神歴第四の年 愛と制約
春の暖かさと、麗らかな陽気にも関わらず、
ケセフとゼミーラの二人は、何処か悲痛な面持ちで神殿の前に居た。
普段は聖なる気と、優しさを溢れんばかりにしているケセフの瞳は弱々しく、
ゼミーラの、深い海を思わせる美しい瑠璃色の髪も、何処か色彩を失っているようだった。
どちらともなく目を合わせると、やがて神殿の奥へと歩き出した。
集まってきた魂を天に送りながら、少女は扉の開く音に振り向いた。
『よく来たね……何があったと言うのだ?』
これから断罪されるものもかくや、と言うほどの表情で二人が佇むのを見て、少女は思わず問いかけた。
その問いかけに、
「それが…僕はゼミーラを」
「私は、ケセフを」
『愛しているのです』
二人同時にそう言い放った。
『なるほ…ど?
つまりお前たちの悩みはなんなのだ?
余程のことでなければ、伝道師といえどここに辿り着けないというのに。』
少女の再びの問いかけに、答えようとするケセフを止めて、ゼミーラが答えた。
「私は、海で彼に救われた日から、彼のことを慕っていました。
先日想いを打ち明けて、受け入れて貰えたのです。
私は彼と結ばれたいのです。」
穏やかに、寄せては返す波のような間隔で、その透き通る穏やかな声で想いを話した。
「そして、そもそも私はその為に、
海から陸へ、鯨から人へと成らせて頂いたのです。
しかし、彼は神の子、私は神に作り変えられた人。」
徐々に声の張りが弱くなり、表情は暗くなってゆく。
「血の繋がりがもしあれば、生まれてくる子は祝福を受けられず、すぐに命を落とすでしょう…
我が儘なのです。私の我が儘なのですが、
彼と結ばれて子を成して…そのように生きたいのです。」
そうして、最後は悲痛な想いが、叫びが、荒れる海の波音のように響いた。
ケセフは彼女の背中を摩り、神をじっと見つめながら言った。
「私も彼女を愛しています。
彼女の歌が、優しさが、私に更なる力をくれるのです。
もしも…もしも、お役目の事がなければ、いっそ私を鯨に変えてもらった事でしょう。」
普段のケセフから想像もつかぬような事を、神の御前で言ってのけた。
「失礼をお赦しください。
しかし、どうか、これまで以上に全てを注いで役割を果たすと誓います。我々が結ばれる手段をお教え下さい…。」
そしてそう締め括った。
『そうか、よくわかった。非礼については不問とする。
お前たちの思慮深さと、互いへの想いの強さには感服した。』
少女は静かに笑みを浮かべて続けた。
『我から答えを授けよう。
お前たち二人は』
ケセフとゼミーラは、次の言葉を固唾を飲んで待った。
その答えを聞く直前、二人はまるで時が止まったかのように思えた。
『お前たち二人は結ばれてよい。』
二人は感激のあまり抱き合って涙した。
少女は二人の様子に苦笑しながらも、
『近しいものと交わることは禁忌だ。
ただ、考えても見よ。お前たちはそもそも神の子の子、そして白鯨の娘であろう?
神である我とて、その魂と血の繋がりを絶ってまで作り替えることなどしない。それは命への冒涜である。』
そう説明した。
こうして、神の許しと祝福を得て、ケセフとゼミーラはついに結ばれることとなった。
ケセフの瞳には聖気と慈愛が戻り、ゼミーラの髪は真夏の空と海のように輝いた。
神に何度も礼を言い、来た時とは異なる足取りで、春の野を歩いて帰った。
冬の寒さを共に耐え抜き、幾度も互いを支え合ってきた二人は、今や誰にも引き離せない存在となっていた。
だが、この幸福な瞬間が訪れたのも束の間、ケセフはすぐに新たな使命に没頭することになった。
神から授かった教えを記録するため、彼はしばらくの間、机にかじりつき、神の御言葉を自身の思いの丈も込めながら書き留め続けた。
誰も自分たちのように思い悩まず済むように、と。
彼がその仕事から解放される日は、少し先のことだった。
結果的に結ばれるその日は延びたが、ゼミーラは気にしていなかった。
彼女は窓辺に立ち、外の景色を眺めていた。
そこには色とりどりの花々が咲き乱れ、暖かな陽射しがすべてを包み込んでいた。
誰もが冬の鬱屈とした気分を忘れ、笑顔とともに春を謳歌している。
ゼミーラは、心の奥底から感じる幸福に微笑み、ケセフの背中に向かって静かに囁いた。
「今日もまた、あなたの隣にいられる。私は幸せです…」
そして彼女は、その優しい声を響かせるように、また一つ新しい歌を紡ぎ始めた。
世界そのものが、まるで二人の新しい愛の始まりを祝っているかのようだった。