今――。

 白夜、ショウタと三人で遊びに来たショッピングモール。テストが終わった解放感もあって、気ままに別行動をしていたヒロトは、ふとしたはずみに胸がざわついた。



 「あれ……こんなところにあるなんて……」



 目にとまったのは、古い書籍の装丁を模した電子端末の特設コーナー。ノスタルジックなデザインにひかれて手に取った瞬間、頭の中で再びあの囁きが甦る。



 (もし、母さんがあの時、事故に遭わなかった世界なら――もっと上手く描けば、今からでも書き換えられるんじゃないか?電子端末じゃ、だめだ。いつもの。いつものノートだ)



 文字どおり“書き換える”という表現が頭の中を駆け巡る。何かに導かれるようにトイレへ足を向け、閉ざされた個室でペンをとる。その瞬間、強烈な痛みが脳裏を走った。



 (ああ、頭が割れそうだ……でも、書きたい、書かなきゃ……母さんが死なない世界を……!)



 必死でペンを走らせ、文章を綴ろうとした刹那――赤黒い靄が視界の端を覆いはじめる。胸の奥から込み上げるのは、深い悲しみと後悔、そして虚無。

 その“思い”が、ノートを介して呪いとなり、現実を浸食し始めたのだ。



 「う、うあぁ……頭の中で声が……消えてくれ、頼む……!」



 とめどなく湧いてくる“もしもの世界”への執着。黒い靄はヒロトの周囲を包み込み、何かをぶちまけるように不気味な形をとりはじめる。視界が歪み、トイレの壁すら淀んだ色に染まっていく。



---




 ヒロトの意識は朧げだ。何が現実で、何が空想なのかすら分からなくなる。母を救えなかった世界を作り直したい――その強い“書く衝動”が、自分を蝕みはじめていると感じる。



 「……っ、誰か……助けて……」



 呟きながら薄れゆく視界の中、白夜とショウタの声がどこか遠くに聞こえた気がした。だが、もはや身体を動かす力も残っていない。悲しみと罪悪感、そして“あり得ない願望”だけが、呪いに形を与えようとしていた。


 もし、あの時――。

 その言葉を何度も何度も繰り返しながら、ヒロトは自らの闇に沈み込んでいく。



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