神歴二十五の年 神託
春の夜が静かに訪れる。
空に薄く柔らかく漂う雲が、優しい風に乗って形を変え、月の光が水面のように揺れる。
日中の暖かな日差しが残した余韻が、土の香りと混ざり、草木の新芽を包み込むように漂う。
小川のせせらぎに重なる虫たちのささやきが、静寂を破らぬように、そっと耳に届く。
花びらが夜風に舞い、地上に咲く花々の間を優雅に踊りながら降りてくる。
夜の帳が降りても、冷たさはなく、春のぬくもりが一つ一つの瞬間に息づいている。
星々が澄んだ空に瞬き、夜は静かに、しかし確かに、明日への希望を胸に抱いている。
そんな春の空気を吸い込みながら、日々の日課となった鍛錬を終え、汗を拭き取ったギデオンは、その姿を眺めていたハンナに声をかけた。
「なあ、歌の練習は良いのかい?」
そう言うと、
「ええ。もう今日の分はお終い。あなたこそもういいの?」
と、透き通る声でハンナが答えた。
夜の月明かりでその髪はより深い蒼の輝きを放ち、そういったことに疎いギデオンを持ってしても綺麗だと思わせる雰囲気があった。
「おいおい、あんたまで師匠みたいなこと言うなよ。もう今日は匙も持たねえよ。」
そう言って笑いながら、手をひらひらとさせると、教会への道を歩き出した。
ギデオンの半歩後ろをハンナが、にこにことしながらついてくる。
このまま二人で神殿に行き、祈り、ハンナの家の前まで送り届け、ケセフと話す。
それがギデオンの最近の定番となりつつあった。
しかし、その日は違った。
穏やかな月明かりの元、教会に付き、眠そうなレーリアに案内されて祈りの間で跪く。
ハンナもその隣に跪くと、手を組んで祈りを捧げた。
もっと、もっと俺に守る力を。
いつからか悪夢は見なくなっていた。
ただ、いつも夢に、とてつもない聖気を放ち、太陽がそこにあるのか、というくらいの熱量を放つ剣を持った自分が出てくる。
隻眼だが、落ち着いた眼差しで、こちらをじっと見ている歴戦の戦士の風格を漂わせる自分は、イーサンと同じか、少し若いくらいの年に見える。
その風格はきっと、桁違いな数、重さのものを守り抜いて来た中で身についたのだろう。
その自分が、ただじっと見つめてくるのだ。
何かを訴えるように。
まるで、「早くここに来い。」と言わんばかりに。
いつも自分は一歩も進めず、いつの間にか目が覚める。
アレはきっと、いつか遠い先の日の俺だ。
そう、直感が告げている。
あの様になりたい。ならないといけない。
片目を失うほどの苦難が待つなら、それを乗り越えるだけの強さを。
その犠牲と引き換えに守りたいものがもっと出来たなら、きっと自分はもっと強くなる。
そう確信しながら、いつもの様に祈りを捧げていた。
すると、いつもと異なることが起きた。
目の前、神を讃える金色の美しい装飾と、自分との間に突如光が現れた。
その光に気付いた瞬間、その姿を見る前に頭をより深く下げ、同時に声が聞こえた。
『よい。顔を見せよ。』
神が居られた。
その神気と、辺りに漂う聖なる空気が、自身に染み渡っていく様に感じる。
「ご無沙汰しております。お会いできて光栄です。」
そう言って、顔をあげたギデオン。
信心深さから出た、ギデオンらしからぬ丁寧な物言いに、隣で同じく頭を下げていたハンナは思わず、神よりギデオンを見た。
そうして、はっとなった後、「ご機嫌麗しくーーー」と、挨拶を続けようとした。
『よいよい。今日はギデオン。お前に要があって来たのだ。』
ハンナを遮り、しかし笑顔を浮かべた神が語る。
『昏きもの、のことだ。』
その言葉に二人とも気を引き締めて、真剣な表情になった。
『近頃少し侵攻の頻度が下がっている。それはどうやら新大陸で力を蓄えている為らしいのだ。』
「なっ!あれ以上力を持つだ…ですか。」
焦りにより、思わず口調が乱れるギデオン。
無理もない。撃退、討伐を続けて、危機が去りつつあると皆思っていたのだから。
『にわかには信じ難いのはわかる。しかし事実だ。』
そう言うと、神は目の前に板状の薄い光を作り出した。
『我の全知全能がそう言っておる。そして、それらを絶やすには新大陸へ向かうしかない、ともな。』
つまり、敵の本拠地に突撃をするしかない、と言うのだ。
ほぼ確実に死ぬ。
そして、わざわざ自分に会いに来て、伝えておられる意味はきっと…
『お前にはその役目に着いて貰おうと思っている。足は用意した。』
神はそう言うと、光の板に海辺に停められている一艘の船を見せた。
来ると薄々勘づいていながらも、いざ伝えられると衝撃を受け、なんと返事をするか考えていたギデオンより先に、ハンナが口を開いた。
「主よ、横から失礼致します。その任、ギデオン一人で向かうのでしょうか。」
との、問いかけに、
思わずギデオンはハンナを見た。
その表情はどこか必死な様子に見受けられた。
『いや、向こうに教会を建てて、我の力が及ぶ様にもしたいのだ。役立つものは連れていくといい。』
神はそう答えた。
「わかりました。準備をします。」
きっとこれがその一歩なのだ。
踏み出せなかった自分が、あの鮮烈なまでの強さを感じさせる自分になる為の。
そう感じたギデオンは、先ほどまでの驚愕や焦燥を追いやって、一も二もなく言ってのけた。
『よい。では、立つ前に知らせるのだ。神殿には辿り着きやすいようにしておこう。』
そう告げると神は光に包まれて姿を消された。
「ねえ、そんなにあっさり決めてよかったの?生きて…生きて帰ってこれるかもわからないのよ?」
ギデオンにしがみついて、そう言うハンナに、
「俺は…俺は守るために死ぬことはあっても、身勝手には死なないさ。」
と言いつつ、ふうっと息を吐くと、
「神様の導きに従って、か弱きを愛し、守って、その身に愛と正しさを持つって師匠とも約束したしな。」
そう言って、八重歯が覗くほど笑った。
しかし、その目には確かに聖気と、燃え盛る様な強い意志があった。
ハンナは何も言えなくなり、ただギデオンの腕を掴んでいた。
春の柔らかな月明かりで、日中よりぼんやりとした明るさの中、穏やかな空気の春の夜に、
ギデオンは静かに闘志を燃やし始めた。
これは彼の一歩でもあり、彼女らの一歩であり、世界の大きな一方でもあった。