神歴第十二の年 聖戦
空は暗く濁り、空気は澱みつつも刺す様な威圧感に染まり、怨嗟の声が響くーーー日頃穏やかな草木が繁り、動物や人の子らの憩いの場であるその丘は、今や戦場となっていた。
その触手が巨躯が、毒牙が、闇が近づくたびに、全身に凍りつくような寒気が走った。
皮膚は粟立ち、毛が逆立つ。
だが、ケセフはその恐怖を心の奥に押し込み、蒼い剣を振りかざした。
ケセフは昏きものの触手を一太刀にし、その醜い体の中央まで、蒼き剣線が走った。
その場で、湿り気を帯びた音を立てて倒れ、崩壊していく様を顧みる事なく、下卑た笑いを浮かべた巨躯と切り結んだ。
「ぶははは…潰して、取り込んでくれるわ。」
地の底から響く様な声と、熱く穢れた鼻息を浴びせながら、昏きものが言った。
「貴様と交わす言葉は持たない。」
ケセフは冷徹に言い放ち、刃を交わした勢いを利用して空高く跳び上がると、蒼い光をまとった剣を一直線に突き立てた。
その一瞬、暗黒の空に閃光が走り、戦場全体を照らした。
後にギデオンは、その光景を「まるで彗星のようだった」と回顧している。
貫かれた昏きものは、凍り、砕けて、消え去った。
ケセフの蒼い剣は、神々しい聖気と共に、悪きものを全て凍らせる冷気と、押し流して浄化する聖なる水の奔流を纏っていた。
「この様な事が起こるとは…。驚いても居られない。神よ、主よ。感謝します。私に大切なものを守る力を…導く力をお与え下さい。」
その言葉に呼応する様に、剣から出る冷気と水流は勢いを増し、ケセフはそれらを使いこなして、凍てつかせ、押し流して、昏きものと戦っていた。
獣たちも奮闘していた。
白銀の狼は、吠えながら、その牙で、毒牙を持つ昏きものの喉笛に喰らい付き、
巨躯の熊は、暴虐性をこれ見よがしに放つ巨躯の昏きものと競り合い、
黒く輝く豹は、触手を爪と牙で切り裂いていった。
ギデオンは彼らが討ち漏らしたものが、それ以上先に進まぬ様、紅く燃える様な刀身を苛烈に振るっていた。
まだわからないことだらけであったギデオンにも、確実に分かることがあった。
ここを通してしまったら…きっと家族に、世界に、この穢れたもの達が襲いかかるのだろう。
そして、それは毎夜見る悪夢に繋がっていくのだと。
いや、もうその時が来ているのだ、とも。
まだ少し震える手に力を込めて、剣に纏わせる聖気を強め、勇気を振り絞った。
それを受けて、握り締めた剣の、その刀身から、熱と美しく燃え盛る炎が漏れ出た。
「なんだよ、これ。
いや…なんだっていい。俺はもっと守るための力がいるんだ!力を貸してくれ、神よ!」
そう口に出して己を鼓舞すると、炎は一層勢いを増して猛り立った。
轟々と音を立て、辺りの瘴気を焼き払うそれは正に聖なる焔。
その聖なる焰を纏う剣を、もう迷うことなく昏きもの達へと突き立てた。
聖なる炎は昏きものを焼き払い、浄化し、消し去って行った。
「俺はまだまだやらなきゃいけない。此処を悲劇の始まりにしないために、力を貰って生まれ落ちたから!」
必死の表情で、聖なる焔を纏い、切り込む様は、英雄と言うに相応しかった。
レーリアが丘に辿り着いた時、戦線は、やや優勢と見えたが、
動物達に異変が起こったのはすぐ後であった。
昏きものに喰らい付いた牙から、切り裂いた爪から、力を込めるために、合わせた掌から、その穢れた瘴気に蝕まれたのだ。
色彩を失い、徐々に苦しみ始めた動物達。
体は暗く濁り始め、口からは昏きもの達のような苦痛と怨嗟に満ちた唸り声が漏れ出ている。
瞳から光が消え始め、動きが目に見えて鈍くなった。
生きて、体を蝕まれ、作り替えられる苦痛。
それは想像を絶する苦痛であったが、なんとか堕落せず、昏きものにならずに住んでいたのは、
ケセフと共に長く居たことで、神の残り香に触れる事が多く、この度の戦いに使命感と、
ケセフや仲間への愛を持って集ったことで、獣達にも僅かばかり聖気を内包していられたからに他ならない。
そうして堪え、自我が消えるのを抑え込みながら、なんとか闘ったが、討ち漏らした昏きものの数が増えていた。
ギデオンは、それらを相手取り、聖なる焔を煌々と輝かせ、必死の形相で戦っていた。
昏きものという絶望と、ケセフやギデオン、獣達という希望が入り乱れて、壮絶な戦いを繰り広げる。
レーリアはその光景を前にして、胸が締め付けられながらも、「為すべきを成しましょう。我が主と、愛するもののために。」そう口にして行動に移した。
森を抜けてすぐのところで、神域の葉を掲げながら、
「ここは神の庭、御神の居られるありがたき、聖なる場所。
一切の穢れは消え去り、聖なる気が溢れる。
愛しき神の子ら、人の子ら、獣達にどうか祝福を。」
そう祈りを捧げた。
神域の葉から、聖気が溢れ出し、波動のように辺りへ広がっていくーーー
レーリアと、その葉を中心に、森や、草原、そして戦場と成り果てている丘を、聖気が瞬く間に包んだ。
祈りの言葉を捧げるたび、温かな光が際限なく胸の内から溢れ出すように感じた。
主が共にいてくださる。
この戦場においても、主の御力が私たちを包んでいる。
そう感じられたのだ。
放たれた聖気は、ケセフとギデオン、動物達の力を増し、昏きものによる世界への、人への、獣達への汚染と侵食による傷を清めていた。
辺りの瘴気が打ち払われ、獣達を蝕む穢れも払った。
ケセフと、ギデオンには傷を癒やし、疲れを軽くして、更に戦う力を与えた。
澄んだ風が一つ吹き、彼らの背中を押して行った。
世界が僅かに安堵の息をついたか、神の力添えがそこにあったかのようだった。
こうして、ケセフが最後の一体を切り捨てた時、
漸く辺りは清浄な空気により、空の青さと、暖かな春風を取り戻した。
柔らかく吹く春風を吸い込み、
「やっと…終わりましたか。」
そう言って、長く、深く息を吐くと、ケセフはそこに座り込み、近寄ってきた動物達を労い、撫でた。
「なんで師匠はそんなに余裕なんだよ…。」
ギデオンはその場に仰向けに倒れ込み、荒い息を吐きながら、目を閉じた。
全身が重く、疲れ切っていたが、胸の中では少しの達成感を噛み締めていた。
これで守れた…全て無駄では無かった。
と、自身に言い聞かせるように。
二人にレーリアが駆け寄ってくる。
「二人とも、いや、皆んなお疲れ様。主よ、皆を守って下さり感謝します…。」
そう言いながら、その場に膝をついて、
「我らは御心と共にあり、主の導きに従って、か弱きを愛し、守って、その身に愛と正しさを持って立ちます。どうか我らに皆を守れるお力添えを下さいますよう…。」
そう祈りを捧げた。
神歴十二年の春。
世界を守るための戦いの始まりと、英雄の覚醒、やがて大きく歴史を動かす変化がこの日起こった。